平成19年10月21日(宵宮祭) 日曜日 晴天 つづき
12時 興浜檀尻が西の馬場に向けて出発です
15時 西の馬場に無事到着です
昔ながらの提灯と遭遇しました
檀尻を西の馬場に据えつけたあとの帰り道興浜にて
このあと提灯行列・神輿渡御となるが、写真は無し
平成19年10月22日(昼宮祭) 月曜日 晴天
檀尻を警護する興浜梃子の16名です
西の馬場渡神殿前で恒例の集合写真
魚吹八幡神社 澤宮司・吉田君
興浜惣代・祭典委員長
今年の興浜神輿奉仕者16名
いよいよ還御です
平成19年10月21日(宵宮祭) 日曜日 晴天 つづき
12時 興浜檀尻が西の馬場に向けて出発です
15時 西の馬場に無事到着です
昔ながらの提灯と遭遇しました
檀尻を西の馬場に据えつけたあとの帰り道興浜にて
このあと提灯行列・神輿渡御となるが、写真は無し
平成19年10月22日(昼宮祭) 月曜日 晴天
檀尻を警護する興浜梃子の16名です
西の馬場渡神殿前で恒例の集合写真
魚吹八幡神社 澤宮司・吉田君
興浜惣代・祭典委員長
今年の興浜神輿奉仕者16名
いよいよ還御です
平成19年10月20日 土曜日 晴天
16時より今年檀尻を曳きだす興浜・余子浜・垣内による据え位置の地割りが敷村の立会いのもと行なわれました。西の馬場のあと楼門前での様子です。
平成13年度より檀尻の原寸シートを作成して据え位置の地割りを行っています。
平成19年10月21日(宵宮祭) 日曜日 晴天
朝7時30分 魚吹八幡神社本殿の提灯吊りを協議員の方がしています。
興浜の提灯は本殿まわりに10個あります。
幣殿・舞殿の提灯は新在家です。
拝殿の提灯は余子浜です。
檀尻は7時蔵出しのあと金刀比羅神社に据えつけられました。
金刀比羅神社にあがる大幟です
今年檀尻蔵では檀尻管理委員の方が、土間のほこり押さえのペンキを塗りました。
ご苦労様でした。
今年から惣代3名の方は羽織・袴姿です。
巫女村練りの先頭は祭典委員長と子供会会長です。
流し連が巫女のあとに続きます。
檀尻の出発時間が近くなりました。今日はここまで。
土俵
境内に入って左側(西側)に相撲土俵がある。
網干地域は昔から相撲が盛んであったようだ。
なぜこのような事を書く事になったのかは、今年9月に姫路市文化財保護協会が発行している『文化財だより第59号』を見たからだ。
その中に掲載されている、『魚吹八幡神社秋季例祭風流』のところに次のように書いている。『石清水八幡宮放生会の中心は雅楽と相撲でありましたが、魚吹八幡の祭礼は確実な記録で鎌倉時代の健治2年(1276)には相撲が主要な位置を占める祭礼が行なわれていたことが想定され、明治時代後半に至るまで祭礼において盛んに相撲が行なわれていました。現在は夏祭りのこども相撲として盛んに行なわれています。』
上記の通り網干6ヶ村(興浜・浜田・新在家・余子浜・垣内・大江島)にはそれぞれ土俵があり、夏に奉納相撲大会が行なわれている。
ここ興浜の土俵は金刀比羅神社にあるが、写真のように地面より50cmほど盛土した土俵になったのは、昭和60年代前半のようだ。
毎年8月に行われる夏祭りでの奉納相撲大会について書いてみます。
いつの頃より始まったのか、興浜在住の長老が子供の時に参加していたというくらい歴史のある行事です。昭和40年代後半ころまでは夏祭りの二日間とも夜に行われていました。興浜中の老若男女が金刀比羅神社に集い、これからの興浜を担う子供達に一喜一憂した盛大な行事でした。
昭和32年に興浜子供会ができてからは、子供会行事となったが、それ以前は自治会が行っていたのだろう。
僕が子供会で6年生(昭和51年)の時は間違いなく夜に行なわれていたが、いつのまにか暑い昼間の行事となっていた。僕が子供会の役員をした平成16年の夏祭りより昔のように夜の行事となった。どうしても夜に行い興浜の方に一人でも多く夕涼みがてら見てもらいたかった。自治会役員の方にお願いして各戸配布した、その時の僕の気持ちを込めたビラを紹介します。
『毎日の天気つづきで、一雨欲しい今日この頃ですが皆様にはますますご健勝の事と存じます。平素から子供会活動にご理解ご協力を頂きまして誠にありがとうございます。さて、今年の金刀比羅神社奉納相撲大会は夕方から開催する予定です。一昔前までのように、興浜の住民みんなが子供達の相撲に一喜一憂した大会にしたいと思いますので、是非とも夕涼みがてら、金刀比羅神社にお越し下さいます様よろしくお願いいたします。これからも、興浜子供会の子供達を、時には叱り、時には一緒に笑い、『ひとりの子供』としてではなく『興浜の大切な宝』として、見守って頂きたいと思います。』
金刀比羅神社奉納相撲大会は僕が大好きな興浜の行事である。
その時の様子を一部紹介します。
練習風景
網干相撲連盟・網干中学校相撲部・同OBの方に指導して頂いています
金刀比羅神社夏祭り奉納相撲大会当日
大会前の魚吹八幡神社澤宮司による御祓い
低学年の取組みの様子
主審は網干相撲連盟の方です
副審は自治会役員の方です
高学年の取組みの時は夜の帳もおりていい感じです
試合後の表彰は自治会長からです
その時の6年生の写真です
神輿飾付
今年の魚吹八幡神社秋祭りに向けて、今日の9時から10時まで興浜の神輿の飾付作業が、魚吹八幡神社神輿殿の前であった。
神輿の装飾品(金物類・隅絞り・幕類)は、普段は興浜金刀比羅神社社務所に保管されている。数年前までは、祭り当日の朝に行われていたようだが、近年神輿3ヶ村(興・新在家・余子浜)の申し合わせで、直近の日曜日となったようだ。ちなみに片付けは祭りが終わった次の日の10月23日の午前中にしているようです。
飾付作業を行っているのは、興浜自治会協議員の方です。
(左の写真)大鳥(鳳凰)を取付けるはしごに『明治16年9月』の文字がある。
(右の写真)右側のうしろに写っているのは魚吹八幡神社幣殿と本殿。右に写っているのは新在家神輿です。写真には写っていませんが、左側では余子浜の神輿も飾付をしています。
神輿飾付終了。再びこの扉が開くのは祭り当日21日の朝です。
本日午後1時金刀比羅神社社務所において、今年の神輿奉仕者16名の衣装合わせと顔合わせと簡単な練習がありました。
鳥居
高さ十六尺四寸 柱回り四尺四寸 柱間内法十二尺
大正七年四月十日 太田勝治・山本真蔵・水田専次 三名ヨリ寄進
10月21,22日の魚吹八幡神社秋季大祭において、ここ興浜は檀尻・流しをくりだし、お旅所(西の馬場)もしくは魚吹八幡神社楼門前において檀尻芸を披露して帰って来るのだが、その出発地点がここ金刀比羅神社である。
平成2年に新蔵された2代目になる檀尻の高さが今までより高くなった為、平成2年にクレーンを使用して鳥居を高さ80cm持ち上げ、沓をはいたようにコンクリートで嵩上げをした。
鳥居寄進者のひとり山本真蔵氏は明治10年5月に生まれ、明治37年3月町会議員に選ばれて、大正10年3月まで在任した。また明治40年9月郡会議員に当選し、大正11年3月まで在任した。詳しくはのちほど改めて紹介するが、寄進した時は網干町会議員と揖保郡会議員をされていた。その時、山本真蔵氏42歳の話です。
しめ柱(正面)
正面に刻字は無い。裏側のみ刻字有り。高さ3.7m,断面435mm×390mm
東側(写真左) 『壬辰十一月 嶋津拾作・太田市次郎』
『周旋人 伊藤佐助・児嶋繁作・岡井周助・安部新兵衛』
西側(写真右) 『明治二十五年 山本宗右衛門・福井治助』
『周旋人 福井治助・水田傳蔵・嶋津拾作・山本金治郎』
拝殿内に明治25年(1892)の『屋根換寄付芳名板』がある事から、文政7年(1824)に造られた本殿(筆者推測)が68年後の明治25年に1回目の屋根換工事と何かを行った事は確かである。境内にはまだまだ沢山の歴史の証拠がある。これから気合を入れて手掘り作業を行わなければならない。