季節はずれの台風20号が去り秋晴れの日曜日となった28日に
両国の回向院に行って来ました。ついこの間まで甥が飼っていた
愛犬がここには眠っています。埋葬のときに来て以来だったので
お線香を上げに行こう、と立ち寄って来ました。
この寺は江戸の昔からの災害の犠牲者を祀ってあり現在まで
その足跡を残し墓石から往時を知ることができます。言わば、
災害犠牲者たちの記念碑でもあります。そもそもは、明暦3年
(1657年)の、俗にいう振袖火事の明暦の大火の犠牲者達を
埋葬するために建立されたお寺でした。江戸時代には火事が
頻繁にありましたが、その中でも明暦の大火は江戸の約六割以上
を焼きつくしたといわれる程の大火でした。その他にも安政の
大地震や江戸時代の海難事故の犠牲者たちも祀られています。
意外ですが、鼠小僧の墓もここにあります。数ある墓の中でも
割りと大きなスペースを占めていて、この辺りの両国の史跡を
見に来るひとは大抵ここに立ち寄っています。
その墓には「天保二年八月十八日 俗名中村次郎吉之墓 教覚
速善居士」と刻んであります。その墓を削り、破片を持って歩くと
博打に強くなるといわれ、削るひとが後を絶たないためか本物の
墓石の前に仮の墓石があり、これを削って下さい、とわざわざ
記してあるのが何とも可笑しいです。何時の時代でもあやかろう
とする心理は変わらないものですね。
芝居や映画では鼠小僧は義賊と称され、悪徳武家から金を盗ん
では貧乏人に分け与える、という設定になっていますが、実際は
そうでもなさそう。
今井金吾校訂「武江年表」の天保三年には、「金吾云、鼠小僧は
堺町中村座木戸番の子にして、名は次郎吉。捕らへられたるは、
五月八日、浜町松平宮内少輔邸に侵入せし時にして、取調べの末、
同人の記憶せしのみにても、侵入大名邸は百余ヶ所、盗金一万
二千両に及ぶといふ。巷間伝へられし義賊には非ず、盗みし金は
殆ど博奕に費消。市中引廻しの上、八月十九日、品川にて獄門
に処せられる。三十八歳。」とあります。
他に、個人的に興味にあったものに、山東京伝・京山兄弟の墓が
ありました。特に京伝は黄表紙や滑稽本などの戯作者であり、
浮世絵も描いた江戸文化を代表する作家でした。京橋で煙草屋を
営んでもいましたが、太田南畝とも関係がありました。後になり
幕府からお咎めを受け手鎖り五十日に処せられています。
京伝は深川生まれで、弟子として曲亭馬琴をとったことでも知ら
れています。
京伝・京山兄弟の墓はこじんまりとした墓でしたが意外な発見
した。銀座一丁目あたりの中央通りにも京伝を紹介した案内板
が出ています。
これが鼠小僧の墓。手前の白い石を削って下さい、って。
また初代竹本義太夫の墓もありましたが、このひとは確か関西の
出身では? 江戸に下り没っしたという話は聞いていないので
実際の墓じゃないでしょう。 江戸の終わりや、明治・大正でも
関係者や同業者が記念的に墓を建てることもあったので、その類
かも知れません。ちょっと定かじゃありませんが。大阪の天王寺
にある墓が本物でしょう。こういうのは面白いですね。実際の墓
は別のところにある、というのは良く聞く話で珍しいことでも
ないですしね。分骨して墓が複数あるということもあるしねえ。
回向院はJR両国から歩いてすぐです。近くには吉良上野介の屋敷跡
もあります。歴史散歩には良い環境です。また食欲の秋ですから両国橋
際の猪料理の「もゝんじや」でしし鍋もそろそろでしょうか。
両国と言えば、横網町の彫刻家のN先生は元気かな?
PS. 竹本義太夫のことがちょいと気になり調べたら、回向院の義太夫の
墓は義太夫の愛好家で、東京議会議長であった大岡育造が大正7年に
追悼碑として当時の義太夫の師匠たちと協力して建てたらしい。
大岡育造といえば、新聞社の社長だったり文部大臣を勤めたり外遊もした
政界の実力者だった。当時の著名人のひとりです。
また花井お梅の弁護人もしている。ふーん、こりゃ意外な発見だった。
これだから歴史散歩は面白い。
もうひとつ。回向院は南千住にもあります。別院ですが。ここにも鼠
小僧の墓があります。
両国の回向院に行って来ました。ついこの間まで甥が飼っていた
愛犬がここには眠っています。埋葬のときに来て以来だったので
お線香を上げに行こう、と立ち寄って来ました。
この寺は江戸の昔からの災害の犠牲者を祀ってあり現在まで
その足跡を残し墓石から往時を知ることができます。言わば、
災害犠牲者たちの記念碑でもあります。そもそもは、明暦3年
(1657年)の、俗にいう振袖火事の明暦の大火の犠牲者達を
埋葬するために建立されたお寺でした。江戸時代には火事が
頻繁にありましたが、その中でも明暦の大火は江戸の約六割以上
を焼きつくしたといわれる程の大火でした。その他にも安政の
大地震や江戸時代の海難事故の犠牲者たちも祀られています。
意外ですが、鼠小僧の墓もここにあります。数ある墓の中でも
割りと大きなスペースを占めていて、この辺りの両国の史跡を
見に来るひとは大抵ここに立ち寄っています。
その墓には「天保二年八月十八日 俗名中村次郎吉之墓 教覚
速善居士」と刻んであります。その墓を削り、破片を持って歩くと
博打に強くなるといわれ、削るひとが後を絶たないためか本物の
墓石の前に仮の墓石があり、これを削って下さい、とわざわざ
記してあるのが何とも可笑しいです。何時の時代でもあやかろう
とする心理は変わらないものですね。
芝居や映画では鼠小僧は義賊と称され、悪徳武家から金を盗ん
では貧乏人に分け与える、という設定になっていますが、実際は
そうでもなさそう。
今井金吾校訂「武江年表」の天保三年には、「金吾云、鼠小僧は
堺町中村座木戸番の子にして、名は次郎吉。捕らへられたるは、
五月八日、浜町松平宮内少輔邸に侵入せし時にして、取調べの末、
同人の記憶せしのみにても、侵入大名邸は百余ヶ所、盗金一万
二千両に及ぶといふ。巷間伝へられし義賊には非ず、盗みし金は
殆ど博奕に費消。市中引廻しの上、八月十九日、品川にて獄門
に処せられる。三十八歳。」とあります。
他に、個人的に興味にあったものに、山東京伝・京山兄弟の墓が
ありました。特に京伝は黄表紙や滑稽本などの戯作者であり、
浮世絵も描いた江戸文化を代表する作家でした。京橋で煙草屋を
営んでもいましたが、太田南畝とも関係がありました。後になり
幕府からお咎めを受け手鎖り五十日に処せられています。
京伝は深川生まれで、弟子として曲亭馬琴をとったことでも知ら
れています。
京伝・京山兄弟の墓はこじんまりとした墓でしたが意外な発見
した。銀座一丁目あたりの中央通りにも京伝を紹介した案内板
が出ています。
これが鼠小僧の墓。手前の白い石を削って下さい、って。
また初代竹本義太夫の墓もありましたが、このひとは確か関西の
出身では? 江戸に下り没っしたという話は聞いていないので
実際の墓じゃないでしょう。 江戸の終わりや、明治・大正でも
関係者や同業者が記念的に墓を建てることもあったので、その類
かも知れません。ちょっと定かじゃありませんが。大阪の天王寺
にある墓が本物でしょう。こういうのは面白いですね。実際の墓
は別のところにある、というのは良く聞く話で珍しいことでも
ないですしね。分骨して墓が複数あるということもあるしねえ。
回向院はJR両国から歩いてすぐです。近くには吉良上野介の屋敷跡
もあります。歴史散歩には良い環境です。また食欲の秋ですから両国橋
際の猪料理の「もゝんじや」でしし鍋もそろそろでしょうか。
両国と言えば、横網町の彫刻家のN先生は元気かな?
PS. 竹本義太夫のことがちょいと気になり調べたら、回向院の義太夫の
墓は義太夫の愛好家で、東京議会議長であった大岡育造が大正7年に
追悼碑として当時の義太夫の師匠たちと協力して建てたらしい。
大岡育造といえば、新聞社の社長だったり文部大臣を勤めたり外遊もした
政界の実力者だった。当時の著名人のひとりです。
また花井お梅の弁護人もしている。ふーん、こりゃ意外な発見だった。
これだから歴史散歩は面白い。
もうひとつ。回向院は南千住にもあります。別院ですが。ここにも鼠
小僧の墓があります。
お疲れになったのでは?
ゆっくりとお休み下さい。写真の整理でも
なさりながら。
そうでしたね。ボンドカーでした。懐かしいです。
日野の空冷のルノーとか(東京ではタクシーで
一番安い60円でした!)、クロガネのオート
三輪車で方向指示器がベロのように出るクルマなど
そんな中で、後にコンテッサとかべレットとか欧州の
スポーツタイプにあこがれていました。ホンダでも
S600でしたか、オープンタイプを生産したような
記憶があります。
日本のクルマも世界標準ですねえ、今や。
大きいし、威厳のあるたたずまいでした。
“白河藩にちなんで白河町かも”というのは気付きませんでした。
清澄という名前の方に、気を取られていました。
“トヨタだったか2000GT”は、ボンドカーにもなりましたが、現役のこの車にはどら息子だった友人の兄が買ってもらって、わずかの間運転させてもらった事があります。
長屋が再現されていたと思います。あそこは
昔江東区役所だったのです。木造の狭い
区役所でした。
あの並びの寺の霊巌寺には松平定信の墓があります。
白河藩にちなんで白河町かも。
お忙しいスケジュールの中、コメントを頂き恐縮です。
念願のGT-Rは座れました? 懐かしい響きですね、
まだプリンスという社名だった頃を思い出します。
友人がべレットGTに乗っていました。その友人は
今や日本橋十軒店の商人で老舗を切り盛りして
います。ともあれGTというのは独特の響きを持って
いました。スバル360に乗って憧れていた頃でした。スカイラインは思い入れの強いクルマでした。
トヨタだったか2000GTもあったような・・・
回向院へは行ってみたかったのですが、叶いませんでした。
昨日コメントに書いたのは、深川江戸資料館でした。
深川丼を食べられるお店が両方ともお休みで残念でした。
コメントには連絡先までありました。本当にいろいろとお心遣い感謝しています。
もしその時見れていても、私は携帯電話を持たない主義なので、連絡できずに迷惑をおかけしたでしょうね。
これからもどうぞお気を悪くなさらすよろしくお願い申し上げます。
でも今回は楽しみました、深川を。一部でしょうけれど・・・
失礼しました。こちらこそお詫びしなければ・・・
管理者のみ閲覧できるコメントにして電話番号や
私のメールアドレス等書いておいたのですが、
(良かったらご案内でも、と)日数が限られた
ご旅程ではかえってご迷惑になったかと気に
しておりました。
ご存分に休日をお楽しみ下さいませ。
ホテルでお休み中なのにコメントを頂きまして
恐縮しております。
昨日朝一番にコメントは見たのですが、
あわてていて中身が見れませんでした。
本当に申し訳ありません。
ホテルのPCでお詫びを書いています。
ちゃんと届くといいのですが・・・
深川あたりと、清澄庭園、江戸東京博物館?、堀のいくつか、
そして永代橋まで全部を歩きました。
とても楽しく有意義でした。
本当にすみませんでした。
めがねがないので正しく書いているのか不安です。
光ちゃん