興にある大覚寺は現在浄土宗西山禅林寺派に属している。
創建当時は真言宗であったが、永正年中(1504~21)に真言宗から浄土宗に転宗された。
その本山である浄土宗西山禅林寺に一昨日大覚寺の「お経と法話の会」のメンバーで日帰りツアーがあったのだが、興ちゃんは仕事の為断念した。
メンバーのひとりであるMさんに永観堂境内にある画仙堂の写真を撮影して来てもらうようお願いした。それには訳がある。
興が誇る日本画家である小野周文の師匠である長安義信について調べる為に赤穂の田淵記念館に行った時に購入した『赤穂ゆかりの画家 鈴木百年・松年』にはこう書かれている。
鈴木松年(しょうねん)は日本画家であった百年の長男として嘉永元年(1848)6月14日に京都四条堺町西に生まれた。名は世賢、幼名は百太郎と称した。画号は初め百僊、32歳頃松年に改めた。
祖父の鈴木図書が天文学者で赤穂に生れているので赤穂にゆかりがある。
父百年は安政元年(1854)27歳の時、皇居炎上に伴う造営に際し、杉戸に「月下の鹿」・「菊に鶉」・「杉に白鷹」・「批把花に狗子」を描き、襖・地袋等の絵を描く。文久元年(1861)34歳の時、皇女和宮降嫁の土産品として屏風に四季の草花を描く。
松年は明治32年52歳の時、天龍寺法堂の天井画を描く。明治38年58歳の時、三千院客殿の襖絵を描く。信心深い面があったとされ、それゆえ大正3年67歳禅林寺永観堂に画仙堂を上棟したのだろう。
その時画仙堂の天井画を松年は息子松僊に託している。
松年が亡くなった翌年の大正8年、松僊は画仙堂で父松年と祖父百年の追悼展観を行った。
その鈴木派の業績を今に残す画仙堂は現在は内部非公開であるが、年に一度の寺宝展の為一昨日は公開されていたようである。ただ内部での写真撮影は禁止という事であったようだ。
興浜の渡邊鼎は松年と同じ嘉永元年生まれで、小野周文はひとつ年上である。鼎、周文ともに大正3年頃は興に戻って来ていたはずだ。鼎は大覚寺顧問として大覚寺の古文書の整理をしていた時期に、大覚寺の総本山である永観堂では鈴木松年が画仙堂を寄進していたという事だ。
Mさんが撮影された天龍寺と天龍寺の塔頭寺院のひとつである宝厳院の紅葉写真も見事であるので掲載する。
先に書いたが、天龍寺にある法堂の天井画「雲龍図」も鈴木松年が描いていた。描いていたという過去形であるのには理由がある。傷みが激しくなり平成9年に加山又造画伯によって描き換えられた。図案は違うが同じく「雲龍図」である。
メンバーは知らず知らずか鈴木松年の足あとを追った形となったようだ。