土壌は乗鞍ゆらいの酸性土。地下水は深く潜りなかなかに掘りだせない、
苦労して掘っても鉄くさい、ガスは出る。川はない.
この最も自然環境の悪かったこの土地を果樹地帯として作りあげていくには、並大抵の苦労ではなかったはず。
全国における果樹栽培地の成功例をみますと、どの土地もなにかひとつよい条件を持っていることが分かります。
一つも条件がそろわぬ桔梗ヶ原の地に果樹栽培が成功したのは異例中の異例、と
昭和29年に調査に入った名古屋大学大学院の教授がその調査論文を書かれております。
とはいえ、いまのように初めから一面ブドウ畑だったわけではございません。
(明治39年)には諏訪から入植したものが、養蚕業を広めたことでクワ畑が一時急増したが、
1920年(大正9年)の不況で衰退してしまいました。
また、大正にはいりまして鉄道が引かれたり、道が良くなってまいりますと、さまざまな野菜を栽培し
特にキャベツは貨物列車で県外にも出荷するほどでございました。
またヤギを多く飼い、その乳を塩尻、松本に配達販売をしていた人もあったそうです。
そうして試行錯誤をしながら、徐々に技術の進歩とともに土壌の改良がかない、
今の繁栄を手に入れていったのでございます。
とくに水の確保が一番の課題でした。
井戸はいくつも掘りましたが、なかなかに良い水が出ず、枯渇も多かったので使い勝手が悪く。
そのうちに、1人が始めてみて、おお、これはいいと、雨水をためるタンクを各家々が持つようになり。
もっぱら井戸水よりも雨水の利用が主流を占めるようになりました。
また開花時や結実時期の遅霜も天敵で。
夜を徹して、畑のそこここに焚き火をし、霜を防いできたとのこと。
車が普及した頃には、もらいうけた古タイヤが程よくくすぶって有効だと、タイヤ火を使う農家が増え。
旧塩尻から、桔梗ヶ原を見降ろすと、その上の空が黒々と大きな柱がたつように黒煙が包んで見えたそうです。
今なら環境問題で大騒ぎになりそうおはなしです。
当時農家の子どもだった方々のなかには
「窓を閉めて寝ているのに、朝、鼻をかむと、黒い鼻水がでたものだ」と述懐なさっていました。
さて、不毛の地、無用の長物と思っていたこの土地が開墾が進み生産のかなう土地となりますと、人の気持ちは複雑です。
いろいろと小競り合いも出てまいります。
その収拾に一役買ったのが、「桔梗ヶ原神社」の存在。
以下、つぎのおはなしに。
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