上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

日光道中21次を歩く 5日目(石橋宿~徳次郎宿)

2024年02月20日 | 街道を歩く




【5日目 下野國】 令和6年(2024)2月15日(木)晴
 前橋駅5:40==7:12小山駅7:25==7:38石橋駅7:50---8:18下小山の一里塚--9:04雀宮の一里塚--9:13雀宮宿江戸口--9:19雀宮本陣跡---10:20江曽島の一里塚--10:50宇都宮宿江戸口--11:25上野本陣跡--12:07宮ステーキ12:55---13:19上戸祭の一里塚---14:17高谷林の一里塚--14:30徳次郎宿江戸口--15:25石那田の一里塚15:40==16:30宇都宮駅着---スーパーホテル宇都宮泊(1泊朝食付き7800円)
 (前橋駅~石橋駅:1694円JR 一里塚駅~宇都宮駅西口:830円関東自動車(関東バス))
 石橋宿~徳次郎宿:宿場間距離27.4km 歩行距離28.9km 宿場間距離の歩行距離比較累積(140.0/127.2=1.10)



【15石橋宿 石橋駅7:50出立  下野国】


グリムの里をイメージした石橋駅を青空の下元気よく出立




真言宗 石橋山開雲寺
徳川将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となり、寺の紋章は徳川の葵の紋
本堂前には12体の羅漢像があり山門の白壁には銃眼が空いている



馬頭観音・十九夜文字塔・右端は風化しているが十九夜塔か?
ここには他に風化した馬頭観音や十九夜塔があったらしいが建て替えたようだ



下古山信号付近
このあたりに「下古山の一里塚」があったらしい 江戸日本橋より二十四里 (参考1)




鞘堂地蔵尊
康暦二年(1380)の小山宇都宮の戦い(茂原合戦)で、村人が戦死者の鞘を拾い集め埋葬して、戦死者供養の石造地蔵を安置した。安産子育地蔵としても拝められている



星宮神社 鞘堂新田村の鎮守





【16雀宮宿着 (9:13 石橋駅から6.4km) 下野國】


「安塚街道入口」信号の辺りが雀宮宿の江戸口で木戸があった



雀宮本陣跡 (9:19 石橋駅から6.7km)
酒の「やまや」の敷地内で隣がゴミの集積場というのは気になるが石柱があるだけ良い





雀宮仮本陣 
こちらは建物が残り解説版も設置されている



祠の中には安政5(1858)年建立の馬頭観音と大正11(1922)年建立の生駒神や勝善神が安置されている




雀宮神社
長徳3(997)年八幡太朗義家の創建とされる。雀宮村の鎮守。正徳3(1713)年東山天皇より金文字で「雀宮」と書かれた「勅額」が下賜され、この額が社頭にあるため日光社参の将軍や諸大名は参拝を常としていた




一部国道4号を外れ旧道を通る



旧道に入ると下水のマンホール、宇都宮市の木「イチョウ」をデザインしたもの



寿鶴(すず)薬師堂 中を除いたが良く見えない
なんでこんなに赤いのだろう



宇都宮に入ると大谷石の蔵や石塀が目立つ




学問の神「菅原道真」を祀る菅原神社
この辺りは台新田村立場後で高札場があったといわれる(参考6)




江曽島の一里塚辺り (10:20 石橋駅から10.2km)
バス停もJR東北線踏切も「一里塚」と名前は残っている



JR日光線を跨ぐ




宇都宮友綱が造立した不動明王を祀る不動堂
昭和3(1928)年建立の道標には「正面東京ニ至ル 右奥州街道及日光街道 左裁判所前ニ至ル」




【17宇都宮宿着 (10:50 石橋駅から13.3km)  下野國】


国道4号線から国道119号線(日光街道線)に入る
宇都宮宿の江戸口(南口)あたり




蒲生君平勅旌碑(ちょくせいひ)、高山彦九郎、林子平と並ぶ寛政三奇人のひとり、明和五年(1768)宇都宮で生まれ、尊皇家で明治になって遺功が追賞された(「奇」は「優れた」という意味)
勅旌碑(ちょくせいひ)の意味が解らない(明治天皇の勅令で碑が建てられた事から勅令でほめるの意味か?)


蒲生君平は今でも地元で愛されているようで街道の愛称にもなっている




熱木(ねぎ)不動尊
康平二年(1059)初代下野国司宇都宮宗円が奥州征伐の戦勝を祈願して彫った不動尊を祀っている。宇都宮城乾の守護仏でしあった。(参考6)




橋番所跡
この辺りに住んでいた者の歌が万葉集に載ったのが地名の由





時宗 清照山一向寺
応永十二年(1405)に造られた銅造阿弥陀如来坐像は国の重要文化財
「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、世の中に異変が起こる前になると汗を角という伝説があり、五十里湖洪水や関東大震災、宇都宮大空襲の前日にも汗をかいたという。



菅原神社
学問の神「菅原道真」を祀る天神社。宇都宮城西の守護神であった



材木町木戸跡
民家とマンションの間にポツンと立つ標識には
「町人の住む材木町から武家屋敷に通じる木戸があった。武士が城内に通う朝晩だけ開門され、日中は閉門されていたところから不明門(あかずのもん)と呼ばれまた。」
民家前にいた人に挨拶すると「時々団体さんが来るヨ」と言っていた
街道歩きもメジャーになってきたのかもしれない



本陣跡 (11:25 石橋駅から15.4km)

標識には「建坪191坪余で門構え玄関付きであった。問屋を兼ね貫目改所が置かれた。現在は庭木の大イチョウを残すのみ。」と書かれているが、反対から見ても大イチョウが判らなかった




洞宗松峰山桂林寺
戊辰戦役の際、官軍の大垣藩と長州藩の官舎となり、会津藩の奇襲を受け灰燼に帰しその後再建
墓所には蒲生君平の墓がある



土蔵と旧家も残っている



勝善神(そうぜんしん)
神道の牛馬の守護神で、仏教系での馬頭観音にあたる



お昼は、宇都宮に来たので宇都宮に起源のある「宮ステーキ」でランチ
ハンバーグ&ステーキランチ 1690円
(12:07~12:55 石橋駅から18.4km)



薬師堂
文政5(1822)年建立の如意輪観音像十九夜供養塔の石仏石塔群がある



このあたりから桜と杉の並木二より歩車道が分離されて歩きやすい




戸祭の一里塚 江戸日本橋より二十八里目 (13:19 石橋駅から20.1km)。
昭和58(1983)年に修復整備され、両塚とも原型をとどめている





言宗智山派宝珠山玉塔院光明寺
将軍日光社参の際は境内に御茶屋が設けられましたと伝えられている
境内に静御前所縁の「静桜」が植えられている



国道119号線(日光街道線)の並木は続く





江戸日本橋より二十九里目 (14:17 石橋駅から24.4km)
昭和58(1983)年に東塚が修復整備された




第六接合井
大正4(1915)年建設の水道施設。今市浄水場からの浄水を約25km、標高差約240mの戸祭配水場までの送水管にかかる水圧を調整している。レンガ造りの上屋は登録有形文化財及び土木学会選定土木遺産に指定されている




【18徳次郎(とくじら)宿着 (14:30 石橋駅から25.0km)  下野國】


大谷道道標
「大谷道」「下徳次郎」と刻まれている。かつてここから大谷観音への道があったという



冨屋小学校の壁に掛けられた横断幕
 1954年(昭和29年)に徳次郎を含む富屋村が宇都宮市に編入された際、読みは「とくじろう」と定められた。しかし一般においては、その後も「とくじら」「とくじろう」が混用される状態となった。その後地元自治会の要望などにより2021年(令和3年)「とくじらまち」に変更された(参考5)。

徳次郎の地名の起こりは宝亀九年(778)日光二荒山より智賀津明神(徳次郎明神)を勧請した際、日光山の久次郎(くじら)に対して外なるところから外久次郎(そとくじら)と称し、いつしか転化して徳次郎(とくじら)となりました。(参考1)日光市には久次郎町がある





私塾明王院
修験者の外鯨要人(とくじらかなんど)が開塾し安政5年(1858)から大正10年(1921)まで続いた私塾
人名はの「くじら」は「久次郎」ではなく「鯨」



風化が進んだ田中道道標
「神社入口道約五丁田中道」と刻まれている




中徳次郎宿跡
徳次郎宿は下、中、上の三宿で一宿とし、問屋は各宿にあり、月のうち上十日は中徳次郎宿、中十日は上徳次郎宿、下十日は下徳次郎宿が勤めた






智賀都(ちかつ)神社
参道口の左右に長寿の夫婦欅、推定樹齢約七百年で栃木県指定天然記念物
徳次郎六ケ郷の鎮守で祭屋台は宇都宮市文化財



カーブの中央分離帯に6本杉があったのだろうか?
左に「六本杉珈琲」がある




上徳次郎宿跡
3宿の中では一番北端(日光)で最も早く開けた宿




石那田の一里塚 江戸日本橋より三十里目 (15:25 石橋駅から29.0km)



本日はここまで、「一里塚」バス停から宇都宮駅へ戻る
バス停にもバスにも「関東バス」と書いてあるが
(A)関東バス株式会社(かんとうバス)は、東京都23区西部・多摩東部を運行エリアとして、乗合バス・貸切バス事業等を行う会社
(B)関東自動車 (栃木県) は、栃木県で「関東バス」を運行するバス会社。
ネットで「関東バス」を検索すると(A)が出てきてややこしい


バス停にはフクジュソウが咲き始めていた





宇都宮駅に帰り、夕食は宇都宮餃子で一杯
明日はまた宇都宮から「関東バス」で一里塚へ向かう




本日は石橋駅駅から徳次郎宿まで約30km、7時間半程歩いた
ここの所20km過ぎると疲れが酷くなる
昼食まで殆ど休まず歩いているからかもしれない
人生黄昏てくると日暮れが近づくと余計に早く帰りたくなるので午前中に無理をしてしまう
街道歩きは引き返せても後悔ばかりの人生は引き返せない
歩きながらもあの時はこうすれば良かったなどと考えてしまう
諸国行脚廻国六十六部はどんな気持ちかと思う今日この頃でもあります

 ↓そんな訳で 押していただくとたすかります






 地図


*参考
参考1:「ちゃんと歩ける日光街道」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡・中山道歩き旅GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:(一社)宇都宮コンベンション協会 https://www.utsunomiya-cvb.org/tourist_data/11711.html

*用 語
【距 離】1間≒1.818m 1町=60間≒109m 1里=36町≒3.927km
【日光街道or日光道中】
 慶長5年(1600)関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は主要五街道(東海道・中仙道・甲州海道・奥州海道・日光海道)の整備に着手。正徳6年(1761)幕府道中奉行は5街道の名称を統一。中仙道は東山道の中筋の道なので「仙」を「山」に「海道」は海端を通らない甲州・奥州・日光は「道中」に変更した。明治新政府は「道中」を「街道」と改名。
【問屋場】
問屋場(とんやば・といやば)は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(参考5)
【立場(たてば)】
五街道等で次の宿場町が遠い場合はその途中に、また、峠のような難所がある場合はその難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。
【月待塔】
月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事で
【桝形(ますがた)】
 宿場町の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの




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