1960年代生まれの音楽のメモ。

あの時観た映像や好きな音楽をクリップしておくブログ。

2021年7月。

2021-07-31 04:49:44 | その他
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他人の日記を盗み見した人の悲劇
人をディスることで自分を上に見せるお国柄やお人柄
SNSストーカー

解説
承認欲求 SNS - google検索
承認欲求 - google検索
承認欲求との付き合い方│名越康文 TOWNWORKマガジン
承認欲求の「自己顕示欲」とは?強い人の特徴や原因、職場での付き合い方 あしたの人事online

自分についてネットに何と書かれているかを検索するエゴサーチはするもしないもする人の気持ち次第ですが、人がネットに何を書いているかを付き纏って検索してするのは、ストーカーでしょ。特に、リアルでコミュニケーションがある人同士の場合、なんでその人にしがみついて監視するの?という話になります。する人当人の気持ちだけではなく、別人格の被害者が居る話になります。

SNSストーカー。

2021-07-29 09:02:14 | その他
SNSで監視 繋がりで。

SNSによる他者の監視/他者へのしがみつきがいま社会問題になっていますよね。アツアツ期のカップルの二人の間でならともかく(←それは楽しそうだなあ)、たとえ家族でも、毎日毎日、生活の一挙手一投足を報告する/報告を求めるなんて、恐怖でしかないですね。距離の離れた家族とか友人同士で、お互い生きてるか?と折に触れて1日1回とか安全確認をするのはとても分かるけど、寂しい境遇の人が助けてくれと言うのは分かるけど、あるいは寂しい人の話を聞いてあげるためにコンタクトを取るのなら分かるけど、そうでない人が自分の話を聞いて聞いて?自分のことを見て見て?受けとめて受けとめて?こっち向いてこっち向いて?とまとわりつくなんて、そりゃストーカーだよ。(リアルで触れている人とのコミュニケーションに幸せがあれば、そこで相手が自分を受け止めている/自分も相手を受けとめているという感覚があれば、そんな渇望の補いを求めるような承認欲求は湧かないものです)ツイッターとかはコメントが付いたりDMが来る、LINEとかは一方的にメッセージがやって来る、生活の一挙手一投足を報告する/報告を求めるように。

付き纏い、怖いですね。

SNS ストーカー - google検索
SNS 監視する人 - google検索

イベントとか催しとか、何かあったときに見て見て、聞いて聞いて、と言うのは普通の感情人情だと思うけど。

人をディスることで自分を上に見せるお国柄やお人柄。

2021-07-26 22:02:32 | その他
人をディスることで自分を上に見せるお国柄や人柄って、厄介だなあ。(・・;)
下記記事はある国のお国柄についての記事だけど、そういうお人柄の人物って身の回りに居ますよね。人のことを矮小化したり中傷したりして他人に伝えたり、応答を返したりする人物。他者の写真を選ぶとき、写りの悪い写真を選ばないではいられない人物。

相手が自分よりよっぽど大きく見えているんですね、相手を受け入れるのに/相手と関わるときに、相手をけなしたフィルターをかけたうえでなければ相手を受けとめられないのだから。

矮小化したり中傷したりして他者を伝える今の韓国の心性
 今の韓国にはあるいは難しいのかもしれないけど、互いに尊重し合う関係を結ぼうよ。ものの見方を変えようよ。(人をディスることで自分を上に見せる心性はたぶんその人物の心の内で凝り固まっていて変わらないので、変わらないのだろうな、きっと。

人と面と向かったコミュニケーションではないところで、人を下げる外交を展開するお国柄・お人柄。当人が出すつもりはない/出されることさえ知らない場所に、人をディスることで自分を上に見せる写真を選んで出さないではいられない人物。皆で使おうと温かい気持ちで提供した物の管理アドレスを、提供した人(持ち主)に内緒でこっそりと変更してしまうとか。そういう心性。

他人の日記を盗み見した人の悲劇。

2021-07-18 07:12:56 | その他
どの国にも左的な人々・価値観や中道の人々や思想、右的な人々や価値観、果ては左翼や右翼も居る/在るわけだけど、おおよそ左的な国があるとして、その国のなかの右翼を取り上げた情報に焦点が当たったり、その情報に触れた誰かの心を掴んでしまったら、その情報に触れたその国を見るその人にとって、その国の右翼の存在が大きく見えることになります。

個人の日記も同じで、書いた人はデトックスとしてその人のなかの小さな部分を書き出しているかもしれない。プロの小説家が書いた文章と違って、そこにある文章は書いた人自身の気持ちを的確正確に表現していないかもしれない。書いた後気持ちや状況は変わっているかもしれない。でも日記を盗み見した人にとっては、それが盗み見した人にとっての書いた人の姿になってしまって、それが理由で以後その人とのコミュニケーションが破綻することはあり得る。そういうことが起きた場合、その「悲劇」の「責任」は、すべて日記を盗み見した人にある。他人の日記は読んではいけないという道徳があるのは、その「悲劇」を避けるためにあるのです。

ブログは違いますよ。ブログは紙に書いてしまっておく日記とは違います。公開しているのですからね、読まれても「仕方がない」し、人に読んで欲しいということが微塵もないなんてことはあり得ないし、公開しておいて読むなというのは、読んだ人への暴力(意思の強制)です。(自ら人前で服を脱いでいるストリッパーの裸を劇場で観るのと、服を着て道を歩いている人の服をとつぜん誰かが無理矢理脱がして見るのとは違います)

他人の日記は、書いた人が死んだ後なら読んでいい。もうその人とは動的なコミュニケーションは起きないし、読んで感想として(一方的に(?))回顧すればいいだけなのだから。

他人の日記を盗み見したときの自分自身の思いに呪縛されている人の悲劇。

というようなことを、先の記事に続けて思い巡らしました。(゜-゜)

※ちなみに、現代はSNSが他者を「監視する」機能も果たしているということですが、紙で書いてしまってある人の日記を盗み見するのはまさにそれで、SNSでも紙に書かれた日記でも、「監視する」者はされる人に気持ちを奪われているのです。好きと嫌いは裏表、好きの反対は嫌いではなく無関心です。そして、相手に憑り付くことや、付き纏い化した承認欲求の要求は、渇望がエスカレートした様、ストーカーです。他人の監視をしないではいられない人の気持ち(SNSの監視をやめられない)