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「コロナ成功国のジャパンで、なぜ安倍政権は支持率急落?」“日本のナゾ”という記事がありました。

2020-05-27 15:59:08 | その他
「コロナ成功国のジャパンで、なぜ安倍政権は支持率急落?」海外政治学者が注目する“日本のナゾ”(文春オンライン) - Yahoo!ニュース 5/27(水) 11:00配信

コロナ禍、5月27日時点での状況で、世界的に第1波が収束して来ていると目される今、100万人当たりの死亡者数という指標で、東アジア各国はコロナ対策に成功を収め、(欧米各国は失敗したとそれぞれの国内で評価されているかはわからないけれど)東アジア各国に比べてうまくいかなかったという認識になっています(数字がそう示している)。

そうしたなかで、欧米に比べると日本はうまくいったように見えるのに日本の国民の政府への評価が低いのはなぜか、日本に比べるとうまくいかなかったように見えるのに欧米各国の国民の政府への評価が高いのはなぜか、国民の政府への評価は日本は世界のなかで最低レベルになっている、これはどうして?という記事がありました。

記事のみならず、私たち多くの日本人たち自身が自分でいまそう思っている。政府への私たちのこの不信感はいったい何か?

それでひとくさり思い巡らすと、こう思い至った。

一連のコロナ対応で国民に見せた安倍首相、加藤厚生労働大臣、西村経済再生担当の姿、国民へ向けたコミュニケーションが、国民を「対等な人間扱い」していないと感じさせるものだったからではないか。いや、だったからだ、きっと。

人は、都度都度場面場面において、その場面に相応しい互いを人間扱いしたコミュニケーションを取れば、が取れれば、そのコミュニケーション自体によって満足する。満足するというか、納得する。腑に落ちてコトを前に進める。でもそうではないと、相手が自分を人間扱いしていない場合は、相手が自分を人間扱いしていないこと自体に不満足する。相手が自分を人間扱いしていないこと自体を納得しない。受け入れられない。どうして相手は自分を人間扱いしないのか?という気持ちを抱き、その気持ちは何らかのコトや事実に対する付属物などではなく、その気持ちそれ自体が人にとって大きなコトなのである。

たとえばお店で人がモノを買うとき、たとえば観光地でお土産を買うとき、たとえば表参道で洒落た服を買うとき、人は、1000円で買えたほうが1500円出してしまったときより必ず満足するわけではない。同じような服を50000円で買えたほうが60000円で買ったときより必ず満足するわけではない。お店の人とのやり取り、お店のおばちゃんやおじちゃんが気持ちのいい笑顔を向けてくれて、一言二言その土地の見るべきところなどお話出来れば、いい気分で、納得して店を出る。上品な店員さんが自分をちゃんと見て、丁寧に寸法を測ってくれて、お客様にはこれが似合うんじゃないかとか、思い切って冒険してこれにしてみてはどうでしょうかなどと会話を交わして買ったものなら、いい買い物をしたと納得して、いい気分で店を出る。でも、お店の人が、次に入荷する配送の人はいつ来るだろうとか、違う電話に出て長話するのに、こちらには早く買ってよ、いつ帰るんだよと言いたそうな雰囲気でそわそわしていたりしたら、買うのをやめるか、店を出るときにはがっかりした気持ちになって、納得して店を去ることにはならないだろう。買ったその品物が、鑑定したら1円でもいいモノなのかどうかは、人の気持ちを決定する全てではない。

あるいはまた、よく外国では公共の場ですれ違う人が親切だ、それに比べて日本人は本当に冷たくて意地悪と言われます。外国人は傘を忘れそうになったらこれあなたのではないですか?と手に持って来てくれる人がいたり、目が合ったら笑顔で会釈してくれたり(し合ったり)本当に親切だ、それに比べて日本は他人同士は本当に冷たい、目が合おうものなら嫌がらせされかねない、存在を無視するか敵意を抱いているかしているみたいだと。外国ではスマホに夢中になっている人は本当に自分が夢中になっているので当人が崖から落ちたり穴に落ちたりする事故がときどき起きる、それに対して日本では、その人が本当にスマホに夢中になっているわけではなく、すれ違う他人を無視するために(無視してどかすために、自分が譲らないために、譲り合いをしたくないために)スマホに夢中になっているフリをして歩く人がいる、ひどい、と。街路街中での犯罪が多いか少ないかといったら、外国のほうが多く、日本は少ない。置き引きや強盗、統計データの数値を見せられたら、安全度は日本は高い。実際に危険な目に遭う遭わないという経験でも、日本は安全で、日本より安全な国は少ない。でも、人の気持ち、納得感はそれが全てではない。道行く街中の人が冷たいか親切かという印象は、外国では互いを人間扱いする、日本人は本当に冷たいという評価があります。

総理大臣と国民、すれ違うだけの他人同士、お店の人とお客さん、友人同士、夫婦や恋人同士、先生と生徒、親と子、ほか人間関係の各々について、その関係に相応しい距離感や親密度合いに違いはある。ただ共通していることは、その関係性のなかにおいて、互いに相手を人間扱いしていれば、納得する。腑に落ちてコトを前に進める。でもそうではないと、相手が自分を人間扱いしていないこと自体に不満足する。納得しない。受け入れられない。人とはそういうものである。

その部分が、「人間のコミュニケーション」の部分が、安倍首相や加藤厚生労働大臣や西村経済再生担当ほか日本政府全体の振る舞いが、国民の「評価が高い」よその国と比べて失敗している。まともに質問に答えなかったり、疑問や意見に行政が応答しなかったり(無視していたり)、国民のほうを向いてくれたと感じさせた知事さんの邪魔にかかり始めたというように見えたり(国民より自分の権限のほうが大事と思っているように見えたり)、給付金の金額ではなく給付するのがカタツムリを見ているかのように遅かったり。ちゃんとこちらを向いていないでしょ?というのがいま時点の国民の気持ちなのだから。

ウヨクの人には誤解している向きもいるかもしれないけれど、「欧米と日本の比較」が「基準」なのではない。日本にも、政府は失敗しているけど、大阪府知事のように、その部分を「成功」している政治家もいます。でも日本政府は失敗している。安倍さんが「息をするように噓をつく」などと揶揄される有り様なのだから。

記事は「イメージ戦略が失敗したのではないか」と述べているけど、「イメージ戦略が失敗した」というよりは、「互いの関係性に相応しい/互いの関係において求められる/互いの関係において両方が納得出来るコミュニケーションを日本政府がとらなかったから」、つまり「コミュニケーションに失敗した」のだと思う。

以上、ひとくさり考えました。

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「イメージ戦略が失敗した」などと理解・把握すると、やれSNSをつかわなきゃとか、インターネットの有効で効率的な使い方は、と小手先で技術的な各論的な話に繋がりそうだけれど、そうではない。媒体は、いまやオールドメディアの感のあるテレビでも、最先端のイメージのネットでも、そこは問わない。きちんと相手(この場合は国民)に向き合っているかいないか、ということなのだと思う、「コロナ成功国のジャパンで、なぜ安倍政権は支持率急落?」の答えは、と思いました。

そして、この点について安倍さんないしは日本政府を支持する人の口調・言い分はほぼ共通していると思われます。人間扱いされなかった?お前が我慢して受け入れれば済む話なんじゃないの?です。




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