檀尻の180度ターンも驚きでしたが、村の皆さん全員が腹の底から楽しく笑いあっていた演芸大会が一番印象に残っています。
記念の日本手拭は大事にします。ありがとうございました。
興浜と福知の友好の証である、興浜公民館の前にある「興福庭」は、木のかぶは朽ち果て無くなってしまい、新たに植えられた紅葉も残念ながらこの夏の暑さで一本枯れてしまいました。
このシリーズはこれで終りますが、福知の皆さんお元気で。
タイトルの「段尻121歳」の段の字は誤字ではありません。
古い資料等をみていると「段尻」と表現されているものがあります。
又、丸亀藩であった讃岐地方では今でも「段尻」と書く地域があるようです。
もともとは「段尻」だったのかもしれないという推測のもと、興浜の若衆に知っておいてもらえればという事で、この機会を利用して使ってみました。
「段尻」・「檀尻」・「壇尻」と三通りの表現方法がありますが、興浜では現在「檀尻」という表現を採用しています。
檀尻の泥台(どろだい)の上の梁の部分5箇所に、製作当時に書かれた文字を発見。
それぞれ憶測を含めて解説してみます。
明治22年製作という事がわかります。
紀元について説明しましょう。
紀元とは、神武天皇の即位された年を1年とした暦で、明治22年は紀元2549年となります。西暦では1889年、干支は己丑(つちのとのうし)です。
ちなみに今年の平成22年は紀元2670年です。
発起人である、水田傳蔵氏と新井重兵衛氏はその当時の惣代です。
匠工(しょうこう)は児島新七氏で大工の棟梁という事でしょう。
現在栄町(さかえまち)に在住の現在当主である児島武章氏のご先祖で、屋号は篭屋(かごや)。
武章→武雄→勢作(T10.11.25亡)→新七(T6.5.3亡)→新次郎まで過去帳で調べる事ができました。。
本町(ほんまち)の廻船問屋であった篭屋児島家とはご親戚です。
差添(さしぞえ)の三木清吉氏は関町(せきちょう)で散髪屋さんをされていたご先祖のようです。
番匠・差添・匠工について調べてみました。
【番匠】(ばんじょう)乃至(ばんしょう)
古代、大和や飛騨などの国から交代で朝廷に仕え、木工寮(もくりょう)に属して宮廷の建築に従事した職人。
【差添】(さしぞえ)
付き添うこと。また、その人。付き添い。介添え。さしぞい。
【匠工】(しょうこう)
物を造ることを職とする人。職人。たくみ。
「匠工は番匠也」とあったので、匠工と番匠は同じという事は解りましたが、何故二通りの表現をしたのでしょうか。謎が残ります。
こちらの発起人は新井氏が右で水田氏が左ですが、当時の資料からすると水田氏が筆頭であったようです。
早玉神社の近くにある「福知グランド」に到着。
20周年という事で御旅所という設定のようですが、神様は渡られておられないので、奉納演芸という表現はおかしいので演芸大会という事にしましょう。
下の写真にはありませんが、かわいい幼稚園・小中学生の演芸もありました。
到着後、興浜興伸会・青年団の連中が、安田君の音頭で練りました。
文殊会の司会者の方を担ぎあげて楽しそうです。
文殊会の方が演芸をする為に舞台を組まれた様子。
10年に1回しか舞台は広げないようですが、手際の速い作業でした。
タイトル写真の二人の豪華絢爛な化粧まわしを身近に見せてもらいました。
タイトル写真で檀尻の上で相撲甚句を謡われているのが、この化粧まわしの持ち主の元相撲力士の方のようです。
文殊会の皆さんの「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」
連日夜の12時までの練習で会員の皆さんの心がひとつになったようです。
二人羽織では興浜青年団も出場。
熱く煮えたぎった「おでん」と生ビールです。
又もや文殊会の皆さんの登場で、「松ケン☆サンバ」
演芸の最後は興浜から「エイサー」と「興浜太鼓集団一擲」
予定通り9時30分に檀尻は早玉神社を出発。
興浜からは青年団の若者9名、25歳から45歳までの興伸会から7名、興壮会からは46歳の興ちゃんと稔ちゃん51歳の興壮会金井会長と60歳の還暦を迎えられて赤いまわしの高田さんと協議員から前梃子経験者である辻さん・山根さんの総勢22名が締め込み姿で文殊会の前で、この日我々の為に用意されたと思われるまっ白なクレモナの綱を握った。
青年団の中には、この檀尻が福知村に来てから産まれた者もおり、青年団はもちろんの事興伸会の中にもこの檀尻を曳くのは始めての者が多かったようだ。
早玉神社を出てすぐ檀尻は180度Uターンする。
前梃子2人、脇梃子6人、追梃子2人の梃子持ちは10名。興浜より6名少ないが軽がると、綱のみでUターンを行う。
このあと道路案内に見える、県道6号線に出て宍粟方面に約300m行った抜山地区にあるガソリンスタンド付近で再びUターンして休憩。
そのあと八鹿方面の吉野地区で再びUターンして早玉神社の方に向かう。このあたりから雨が少し降ってきたかな。
青年団はいつの間にか根曳頭のあたりに移動しており、福知の皆さんに溶け込んでいた。
檀尻があまりに速いスピードなので、今回初めてYouTubeに挑戦してみました。
早玉神社を通過。今日はここまで。
970年ですから平安時代でしょうか。福知村が京都・丹後国から、知恵を授かる霊験あらたかな仏様として譲り受けたのが文殊菩薩(ぼさつ)のようである。
当時から、「知恵の文殊」として早玉(はやたま)神社にまつられ、信仰を集めていたそうだ。
石垣の上にある本殿と、お参りする為の急な石段が、いい感じの神社である。
拝殿と本殿ですが、ちょっとわかりづらい写真でした。
宍粟市福知村にある早玉神社において、本日行われた秋祭りの様子を9回に分けてお届けする予定である。
興浜の初代檀尻が福知村に嫁入りしたのが平成2年5月の強い雨の日であった。10周年の時も雨模様。無情にも本日も檀尻を曳いている途中から雨が降りだしたが福知の皆様と楽しい一日を過ごす事ができた。
興浜協議員17名・嫁入時の協議員本部役員2名・興浜興壮会4名・興浜興伸会8名・興浜青年団9名が大型バスで乗り込み、その内の22名が締め込み姿で檀尻曳き出しのお手伝いをした。
帰り際に福知文殊会の方が、「20年前まで何も無かった秋祭りにこの檀尻が来た事で、老若男女村中の皆が秋祭りの当日この神社に足を運ぶようになり、この檀尻に携わる若い者が毎晩のように準備に集まり村がひとつになった。」という言葉を聞いてあらためて檀尻が存在する意義を考えさせられる一日となった。
旧檀尻と再会 隣は平成15年に新造された子供檀尻
檀尻曳き出しのお手伝いをしたメンバー
福知文殊会の皆さん
今日の為に新造された大幟
明治22年製作の初代檀尻は、平成2年春に縁あって宍粟市一宮町福知村に嫁入りし、福知村の村起こしに大きく貢献した。
それ以降興浜と福知村はお互いに親交を深め、興浜興伸会の有志が家族連れで福知渓谷にバーべキューや川遊びに行ったりと楽しい思い出をつくってくれた。
その福知村は、去年の平成20年8月9日の台風9号豪雨において、福知川に架かる橋3本が流され、川沿いの同市一宮町の県道一宮生野線で土砂崩れが起きるなど、自衛隊が出動するほどの大惨事となった。
流出した渓谷にあった名水「文殊の水」の水くみ場や、福知渓谷のバーべキューをする川床等が少しづつ復旧されているというニュースを耳にするたびに安堵するが、今年のこの暑い夏での復旧はさぞ大変であろう。
タイトル写真であるが、写真の裏には、「平成11年10月3日 福知早玉神社にて 檀尻嫁入り10周年」と書かれてある。
神輿飾付
今年の魚吹八幡神社秋祭りに向けて、今日の9時から10時まで興浜の神輿の飾付作業が、魚吹八幡神社神輿殿の前であった。
神輿の装飾品(金物類・隅絞り・幕類)は、普段は興浜金刀比羅神社社務所に保管されている。数年前までは、祭り当日の朝に行われていたようだが、近年神輿3ヶ村(興・新在家・余子浜)の申し合わせで、直近の日曜日となったようだ。ちなみに片付けは祭りが終わった次の日の10月23日の午前中にしているようです。
飾付作業を行っているのは、興浜自治会協議員の方です。
(左の写真)大鳥(鳳凰)を取付けるはしごに『明治16年9月』の文字がある。
(右の写真)右側のうしろに写っているのは魚吹八幡神社幣殿と本殿。右に写っているのは新在家神輿です。写真には写っていませんが、左側では余子浜の神輿も飾付をしています。
神輿飾付終了。再びこの扉が開くのは祭り当日21日の朝です。
本日午後1時金刀比羅神社社務所において、今年の神輿奉仕者16名の衣装合わせと顔合わせと簡単な練習がありました。