1960年代生まれの音楽のメモ。

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他人の日記を盗み見した人の悲劇。

2021-07-18 07:12:56 | その他
どの国にも左的な人々・価値観や中道の人々や思想、右的な人々や価値観、果ては左翼や右翼も居る/在るわけだけど、おおよそ左的な国があるとして、その国のなかの右翼を取り上げた情報に焦点が当たったり、その情報に触れた誰かの心を掴んでしまったら、その情報に触れたその国を見るその人にとって、その国の右翼の存在が大きく見えることになります。

個人の日記も同じで、書いた人はデトックスとしてその人のなかの小さな部分を書き出しているかもしれない。プロの小説家が書いた文章と違って、そこにある文章は書いた人自身の気持ちを的確正確に表現していないかもしれない。書いた後気持ちや状況は変わっているかもしれない。でも日記を盗み見した人にとっては、それが盗み見した人にとっての書いた人の姿になってしまって、それが理由で以後その人とのコミュニケーションが破綻することはあり得る。そういうことが起きた場合、その「悲劇」の「責任」は、すべて日記を盗み見した人にある。他人の日記は読んではいけないという道徳があるのは、その「悲劇」を避けるためにあるのです。

ブログは違いますよ。ブログは紙に書いてしまっておく日記とは違います。公開しているのですからね、読まれても「仕方がない」し、人に読んで欲しいということが微塵もないなんてことはあり得ないし、公開しておいて読むなというのは、読んだ人への暴力(意思の強制)です。(自ら人前で服を脱いでいるストリッパーの裸を劇場で観るのと、服を着て道を歩いている人の服をとつぜん誰かが無理矢理脱がして見るのとは違います)

他人の日記は、書いた人が死んだ後なら読んでいい。もうその人とは動的なコミュニケーションは起きないし、読んで感想として(一方的に(?))回顧すればいいだけなのだから。

他人の日記を盗み見したときの自分自身の思いに呪縛されている人の悲劇。

というようなことを、先の記事に続けて思い巡らしました。(゜-゜)

※ちなみに、現代はSNSが他者を「監視する」機能も果たしているということですが、紙で書いてしまってある人の日記を盗み見するのはまさにそれで、SNSでも紙に書かれた日記でも、「監視する」者はされる人に気持ちを奪われているのです。好きと嫌いは裏表、好きの反対は嫌いではなく無関心です。そして、相手に憑り付くことや、付き纏い化した承認欲求の要求は、渇望がエスカレートした様、ストーカーです。他人の監視をしないではいられない人の気持ち(SNSの監視をやめられない)



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