晴海通りの銀座・築地近くにある万年橋のことではありません、念のため。
隅田川に架かる橋ではないのですが、小名木川の一番隅田川寄りにかかる橋
で、中央区の浜町方面から来ると清洲橋を渡り左斜め前に見えるのが小名木川
です。
小名木川は旧中川から隅田川まで東西におよそ4.6キロほど延びている川で
江戸初期にはもうすでに存在しています。
この橋も江戸時代初期からある橋です。行徳から塩や物資を運ぶのに掘らせた
と言われている小名木川の隅田川へ吐き出すところに架かっていて、ここからは
左に清洲橋、右に新大橋が眺めることができ、川岸にはテラスがあり更に高い
位置には隅田川を見下ろす史跡庭園があり松尾芭蕉の像があります。
ここから見る清洲橋、新大橋はなかなか綺麗な眺めです。
隅田川を見つめる芭蕉さんです。万年橋はちょうどこの後ろの方にあります。
広重や北斎などの万年橋を描いた絵を見ると、背景には富士山が描かれてい
ますので江戸時代はさぞや見事な富士山が見られたものでしょうが、今やこの
近辺の隅田川沿いは高層ビル群が並んでおります。川辺には遊歩道が延びてい
ますから清洲橋や永代橋の隅田川の川っぷちの散歩のついでに万年橋にも立ち
寄れます。
横から見た万年橋。手前の隅田川に合流するところ。
何度も言うみたいですが、私の子供の頃は隅田川沿いの遊歩道や高層ビル群な
んてなかったので今はまるで別の川岸のようです。もっとも経済の高度成長期に
かけてはひどい臭いが漂っていましたが今はそれも無くなりました。
上は江戸時代の地図。下は現在です。水路ですから基本的にはそう変わりません。
赤い線は首都高速道路です。隅田川から右へ横に走るのが小名木川です。江戸
時代には清洲橋はまだありません。しかし新大橋はありましたので芭蕉は新大橋
を自身の俳句に詠んでいます。
「ありがたやいただいて踏む橋の霜」
江戸時代の新大橋は現在よりもちょっと位置がちがっております。万年橋より後に
建設された新大橋を芭蕉は目にしていたのでしょう。
万年橋も永代橋も相対するネーミングですね。なかなかオツな対比です。
小名木川の隅田川への突き出し、芭蕉像のところに上がるとこんなのがあります。
江戸時代の頃の万年橋が描かれています。木の橋はやはり風情がありますよ。
橋の下に描かれている船は塩でも運んで来て今や隅田川が目の前というところ。
かつての姿しばし留めん。こういうのを芭蕉翁の横においてやるって気持ちが
嬉しいね。いきな計らいっていうか。泣かせます。
このすぐ近くの芭蕉神社に芭蕉庵跡という石碑もあります。
小名木川は昔は水がきれいだった、と良く母親が言っていましたが、私の子供
の頃でもまだまだきれいで魚が釣れましたし、ウチの裏の川岸は落ちやすいの
で、近所の母親たちは子供が川で魚を取ろうとするのを一番心配したのだとか。
事実、親が目を離した隙に川に落ちて水死した子供がいたのをまだ記憶してま
す。当時は土佐衛門は今ほど珍しくはないのですが、やはり近くの顔見知りで
そういうことが起きるとねえ、やはりそりゃショックですよ。もう可哀想で。
声のかけようもありゃしません。慰めようがないってやつです。
また小名木川にはポンポン船と称するエンジン付きの船が走っていて、高橋の
女学校へそれに乗って通って来ていた女友達がいた、とも母親は良く話してお
りました。無論戦前の話です。今の小名木川は閘門があって隅田川と潮位調節
が出来るようになっています。まあ、ミニパナマ運河みたいなもんです。もっとも
あっちの方は船が通るたんびにえらいお金がパナマ政府に入りますが。もうね、
規模がまるっきり違いますがね。ポンポン船の料金は何銭とか言ってましたが、
もう忘れました。どこかに書いておいたのだけど。
ここから高橋はすぐ近く。たかばし、と濁ります。ここが大事です。濁らないで
発音すると下町の人間じゃないって分かっちゃいます。高橋は藤沢周平とかいろい
ろな時代小説にも出てきますので割と馴染みのある町名でもありますね。
高橋のところは昔都電が走っていました。橋のそばの、老舗のどぜう屋伊せ喜は
まだありますがもう代がとっくに替わっているでしょうね。ずいぶん昔に行った
ことを記憶してます。また昔は橋際に小さな釣り道具屋さんがありました。ここ
でずいぶん釣竿を買ったものです。
柳島の方から来る電車でね、たしか門前仲町を経て月島へ行くやつです。柳島って
聞いて、柳橋を連想し料亭をイメージするのはもう少なくなって来ました
何かこう華やかな連想をさせてくれたもんです、柳島って名前は。でももうありません。
江東区と墨田区の境あたりです。昔の本所区じゃあないでしょうか。あそこから
業平、浅草橋、浅草吉原ってのはそう遠くないので、大人になったら行ってみたいな、
とかね。柳島であれ、柳橋であれ、ともかくまだ未成年にとっちゃあ、あっちの方は
吉原とならんでそういう大人の夜の社交場のイメージがありましたから。
隅田川を、すぐ下に見る料亭の二階あたりで、島田に結った姐さんの三味線で一
緒に小唄か端唄でしっぽりと、なんてね。縁でこそあれ~♪ あ、こりゃ新内だ。
万年橋も他の多くの橋同様に戦災の復興で昭和5年に架け替えられたのであり
ました。
隅田川に架かる橋ではないのですが、小名木川の一番隅田川寄りにかかる橋
で、中央区の浜町方面から来ると清洲橋を渡り左斜め前に見えるのが小名木川
です。
小名木川は旧中川から隅田川まで東西におよそ4.6キロほど延びている川で
江戸初期にはもうすでに存在しています。
この橋も江戸時代初期からある橋です。行徳から塩や物資を運ぶのに掘らせた
と言われている小名木川の隅田川へ吐き出すところに架かっていて、ここからは
左に清洲橋、右に新大橋が眺めることができ、川岸にはテラスがあり更に高い
位置には隅田川を見下ろす史跡庭園があり松尾芭蕉の像があります。
ここから見る清洲橋、新大橋はなかなか綺麗な眺めです。
隅田川を見つめる芭蕉さんです。万年橋はちょうどこの後ろの方にあります。
広重や北斎などの万年橋を描いた絵を見ると、背景には富士山が描かれてい
ますので江戸時代はさぞや見事な富士山が見られたものでしょうが、今やこの
近辺の隅田川沿いは高層ビル群が並んでおります。川辺には遊歩道が延びてい
ますから清洲橋や永代橋の隅田川の川っぷちの散歩のついでに万年橋にも立ち
寄れます。
横から見た万年橋。手前の隅田川に合流するところ。
何度も言うみたいですが、私の子供の頃は隅田川沿いの遊歩道や高層ビル群な
んてなかったので今はまるで別の川岸のようです。もっとも経済の高度成長期に
かけてはひどい臭いが漂っていましたが今はそれも無くなりました。
上は江戸時代の地図。下は現在です。水路ですから基本的にはそう変わりません。
赤い線は首都高速道路です。隅田川から右へ横に走るのが小名木川です。江戸
時代には清洲橋はまだありません。しかし新大橋はありましたので芭蕉は新大橋
を自身の俳句に詠んでいます。
「ありがたやいただいて踏む橋の霜」
江戸時代の新大橋は現在よりもちょっと位置がちがっております。万年橋より後に
建設された新大橋を芭蕉は目にしていたのでしょう。
万年橋も永代橋も相対するネーミングですね。なかなかオツな対比です。
小名木川の隅田川への突き出し、芭蕉像のところに上がるとこんなのがあります。
江戸時代の頃の万年橋が描かれています。木の橋はやはり風情がありますよ。
橋の下に描かれている船は塩でも運んで来て今や隅田川が目の前というところ。
かつての姿しばし留めん。こういうのを芭蕉翁の横においてやるって気持ちが
嬉しいね。いきな計らいっていうか。泣かせます。
このすぐ近くの芭蕉神社に芭蕉庵跡という石碑もあります。
小名木川は昔は水がきれいだった、と良く母親が言っていましたが、私の子供
の頃でもまだまだきれいで魚が釣れましたし、ウチの裏の川岸は落ちやすいの
で、近所の母親たちは子供が川で魚を取ろうとするのを一番心配したのだとか。
事実、親が目を離した隙に川に落ちて水死した子供がいたのをまだ記憶してま
す。当時は土佐衛門は今ほど珍しくはないのですが、やはり近くの顔見知りで
そういうことが起きるとねえ、やはりそりゃショックですよ。もう可哀想で。
声のかけようもありゃしません。慰めようがないってやつです。
また小名木川にはポンポン船と称するエンジン付きの船が走っていて、高橋の
女学校へそれに乗って通って来ていた女友達がいた、とも母親は良く話してお
りました。無論戦前の話です。今の小名木川は閘門があって隅田川と潮位調節
が出来るようになっています。まあ、ミニパナマ運河みたいなもんです。もっとも
あっちの方は船が通るたんびにえらいお金がパナマ政府に入りますが。もうね、
規模がまるっきり違いますがね。ポンポン船の料金は何銭とか言ってましたが、
もう忘れました。どこかに書いておいたのだけど。
ここから高橋はすぐ近く。たかばし、と濁ります。ここが大事です。濁らないで
発音すると下町の人間じゃないって分かっちゃいます。高橋は藤沢周平とかいろい
ろな時代小説にも出てきますので割と馴染みのある町名でもありますね。
高橋のところは昔都電が走っていました。橋のそばの、老舗のどぜう屋伊せ喜は
まだありますがもう代がとっくに替わっているでしょうね。ずいぶん昔に行った
ことを記憶してます。また昔は橋際に小さな釣り道具屋さんがありました。ここ
でずいぶん釣竿を買ったものです。
柳島の方から来る電車でね、たしか門前仲町を経て月島へ行くやつです。柳島って
聞いて、柳橋を連想し料亭をイメージするのはもう少なくなって来ました
何かこう華やかな連想をさせてくれたもんです、柳島って名前は。でももうありません。
江東区と墨田区の境あたりです。昔の本所区じゃあないでしょうか。あそこから
業平、浅草橋、浅草吉原ってのはそう遠くないので、大人になったら行ってみたいな、
とかね。柳島であれ、柳橋であれ、ともかくまだ未成年にとっちゃあ、あっちの方は
吉原とならんでそういう大人の夜の社交場のイメージがありましたから。
隅田川を、すぐ下に見る料亭の二階あたりで、島田に結った姐さんの三味線で一
緒に小唄か端唄でしっぽりと、なんてね。縁でこそあれ~♪ あ、こりゃ新内だ。
万年橋も他の多くの橋同様に戦災の復興で昭和5年に架け替えられたのであり
ました。
恥ずかしい限りです。いつもいつもありがとうございます。
「あかね空」の永代橋は映画公開前から話題になって
いました。ある意味あの映画の売りものだったかも
知れません。日本映画ももっと昔のように時代モノを
多く製作してくれると良いのですが。
このままだと時代劇を知る俳優さんがいなくなりそうで。
私の読む本には、よくよく出てくる地名や橋ですので、懐かしく勘違いをするほどです。
“高橋”を“たかばし”と濁って発音することは、本などでは得がたい知識です。
先日やっと「あかね空」を観て参りました。永代橋が唸らせるほどに、綺麗でした。江戸の橋の立派な結構が、その場にいる様な錯覚をさせる見事な出来でした。
万年橋の周りも大いに見る価値ありそうですね。
この“橋シリーズ”を読ませていただいて、気分だけでも小旅行に浸れるひとときがありがたいです。