Los Compadres
ロス コンパードレス
リベルタ・モナルケのことを書いたのでガルデル
やフアン・ダリエンソにアニバル・トロイロにつ
いても少しは触れようかと思ったけれど、考えが
全くまとまらず頭の中が落ち着いてから改めて
考えることにした。それでなくてもバンドネオン
がザッザッザッザッと刻んで迫ってくるからね。
気ばかりが焦る。
そもそもタンゴはヨーロッパのワルツやキューバ
のハバネラなど複数の音楽が混ざり合って生まれ
たと言われている。ごく初期の頃のブエノス・ア
イレスの港に流れついたロクでもない労働者の歌
や、酒場にうろつき媚びを売る娼婦の立ち振舞い
にまで触れなければタンゴの誕生など明らかに
なりそうもないし、元々起源ははっきりはして
いない。それ以前のことになるとスペインの植民
地政策にまで戻らなければならないからちょっと
大変。
明治初期の頃の横浜港にたむろする労働者の
流行り歌を探すようなものかも。遊廓もあったしね。
堅苦しい話しなら歴史の教科書を読んだ方が早い
かもね。
そもそもはコロンブスがスペインのカディスを
出港して中米の島に着いたのが1492年、その後
新大陸"発見"の知らせにスペイン王室は船団を
次々と送り、未知の土地の探検を繰り返させ、
約30年後にはパナマに町が出来てスペインから
来る人間を受けるベースになった。スペインが
コルテスによるアステカ征服で金銀を手にした
頃でもあり、パナマには一攫千金を夢見る連中
が増えていたのだが、日本で言えば博打打ち、
ヤクザまがいに食いつめてスペインにいられ
なくなった連中とか、いわゆる娼婦とかワケ
あり連中が多くいたのだ。パナマに送られて
来た軍人も勿論いる。その中には後年ペルーを
征服してインカを滅ぼしたあのピサロもいた。
かつて満州国が出来た時に、日本にいられなく
なり満州へ行ってひと儲けをしようと言う類い
の人間もいたが感情的には似て無くもない。
ペルーを征服したスペイン人はやがて、更に
南下しチリやアルゼンチンに至るのだが長い
話しになるから省くけど、コロンブスは本来
黄金を見つけるのが目的であったため、中米
の鉱脈のない島々はあまり興味を示さなかった
のか、あるいは原住民の抵抗が大きかったのか、
キューバには強い関心を示していないようだ。
ピサロなどもインディオの情報を元に黄金を
求めてパナマから南下してまだ見ぬペルーを
目指し何度も兵を進めている。
コロンブスが発見したイスパニョーラ島を
含む西インド諸島は、後にスペインから総督
が来るのではあるが、結局はスペイン人に
よって原住民は排除され、新規に輸入された
黒人が労働力としてサトウキビ収穫に当たら
されるのである。キューバもその一つだ。
多少乱暴な言い方になったがハイチやキューバに
黒人が多いのはそう言う歴史的な背景がある。
(だから音楽的にはアフリカの要素が強いのだと
それとなく言いたいのだよね。もうこれを言い出
すとさ、ブラジルなんかもポルトガル人がアフリカ
から黒人を連れて来て開拓させるからそこで長い
間に音楽の融合なんか生まれるし、シンクレテ
イズムに繋がるから話がますます長くなっちゃう
よ。)
キューバは特に砂糖産業が主な輸出だったから、
後になりアメリカが手を引いてからは労働力が
下がりカストロは世界に呼びかけてサトウキビ
収穫の援助を求めている。
この時日本とキューバの間に入り、日本からの
国際サトウキビ刈り隊を募集したのが山本満喜子
である。元海軍大将の山本権兵衛の孫にあたる。
彼女は戦後にアルゼンチンに行き、好きなタンゴ
が高じてタンゴダンサーにまでなり、エクトル・
パチェコの秘書にまでなったらしい。
オズワルド・フレセド楽団の専属歌手。ハンサム
だった。
後にはキューバのカストロとも知己を得ていたので
日本とキューバを結ぶルートが作れたのである。
1970年から何年間か行われた日本人によるサトウキビ
刈り隊は善意のボランティアで炎天下で大変な労働だ
った、とかつて参加した人から聞いたことがある。
前書きと言うか余談が物凄く長くなってしまった。
今は携帯に一字一句打ち込んで書いているので誤字が
出る。なるべく訂正するようにはしてるが老眼がそれ
を妨げ、更には記憶違いを平気で書いてしまう。
パソコンで打ち込んでも良いのだがノートにしてから
はなかなかタッチに慣れない。画面がやたらに変わる。
何かに触っているからだとは思うが学習能力が低いの
か同じ失敗を繰り返す。
かつてキューバ政府と安宅産業だったかジョイント
出資やらで赤坂にHABANAと言うキューバレスト
ランがあった。赤坂見附駅から近くて確か二階だった
ような気がする。
そこで演奏していたのがロス・コンパードレスである。
兄弟のデュオだ。初めはあのコンパイ・セグンドと
コンビを組んでいた。結構長くやったらしいが、コン
パイが抜けたのでその後は兄弟コンビになったとか。
コンパイの絵ならいくつか描いてあるよ。
僕が行くといつもフレンドリーな笑顔を見せてくれた。
名前を忘れたがウエイターをやっていたキューバ人も
親切だった。
豚の皮を揚げたチチャロネスがビールにピッタリで
キューバの音楽に酔いしれた。1974,5年だったかな。
良く通ったものだ。忘れられない。 チチャロネスと
いう歌をコンパイ・セグンドが歌っていたな。
例によって絵のことより文章が長たらしい。稚拙な
文章ばかりでちょっと恥ずかしい。
コンパードレスは二人だから顔も二人分描かなければ
ならないがこれが意外と大変なのだ。どっちかに力が
入る。バランス良く描けたのが出来たら差し替えるかな。
この二人には日本の街並みで見たのか焼き芋売りを
タイトルにした曲がある。Boniato Asadoでそのもの
ズバリ焼き芋のこと。二番を日本語で歌っている。
面白い。YouTubeで聞けますよ。
南京豆売り、ピーナッツベンダー、エルマニセーロを
すぐに連想する日本のプレゴン。物売りの歌。
やはりハバネラが良いね。
ロス コンパードレス
リベルタ・モナルケのことを書いたのでガルデル
やフアン・ダリエンソにアニバル・トロイロにつ
いても少しは触れようかと思ったけれど、考えが
全くまとまらず頭の中が落ち着いてから改めて
考えることにした。それでなくてもバンドネオン
がザッザッザッザッと刻んで迫ってくるからね。
気ばかりが焦る。
そもそもタンゴはヨーロッパのワルツやキューバ
のハバネラなど複数の音楽が混ざり合って生まれ
たと言われている。ごく初期の頃のブエノス・ア
イレスの港に流れついたロクでもない労働者の歌
や、酒場にうろつき媚びを売る娼婦の立ち振舞い
にまで触れなければタンゴの誕生など明らかに
なりそうもないし、元々起源ははっきりはして
いない。それ以前のことになるとスペインの植民
地政策にまで戻らなければならないからちょっと
大変。
明治初期の頃の横浜港にたむろする労働者の
流行り歌を探すようなものかも。遊廓もあったしね。
堅苦しい話しなら歴史の教科書を読んだ方が早い
かもね。
そもそもはコロンブスがスペインのカディスを
出港して中米の島に着いたのが1492年、その後
新大陸"発見"の知らせにスペイン王室は船団を
次々と送り、未知の土地の探検を繰り返させ、
約30年後にはパナマに町が出来てスペインから
来る人間を受けるベースになった。スペインが
コルテスによるアステカ征服で金銀を手にした
頃でもあり、パナマには一攫千金を夢見る連中
が増えていたのだが、日本で言えば博打打ち、
ヤクザまがいに食いつめてスペインにいられ
なくなった連中とか、いわゆる娼婦とかワケ
あり連中が多くいたのだ。パナマに送られて
来た軍人も勿論いる。その中には後年ペルーを
征服してインカを滅ぼしたあのピサロもいた。
かつて満州国が出来た時に、日本にいられなく
なり満州へ行ってひと儲けをしようと言う類い
の人間もいたが感情的には似て無くもない。
ペルーを征服したスペイン人はやがて、更に
南下しチリやアルゼンチンに至るのだが長い
話しになるから省くけど、コロンブスは本来
黄金を見つけるのが目的であったため、中米
の鉱脈のない島々はあまり興味を示さなかった
のか、あるいは原住民の抵抗が大きかったのか、
キューバには強い関心を示していないようだ。
ピサロなどもインディオの情報を元に黄金を
求めてパナマから南下してまだ見ぬペルーを
目指し何度も兵を進めている。
コロンブスが発見したイスパニョーラ島を
含む西インド諸島は、後にスペインから総督
が来るのではあるが、結局はスペイン人に
よって原住民は排除され、新規に輸入された
黒人が労働力としてサトウキビ収穫に当たら
されるのである。キューバもその一つだ。
多少乱暴な言い方になったがハイチやキューバに
黒人が多いのはそう言う歴史的な背景がある。
(だから音楽的にはアフリカの要素が強いのだと
それとなく言いたいのだよね。もうこれを言い出
すとさ、ブラジルなんかもポルトガル人がアフリカ
から黒人を連れて来て開拓させるからそこで長い
間に音楽の融合なんか生まれるし、シンクレテ
イズムに繋がるから話がますます長くなっちゃう
よ。)
キューバは特に砂糖産業が主な輸出だったから、
後になりアメリカが手を引いてからは労働力が
下がりカストロは世界に呼びかけてサトウキビ
収穫の援助を求めている。
この時日本とキューバの間に入り、日本からの
国際サトウキビ刈り隊を募集したのが山本満喜子
である。元海軍大将の山本権兵衛の孫にあたる。
彼女は戦後にアルゼンチンに行き、好きなタンゴ
が高じてタンゴダンサーにまでなり、エクトル・
パチェコの秘書にまでなったらしい。
オズワルド・フレセド楽団の専属歌手。ハンサム
だった。
後にはキューバのカストロとも知己を得ていたので
日本とキューバを結ぶルートが作れたのである。
1970年から何年間か行われた日本人によるサトウキビ
刈り隊は善意のボランティアで炎天下で大変な労働だ
った、とかつて参加した人から聞いたことがある。
前書きと言うか余談が物凄く長くなってしまった。
今は携帯に一字一句打ち込んで書いているので誤字が
出る。なるべく訂正するようにはしてるが老眼がそれ
を妨げ、更には記憶違いを平気で書いてしまう。
パソコンで打ち込んでも良いのだがノートにしてから
はなかなかタッチに慣れない。画面がやたらに変わる。
何かに触っているからだとは思うが学習能力が低いの
か同じ失敗を繰り返す。
かつてキューバ政府と安宅産業だったかジョイント
出資やらで赤坂にHABANAと言うキューバレスト
ランがあった。赤坂見附駅から近くて確か二階だった
ような気がする。
そこで演奏していたのがロス・コンパードレスである。
兄弟のデュオだ。初めはあのコンパイ・セグンドと
コンビを組んでいた。結構長くやったらしいが、コン
パイが抜けたのでその後は兄弟コンビになったとか。
コンパイの絵ならいくつか描いてあるよ。
僕が行くといつもフレンドリーな笑顔を見せてくれた。
名前を忘れたがウエイターをやっていたキューバ人も
親切だった。
豚の皮を揚げたチチャロネスがビールにピッタリで
キューバの音楽に酔いしれた。1974,5年だったかな。
良く通ったものだ。忘れられない。 チチャロネスと
いう歌をコンパイ・セグンドが歌っていたな。
例によって絵のことより文章が長たらしい。稚拙な
文章ばかりでちょっと恥ずかしい。
コンパードレスは二人だから顔も二人分描かなければ
ならないがこれが意外と大変なのだ。どっちかに力が
入る。バランス良く描けたのが出来たら差し替えるかな。
この二人には日本の街並みで見たのか焼き芋売りを
タイトルにした曲がある。Boniato Asadoでそのもの
ズバリ焼き芋のこと。二番を日本語で歌っている。
面白い。YouTubeで聞けますよ。
南京豆売り、ピーナッツベンダー、エルマニセーロを
すぐに連想する日本のプレゴン。物売りの歌。
やはりハバネラが良いね。
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