全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

束縛を打破する

2019-05-02 22:08:13 | 全能神の裁きを経験する証し

10年前のことです。私の傲慢な本性により、教会の定めに完全に従うことができませんでした。私に適しているものであれば従いましたが、従うべきか否かを選んでいたため、責任を果たす中で、仕事の定めにひどく違反してしまいました。私は自分のことだけを行ない、神の性質に逆らったため、自宅に返されることになりました。その後数年に渡り、自己反省を行なった結果、自分自身の本性についてだいたい分かるようになりましたが、神の本質である真理の側面については、まだ、あまり分かっていませんでした。その後、教会は私にもう一度機会を与えてくれ、福音の責任者としての任務に就くと、私は神について、次のような疑いを持ち始めました。私はひどく腐敗しており、神の性質に逆らったのです。なぜ、神は私を使うのだろうか。神は私を利用しているのか。利用し尽くしたら、捨てられるのではないか。あぁ!教会が私に機会を与えてくれたので、たとえ、サービス提供者になっても、この機会をものにするつもりでした。それ以降、私はこのような心構えで責任を果たしていましたが、高い目標を掲げたり、神によって完璧な存在にされたりすることはありませんでした。

 

ある時、私は強い信仰心でお勤めしていると、神の次のような言葉を見つけました。「現在、あなたは自分がどのようにして征服されたかだけに満足することは出来ず、今後進んで行く道についても考える必要がある。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持ち、常に自分は無能だと考えるべきではない。真理には好みがあるだろうか。真理は故意に人間に反抗することがあるだろうか。あなたが真理を追求する場合、真理はあなたを圧倒することがあるであろうか。あなたが正義のために揺るぎなく耐える場合、正義はあなたを打ち倒すであろうか。いのちを追求する熱意が本当にあなたに有るのであれば、いのちはあなたから逃れることが出来るだろうか。あなたに真理が無いのであれば、それは真理があなたを認めないからではなく、あなたが真理に近付かないからである。あなたが正義のために揺るぎなく耐えることができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが、正義が事実に一致しないと考えているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずに居るのであれば、それはあなたに対する良心がいのちに無いからではなく、いのちに対する良心があなたに無く、あなたがいのちを追い払ったからである。…あなたが追求しないのであれば、あなたは無価値な屑であり、自分の人生において全く勇気が無く、暗闇の力に対抗する精神が無いと言うほかない。あなたは弱すぎるのである。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、安全で安心な生活を送り、無知のまま死ぬことのみを望んでいる。あなたが追求すべき事は、征服されることであり、それがあなたに課された本分である。あなたは、自分が征服されたことに満足しているのであれば、光の存在を追い払っていることになる。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)神のこの節を飲食すると、私の心は非常に感動しました。神の意志は、全ての人が神により完璧な存在にされ、神が使うのに適した存在になることを求められるようにすることであったと分かったのです。その時、私の心は決まりました。自分の心配を脇に置き、ネガティブになったり、受け身になったりするのを止めよう、と。私は神の言葉を信じ、神により完璧な存在となるべく努力していこう、と。しかし、神の誠実さの本質を理解していなかったため、また、徐々に、神の言葉を信じられないようになり、これらの言葉の目的は別のところにあり、私のような人を慰めたり、鼓舞したりするためだけのものだといつも考えるようになりました。私がいかに神の性質に逆らったかということ、私がとても腐敗していること、私が責任を果たしている時でも、私の腐敗した性質が現れてしまう時があること、どんなに追い求めても私が完璧になることは決してないこと、サービス提供者が私にはおあつらえ向きであることを繰り返し考えていました。そのようにして、再び、無意識のうちに受け身の生活をするようになっていました。神の本質を知ることに関する真理の側面について、その後、神は何度も伝えてくれていましたが、私はあまり分からずにいました。そして、ある日、神の言葉を飲食していると、次の神の言葉を目にしました。「神の本質は誠実である。主は御言葉の通りに御業を行われ、行われた御業は成就する。主は誠実であられ、…」(『キリストの言葉の記録』の「受肉に関する2番目に重要な側面」より)時、私の中で、何かがパチンとはじけ、私の心にかかっていた霧が瞬時に晴れました。長年の誤解と不安が突然消えました。そして、かつて私が飲食していた神の言葉のあの一節を再び思い出しました。「いのちを追求する熱意が本当にあなたに有るのであれば、いのちはあなたから逃れることが出来るだろうか。あなたに真理が無いのであれば、それは真理があなたを認めないからではなく、あなたが真理に近付かないからである。あなたが正義のために揺るぎなく耐えることができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが、正義が事実に一致しないと考えているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずに居るのであれば、それはあなたに対する良心がいのちに無いからではなく、いのちに対する良心があなたに無く、あなたがいのちを追い払ったからである。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)この時、神の言葉の行間から溢れ出て、神を非常に崇高で偉大な存在たらしめている荘厳な義と無限の愛を感じました。同時に、私の卑しさ、偏狭さ、そして退廃的であることを痛感しました。神は誠実です。これは疑う余地も、質問の余地もありません。神は誠実な本質を持ち、信頼できる存在です。神は人間を最大限に助けようとしています。私が神からの求めに従い、人間が真理と性質の変化を求める限り、神は人間を完全な存在にします。なぜなら、神は有言実行であり、始めたことはやり遂げるからです!むしろ、私は、神を人間のような存在と考え、利用価値がなくなれば私を捨てるのではないかと考えていました。神の言葉を真理のものとして全く取り扱わないどころか、神を心から積極的に信じていなかったのです。そうする代わりに、心の中を思い込みと疑いで満たし、真理の前に勇気を持たず、卑劣にも暗い影響力に屈し、正義のために立ち向かうことができなかったのです。神の本質について知ろうとすることが極めて重要であることを心から実感したのは、その時でした。神の性質や本質について知ろうともっと前に注意を払っていれば、不安の中で長年暮らし、人生が前進するのを遅らせることはなかったでしょう。

全能の神よ、ありがとうございます!私のことを気にかけ、私を啓き、導き、長年私をコントロールしてきた束縛を解き放ち、迷路から私を開放してくださったのはあなたです。かつて、私は神を知らず、神の言葉を信頼することができず、これを単に人を慰め、鼓舞するための物過ぎないと考え、誤解の中で暮らすことがよくありました。神の言葉を真理そして生命して取り扱わないどころか、神として取り扱ってこなかったのです。それでも、神は私の罪に応じて私を取り扱うようなことはありませんでした。私に耐え、辛抱強く接し、悔い改める機会を与えてくださいました。神の誠実かつ義なる本質について垣間見られるよう、神は私を啓き、私に光を照らしました。これは、あなたの人間への愛の例証そのものです。神様!今から、私は、神により完璧な存在になれるよう、神を知るための真理の道を歩むために全力を尽くし、神の私への期待に添えるようにし、神の本質を知るべく努力し、私の性質が変わるように努めます!

これらのことを知ると、心の中から驚くばかりの力が湧き上がりました。困難に直面しても受け身でいることはありません。長年の誤解、疑い、不安は全て消え去ったのです。私は神により完璧な存在にしてもらえるよう努め、あらゆる状況に積極的に対応していきます。