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簡単HPから移って参りました。よろしくお願いします。

山陽電鉄

2007年10月31日 | Weblog
地元の鉄道の話題でも書こう。私が住んでいる板宿は地下鉄と山陽電鉄の交差点
である。山陽電鉄と言っても、すぐには思いつかないかもしれない。現在の起点は
神戸市長田区の西代。震災で甚大な被害を受けた。その隣が神戸市須磨区の板宿で
直通特急が停まるので、西代よりも本数が多い。西代は現在、実質は中間駅である。
何故なら、西代から神戸高速鉄道につながっているから。
さて、今話題にした直通特急とは大阪市の阪神梅田と山陽電車の終点駅姫路を結ぶ
特急である。距離にして93キロ、これを最速列車は89分で結ぶ。途中、神戸高速
鉄道線内で65キロに規制されることを勘案すれば、通算の表定速度が60キロを超える
と言うのは敢闘賞ものだ。何故か。山陽電鉄線内の、特に明石市以降に110キロで
走ることができる区間が十分あること、これである。この制限110キロはJR対策
である。国鉄末期から、京阪神は私鉄との競合が激しく、山陽電車も例外ではなく、
この争いに巻き込まれたのである。その結果、速達性のJRか、料金面の私鉄か、
という情勢が永らく続いている。例えば、山陽姫路~阪神梅田間は1250円、JRの
姫路~大阪間は所要61分だが、1450円という具合である。
昭和61年に製造された5000系からクロスシート車が復活した。それ以前は、2000系
アルミカーで採用した例はあったが、昭和30年代から60年代まで永らく量産された
3000系ではロングシートであったからである。
その山陽電車は前身の兵庫電気軌道が創立されて、今年で100年を迎えたので、それ
を機に社章を改めた。まるで路面電車のような電車から、今や大阪へ直通する列車
が毎時4本も走る鉄道になった。

北神急行 車庫見学会

2007年10月17日 | Weblog
先週末の13日、北神急行の車庫見学会に行った。
北神急行は谷上~新神戸間7.5キロを8分で結ぶ鉄道である。
保安設備CS-ATC(車内信号式ATC)、ATO
運転士のみによるワンマン運転である。
ATOとは自動列車運転装置と言って、運転士に代わってコンピュータが列車
の運転を代行するシステムだが、北神急行は運転士が出発押ボタンを押すと、
列車が自動的に発車するという、一般的なシステムである。
最高速度は75㎞/h、途中の停車駅はない。
と言うのも、神戸市を南北に分断する六甲山の下を山岳トンネルで
駆け抜けるからである。新神戸から神戸市営地下鉄西神・山手線と
相互乗り入れ、直通運転を実施している。軌間(レール幅)は標準軌(1435㎜)。
私自身、北神急行とは浅からぬ因縁を感じている。開業は1988年4月だから、
まもなく20周年だが、当時私は谷上から神戸電鉄(以下、神鉄)で2駅の大池に
住んでいた。それ故、一番列車に乗る幸運もあって、それが鉄道への関心を深める
契機にもなったのである。
北神急行は神鉄の子会社でもある。今、同一のホームで乗り換えられるように、
6年前に工事を行った。しかし、構想とは裏腹に高額な運賃が災いして、赤字と
なったので、現在は線路をリースする形で営業を続けている。
車庫見学会では北神急行の車両に出会えた。乗り入れ本数が少ないので中々巡り
会うチャンスもないのである。谷上駅は高架駅で、新神戸駅は地下駅、と言う訳で
北神急行は7キロ以上に及ぶ長い上り坂となっている。当時では珍しかった交流
モーターを積んだ為に、6両編成中、3両の電動車(モーターを積んだ車両)で事を
済ましている。逆に新神戸へは長い下り坂なので、電気制動という抑速ブレーキが
本来は加速に用いるマスコンハンドルに付いている。ATO運転中は、ブレーキも
マスコンもニュートラルで運転している。

「Wiiプレゼント応募」

2007年10月08日 | Weblog
私は簡単HPから移ってきた者だが、それ関連でキャンペーンが実施されている。
それが「Wiiプレゼント応募」というキャンペーン。goo blogを新規に開設した者
を対象に、TBを送ることで成立する。
実は、我が家は母もblogを書いているが、TBという概念が良く分からない、と
言っている。TBとはコメントとは異なり、自分の記事とリンクするところが
異なると思う。逆に私の記事からリンクが貼られないので、URLを表示しておく。
ただ、goo blogではクリックでリンクへ飛ばないので、コピー&ペーストをして
頂くことをお願いする。

http://blog.goo.ne.jp/blogpresent

【旅】智頭急行

2007年10月04日 | Weblog
私は自己紹介に書いた事情で全国の鉄道に乗ってはいる(実際、あと半分乗ってい
ない鉄道があるのだが)。
今回は最近乗った第三セクター智頭急行について一筆書いてみよう。
智頭急行は過去5回乗っている。元々、兵庫県と鳥取県を結ぶ短絡線として国鉄が
計画し、かなり進行した段階で国鉄再建法により工事が止まった。しかし、地元が
県や銀行を巻き込んで智頭鉄道という三セクを立ち上げ、途中高規格化工事を経て
智頭急行と社名を改称し'94年に開業したのである。
この鉄道の収入の大半を占めるのが特急列車である。開業時から阪神地域と鳥取を
結ぶ「スーパーはくと」が運転され、所要時間にして一時間半という大幅な短縮を
実現した。それは単に距離が短くなったのみならず、智頭急行の路線自体に根拠が
ある。智頭急行は全体が56.1㎞あるが、「スーパーはくと」は最速38分で駆け抜け
る。表定速度にして88.6キロ。それが単線非電化という条件下で実現したのは、
路線のほとんどが高架線であることが大きい。さらに強固なPC枕木を採用する
ことで、「スーパーはくと」は最高速度130キロが可能になっている。最高速度130
キロと書くのは容易だが、何十トンもある鉄道車両が高速で走るのは莫大なエネル
ギーを要する。その反動で、車両の振動、路面の振動が起こるから、路面を強固に
しておかねばならない。
一回目「スーパーはくと」で通った時は、その高規格路線の凄さに圧倒された。
しかし同時に曲線が随所に入っていることに気付いた。これが振り古式DCを採用
した由縁であった。二回目は上郡から佐用まで普通列車に乗った。単行DCであっ
たが、当時JRでは珍しいATS-Pを使っていることが明確に分かった。
三回目も「スーパーはくと」だが、この時、対向の「スーパーはくと」が遅れて、
JR因美線群家駅を4分遅れて発車。ところが智頭急行に入って飛ばして飛ばして
上郡には2分遅れて着いた。そのあとも回復運転を続け、大阪では定時となって
いた。こんな所要時間でまだ余裕時間があるのか、と驚いた。
四回目、五回目はどちらも普通列車に乗った。経由する岡山県美作市に立ち寄った。
美作市には宮本武蔵生誕伝承地がある。それにあやかって宮本武蔵という駅を開設
している。記念の硬券入場券が上郡駅などで発売している。宮本武蔵駅自体は無人
の片側ホーム、という駅である。隣の大原は特急停車駅で車庫もある拠点駅。
二面三線。
皆様も一度乗ってみては如何であろうか。

智頭急行 上郡~智頭間56.1㎞

満鉄全史

2007年10月01日 | Weblog
トラックバック練習板のお題。今回はおすすめの本。
加藤 聖文『満鉄全史―「国策会社」の全貌』という本を紹介する。
満鉄とは南満州鉄道のこと。満州と言うと、どうしても「歴史」として捉える
日本人が多い。
歴史という語も英語のhistoryにしても、どうしても過去という感が拭えない。
具体的には理想郷としての把握や引き揚げ、等等。
しかし、中国にとっては「現在」である。中国が経済発展を遂げる中で、中国東北
の歴史が省みられてきたのである。
その現在神経質な地を舞台に活躍したのが「日本の国策会社」南満州鉄道
であった。
満鉄は日露戦後、ポーツマス条約によって引き渡されたロシア経営の東清鉄道
南部支線を継承して1906年に設立された。一応は株式会社であったが政府の影響下
に置かれた「国策会社」であった。
満鉄は非常に歴史上重要な人物が往来している。満鉄株に投資し利益を上げた堤康
次郎、西武グループを率いた実業家、初代総裁後藤新平、東京市長、逓信大臣、
原敬、政友会幹事長山本条太郎、鉄道大臣仙石貢、松岡洋右と、そうそうたる顔ぶれである。多分一人くらいは皆様が御存知であろう。
満鉄は一応鉄道会社であるが、当初からそうではなく、後藤は「陽に鉄道経営の
仮面を装い、陰に百般の施設を実行する」ことを考えていた。実際当初は沿線の
治安の権限も与えられていたし、鉱業にも手を出した。しかし、時には政党の弊害
によって混乱させられ、また一方で時代が十五年戦争へ向かうにつれ、権限は縮小
されて、最終的にソ連の侵攻で破綻する。満鉄の歴史は国策という名の無策の歴史
でもある。
尚、触れなかった名前で面白い人物がいる。岸信介と十河信二である。岸は「満州
国」において官僚として働き、十河は満鉄の理事として満州事変の時代に活躍した
のである。十河は国鉄総裁として新幹線建設に取り組み、新幹線の父と称される。
岸が総理の時、満鉄は「国策会社」を否定され、株式会社として記憶されることと
なる。
これは政治史としての満鉄の通史を知るのに有用な書である。

トラックバック練習板
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