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ラテントピック・一語一絵 その12

2021-03-06 07:36:35 | ラテントピック・一語一絵
Libertad Lamarque

リベルタ・ラマルケ

アルゼンチン人。タンゴ歌手。女優。1908年生まれ。
リベルタ(自由)の名前の謂れは、彼女が生まれた時に父親が
政治的な理由で投獄されていて自由に飢えていたためにつけ
られたとか。そう言えば名前としてはあまり聞かない。


アララ! 出だしから書き溜めておいたいくつかの文章を間違
えて消してしまった。保存のし忘れだ。今更だが保存した後の確認
をしないとダメなのだよね。前段が消えてしまったので以下の文章
から唐突に始まります。

お断りしておくが、タンゴの詳しいことは高場将美さんのお書き
になった本が詳しいのでそちらを見て頂くとして、リベルタ・ラマ
ルケはタンゴ歌手であるのと同時に映画俳優としても数多くの映画に
出演し、生涯に60本以上の映画に出ています。60本は多いよね。
40本くらいがメキシコでのものだ。そもそもラテンアメリカは
映画好きな民族だ。今は知らないがキューバなんかは屋外上映が盛ん
だ。どの国でも映画は好まれる。かつては東京でも夏の夜に小学校の
中庭を利用して映画が上映されたものだ。

リベルタは7才くらいからステージに立っていたようだから歌手と
してのキャリアは相当長い。チリ、プエルトリコ、キューバなどラテン
諸国でのツアーも行っているし人気があった。映画ではルイス・ブニ
ュエルの監督作品にも出ている。メキシコに長く住んでいてメキシコ
での映画作品が多い。メキシコ人俳優と言えばカンティンフラスを
思い出すな。

リベルタのメキシコの生活が長いのは、メキシコの方が映画の製作
事情が良かったからとか、ハリウッドより安心していられるとか様々
な理由があるがタイミング的にも色々な条件が重なったようだ。
ハリウッドがオファーした長期契約を断ってメキシコに行っている。
ルイス・ブニュエルとの映画撮影を優先させたかも知れない。後には
メキシコの国籍も取っている。

エバ・ペロンの死後はアルゼンチンに帰って活動して歌手としても俳優と
しても多くの賞に輝いている。晩年はマイアミに住んだ。85才で引退。
2000年に92才でメキシコで死去。

タンゴの大御所フランシスコ・カナロ全盛の時代にリベルタ・ラマ
ルケが存在したのはタンゴの時代的には良かったのかも知れない。
リベルタ・ラマルケを見出し自分の楽団に入れたのはカナロだし
カナロと時代を共有できたのは大きい。当時の録音に今でも郷愁を
感じる人は多いだろう。貴婦人という感じがする。瞳の透明感が凄
い。1932年のコロン劇場ではタンゴの女王と称せられた。ついで
ながら40年後の1972年にアニバル・トロイロもこのコロン劇場に
出演している。

リベルタ・ラマルケにはエバ・ペロンとの有名な確執エピソードも
あるが、エバ・ペロン時代にアルゼンチンとメキシコをかなり往復
してるようなので実際は報じられてる程不仲では無かったのかも
知れない。本人も否定しているしこの手の話しは大体針小棒大に
書かれる。むしろエバ・ペロンの方がこれまた山ほどスキャンダル
のある人だからこっちの方が大変。書き出したらキリが無い。
生まれも育ちも悪いのに後には大統領夫人になり権力を乱用するの
だからこれはもうマスコミの絶好のネタになるさ。ましてや貧富の
差が激しいあの時代だからね、ペロン擁護派に非難派、極論の先端 
同士の争いみたいな気質丸出しだからなじり合いの日常だもの。
おまけに白人系はプライド高いしな。結局最後は革命になるのが
南米の国の常かな。軍部介入にクーデターというパターンが多い
よね。


「パリのカナロ」など超有名。1961年に日本にも来ている。新宿コマだった。
最初で最後だった。両親がイタリアからのウルグアイへの移民で後にアルゼンチン
へ移る。

カナロと言えばガルデル亡き後アルゼンチンを代表するタンゴ楽団で
有名だ。ホルヘ的場さんがアルゼンチンと日本とのタンゴの掛け橋みたい
ことをやっていたんだよ、確か。的場さんはタンゴ好きだしカナロと
も接点があったからね。後年になると鍛冶敬三さんかな。訪日タンゴ楽団
のほとんどはこの方の世話になっている。


僕はホルヘ的場さんの南米音楽紹介のラジオ番組を聞くのが楽しみ
だった。あの語り口は独特だったね。的場さんがグラシエラ・スサ
ーナをラジオでリスナーに紹介していたのを覚えている。
「アドーロ」で有名だけど石原裕次郎の「粋な別れ」のギターの
弾き語りが絶品だった。クリスティーナとウーゴのクリスティーナ
は実の姉。

谷川越ニさんもNHK-FMラジオで中南米音楽のDJをやっていた。
良く聞いたものだ。高場さんも谷川さんも鬼籍に入られた。中村
とうようさんもだ。今や懐かしい思い出になってしまったが当時
の雑誌中南米音楽をまだ大事に持っている。アカデミックな内容で
学術的ですらあったし中味が濃かったな。当時の執筆者の熱意が
凄い。いつも何曲か譜面がついていた。
あの頃の執筆者は中西さんに永田さんとか濱田さんとかね。
青木誠さんも面白かった。懐かしいよ、本当に。

雑誌中南米音楽はそもそもがタンゴ好きが立ち上げたのが最初だから
タンゴの色合いが強い雑誌だった。必ず何曲かの譜面も掲載されて
いてアルゼンチンからの最新情報とか当時のタンキチには唯一の
情報源だったが、他のラテン諸国、特にブラジル音楽の情報は本当に
少なかったね。ところが途中から方向転換をしてブラジル音楽に
関する記事が多くなって行った。これは明らかな編集部の方針
変更だったのじゃないかな。本田さんが編集長になった頃かと思う
けど、そのうちに名前もラティーナに変わり一気にダンモになって
若返った。それも今やe-magazineに。これも時代なんだろうね。

今はビル自体が立て替えられ新しいホテルになっているけど、元日比谷
パークビル、かつて日活国際会館から日活ホテルだったところの地下に
的場パールがあったと思う。真珠と言えば的場パールだった。また1Fに
アメリカンファーマシーがあった。何とも昭和なビルだった。これまた
懐かしい。

話しがまたまた飛ぶが、六本木にカンデラリアというタンゴの生演奏が
楽しめる店があった。フォルクローレの高野太郎さんの店で京谷さん
のバンドネオンを聞きに行った。歌は山崎美枝子さんだったか。

あの頃の六本木は品も夢もあったね。サテンドールのブラジル音楽
ライブにも良く通った。昭和の時代は良かったな。

リベルタ・ラマルケのことをもっと書こうと思ってたらだんだん話題が
ズレて来た。書き出したらキリが無くなって来たからこの辺で止めないと。

エバ・ペロンとの確執は宝塚歌劇団でも演目として取り上げているし、
話題としては面白いけどね。品の良さなら断然リベルタ・ラマルケだと
思うよ。

もうね、タンゴのことをウッカリ書けないからさ。タンゴファンの方から
お叱りを受けそうだもの。タンゴファンと言えば、自らタンキチと称し
南米まで行った水曜会の三宅さんはお元気かな?

まあなんとか描けた。やはり美人は難しい。カナロの方が似ているかな。
絵の方がメインテーマだけどこぼれ話しだらけ。

しかも書き直しの際に多くの文章を誤って消してしまっているから
内容が前後して中途半端。余談ばかり。仕方ないね。

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