おことわり:掲載の写真は、参拝当日(08/22/2008)のものです、現在と異なっている場合があります。
賀茂別雷神社を掲載しました。
「式内社」 賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)
<通称>上賀茂神社(かみがもじんじゃ)
【鎮座地】 〒603-8047 京都府京都市北区上賀茂本山339 旧山城国 愛宕郡
【電話】 075-781-0011
【旧社格等】 官幣大社 (現別表神社)
二十二社
山城國一の宮
式内社 山城國愛宕郡 賀茂別雷神社 亦若雷 名神大 月次相嘗新嘗
勅祭社
【御祭神】 賀茂別雷神
【例祭】 5月15日 賀茂祭
【御由緒】
上賀茂神社
御由緒
神代の昔、本社の北々西にある秀峰神山に御降臨になり、天武天皇の御代(678年)現在の本殿に御鎮座になった。御鎮座以来広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣、御祈願があった。嵯峨天皇は皇女有智子内親王を斎院と定め、天皇の御杖代として御奉仕なさしめ給い、以来三十五代、約四百年続いた。「延喜式」では名神大社に列し、のち一ノ宮として尊崇せられた。又摂関賀茂詣、武家社参相次ぎ、特に徳川家は家紋の三ツ葉葵が、当神社の神紋二葉葵に関係があるところから、特別の信心を寄せた。明治以後終戦まで、官幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。
以上
平成祭りデータ)
【参拝月日】 08/22/2008
一の鳥居
京都市北区にあります。JR京都駅から北に9kmほど、京都市街地の北端、加茂川の上流に鎮座しています。
鳥居には、社名の扁額がありません。右に、「山城国一ノ宮 厄除明神 上賀茂神社」とある簡素な社号標。
参道から二の鳥居
鳥居をくぐると二の鳥居まで白砂の参道が一直線に続いています。左右は広大な芝生に覆われ、およそ23万坪に及ぶ境内は平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして、ユネスコが制定する人類共有の世界文化遺産に登録されています。
斎王桜
一の鳥居をくぐって直ぐ、右にあります。見事な枝垂桜です。
外幣殿(御所屋)
参道右にあります。法王、上皇等の御幸、摂関(摂政と関白)の賀茂詣の際の、事前の打ち合わせ等をする到着殿です。
法皇、上皇等の御幸 摂関 賀茂詣の際の著到殿 又 、競馬会神事、葵祭に使用する
寛永五年(一六二八年)造替 重要文化財
(現地案内板)
ならの小川
参道の右(東側)を林をはさんで並行して流れて、下鴨神社に通じています。社殿のある北方向の景観です。右側に境内社が続きます。
御物忌川と御手洗川が合流して「ならの小川」となります。百人一首にも詠まれた清流。楢の林の間を流れることから、また奈良神社の横を流れることから名付けられたと言われています。
ならの小川について
風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける (藤原家隆卿)
小倉百人一首の古歌で有名な「ならの小川」で 平安の昔、神職がみそぎを修していた情景を 詠んだものである。この辺りを「ならの小川」と称する。
上賀茂神社
(現地案内板)
向かって右から流れてくるのは御物忌川(おものいがわ)といって祭典などに使う祭器具を洗う川です。
向かって左から流れてくるのは御手洗川(みたらしがわ)で神職が身を清める川です。この二つの川が合流するところに社殿が立ち並んでいます。
梶田神社
ならの小川の上流に向かって右にあります。御祭神は瀬織津姫神(祓戸の神)が祀られれています。
嘗ては此処でお祓をして本社に参拝した。
(現地案内板)
山森神社
梶田神社に続いてあります。御祭神は素戔嗚神、奇稻田姫神、田心姫神の3柱、疫病を祓う、病気平癒守護の神様です。
奈良鳥居
ならの小川に沿って進むと右にあります。手前の社殿は、奈良神社、奥は、北神饌所(庁屋)です。
北神饌所(庁屋)
往古の神饌調進所、中古政庁と して兼用した。競馬会神事に又、能舞台としても使用する。
寛永五年(一六二八年)造替
重要文化財
(現地案内板)
奈良神社
御祭神は奈良刀自神、料理の祖神で、飲食関係者の信仰を集めている。
攝社 奈良神社
祭神 奈良刀自神一柱一座
鎮座年代不詳。「左経記」によれば、散飯の神で、朝夕の御膳、神供その他飲食のことを司り拾う神である。拝殿は重要文化財建造物である。
(社前案内板)
渉渓園
奈良神社の奥(北側)にあります。
4月の賀茂曲水宴が開催される庭園です。奥の社殿は賀茂山口神社(御祭神は、御歳神、豊作をもたらす、子供の成長、合格祈願、交通安全等を導く神)です。
上賀茂神社
上賀茂神社の祭神は、玉依姫が今、上賀茂神社の境内を流れている御手洗川(瀬見の 小川禊の泉)で川遊びをしていると、川上から 白羽の矢一本流れてきた。これを持ち帰って 床に挿して置いたところ、遂に感じて男子を 生む。のち男児天にむかって祭をなし屋根を 穿って天に昇る。別雷神とたたえ、祀る神社を 賀茂別雷神社という。
京都でも最も古い神社の一つで、五穀豊穣の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集めた。 謡曲「賀茂」はこの縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の神徳を讃へた曲である。 弘仁元年(八一〇)には斎院の制が施され、 歴代皇女が斎院となったこともある。
京都謡曲史跡保存会
(現地案内板)
二の鳥居
白砂の参道の突き当りにあります。社殿のある境内への入り口です。
二の鳥居から境内
左から、授与所、細殿、橋殿、土屋と並んでいます。
細殿と橋殿
細殿は、かつては天皇や斎王のみが昇殿を許された建物です。右は舞殿とも呼ばれる橋殿です。
細殿と立砂
細殿の前にある白砂で作られた左右一対の盛り砂は、ご祭神が降臨した円錐形の神山をかたどったもの。先端に松葉が挿してあり、依代の目印とされています。
立砂から土屋
立砂は玄関先などにする、盛砂の起源になっています。奥は、土屋と呼ばれる、神主以下社司の著到殿(到着殿)です。
楽屋
二の鳥居入ってすぐ、右にあります。
神仏習合時代 供僧方の用いたもの 一切経楽屋ともいう。寛永五年(1628年)造替、重要文化財です。
土屋
橋殿の右奥にあります。
往古より神主以下社司の著到殿、到着殿とも言われます。現今は祓所として用う。入母屋造り、檜皮葺、寛永五年(1628年)造替、重要文化財です。
橋殿
御手洗川と御物忌川の合流点に建っています、舞殿とも呼ばれています。往古より勅使御拝の殿舎、文久三年(1863年)造替、重要文化財です。
手水舎
細殿の奥、橋殿の左にあります。
名水「神山湧水(こうやま ゆうすい)」について
この手水舎の水は、ご祭神「賀茂別雷大神」がご降臨された神山のくぐり水を汲み上げて使用しています
歴史上特に由緒深い境内の 井戸水と同じ水脈の名水であり、飲料用水質基準にも適合しています
上賀茂神社
(現地案内板)
須波神社(重文)
楼門前、片岡橋の右にあります。
御祭神は、阿須波神 波比祇神 生井神 福井神 綱長井神 の4柱。本宮の前庭を守護される神、式内社 山城國愛宕郡 須波神社です。
片岡御子神社(片岡社)(重文)
須波神社の奥にあります。
御祭神は玉依比売命(主祭神、賀茂別雷大神の母神)で、第一摂社と崇められています。延喜式には「式内社 山城國愛宕郡 片山御子神社 大 月次相嘗新嘗」とあります。
案内に、御神德 縁結び、子授け、家内安泰、鈴の音に願いを込めて祈りましょう とあります。
岩上
橋殿の奥にあります。葵祭にあたり宮司が岩上に蹲踞し勅使に返祝詞を申す場所で、原初神道の形をよく保存し貴重なものです。
楼門
御物忌川に架かる玉橋(通行禁止)の向こうにあります。入母屋造り、檜皮葺の鮮やかな朱塗りの建物です。寛永5年(1628)式年遷宮で造替されています。重要文化財。
楼門から中門
楼門を入ると、正面に中門です。一般の参拝は中門で行います。寛永5年(1628)造替、重要文化財です。
中門
本殿など重要な社殿は、直会所(西局)、御籍屋(東局)親善結婚式場などに囲まれた中にあります。全容は見られません。
中門
当社の起源は、社伝によると、神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の社殿の基が造営されました。
本殿
中門の奥に権殿(本殿が修復などの時遷られる仮殿)と並んであります、共に国宝。
主祭神、賀茂別雷大神は、玉依比売命が賀茂川を流れてきた丹塗りの矢を持ち帰って懐妊し、 生まれたとされる神。のちに天に駆 けあがり、神山に降臨。 山城国を拓いて、皇城鎮護の神となりました。
棚尾神社(重文)
中門の手前右にあります。御祭神は、神櫛石窓神、豊石窓神の二柱、家屋に悪霊の入らないように入口で守り拾う神です。
橋本神社
授与所の右にあります。御祭神は、衣通姫、和歌、芸能上達の神様、女性に大きな力をくださる。
二の鳥居から一の鳥居
当社の境内はおよそ23万坪におよぶ広大な敷地を有し、平安時代の国宝2棟はじめ重要文化財など数多くの社殿(60棟)があり、ほとんどの境内社は
巡ることが出来ませんでした。事前学習が必要と感じました。
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