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魚吹八幡神社の古文書を少し紹介して魚吹八幡神社に吊るされる提灯の年号を整理しながら糸井の本殿前の提灯について書いてみる。
『宝暦十年(1760)庚辰(かのえたつ)二月播磨国揖東郡揖西郡之内二十八箇村神社帳抄』に
天文三年(1534)甲午(きのえうま)八月朝日山ニ於テ龍野ト太田方闘争ノ時當社モ兵火に罹リシ・・・と続き
氏村
京極佐渡守様御領分
興濱村 天満村 長松村 田井村 宮内村 津市場村
代官飯塚伊兵衛様支配所
余子濱村 大江島村 西土井村 熊見村 山戸村
脇坂淡路守様御領分
新在家村 丁村 宮田村 朝日谷村 糸井村 田村 和久村 出屋敷村 坂上村
脇坂淡路守様御領分 池田傳之助様御領分
平松村
建部丹波守様御領分
吉美村
右氏村二十八ケ村□申得候得共當時二十二ケ村有之興濱村新在家村余子濱村より九箇村役相勤候故二十八村にて御座候
別當 等覚院 社僧 徳寿院 社家 拾壱人
『播磨国揖東郡宮内村鎮座 魚吹八幡神社由緒』には
天正四年(1576)丙子(ひのえね)十月羽柴家ノ従竹中中集等ノ狼藉ニ依リ社頭神庫都テ兵火ニ罹リ社記神悉ク灰塵トナル只御正體ノミ神官河田□□□火ノ中ヨリ護出シ奉ル
寛永九年壬申(みずのえさる)正月宮社ヲ重営シ鎮座シ奉ル則今ノ社頭是ナリ
寛永年中京極家龍野入部田□リ寄付セラル以来崇敬暑シ云々
※この文書は明治三年七月に行われた神社調査において、各村の氏子惣代及び庄屋が丸亀藩網干出張所へ提出した文書である。
『播州揖東郡福井荘魚吹八幡宮由緒』には
貞亨年中より輪番と号し氏中より三箇村つつ庄屋三人社用の節罷出宮入用等取扱ふ事に相談一決し一年替の勤来セリ
年表順に整理してみる。
天正四年十月(1576)丙子(ひのえね)魚吹八幡神社は兵火にあい消失
寛永九年(1632)壬申(みずのえさる)魚吹八幡神社再建
明暦二年(1656)丙申(ひのえさる)本殿前箱提灯 糸井(龍野藩?)
万治元年(1658)戊戌(つちのえいぬ)京極刑部少輔知魚吹八幡神社社領を寄付、この時の祭礼日は八月十五日
貞亨年中(1684-1687)輪番制が始まる。この時は三ケ村交代の輪番制
正徳二年(1712)壬辰(みずのえたつ)本殿前箱提灯 宮内(丸亀藩)
享保四年(1719)己亥(つちのとい)魚吹八幡神社楼門大提灯 宮内(丸亀藩)
宝暦十年(1760)庚辰(かのえたつ)時代の魚吹八幡神社の氏子は
興濱・天満・長松・田井・宮内・津市場・余子濱・大江島・西土井・熊見・山戸・新在家・丁・宮田・朝日谷・糸井・田・平松・吉美の二十二ケ村
明和五年(1768)戊子(つちのえね)本殿前箱提灯 糸井(龍野藩)
安永八年(1779)己亥(つちのとい)魚吹八幡神社拝殿箱提灯 天満(丸亀藩)・長松(丸亀藩)・田井(丸亀藩)
興ちゃんの独り言
万治元年に京極知公が社領を寄付するまでは、糸井村が中心となり本殿をお守りをしていたのだろうか。その後、丸亀藩京極知公が社領を寄付して丸亀藩の宮内村が本殿の提灯、楼門の大提灯と次々と寄付したあと、明和五年に糸井村が昔をしのび「糸井村こそ本殿の守り村」と提灯を寄付したのだろうか。
タイトル写真と下の写真は秋季大祭時の本殿前
現在提灯を吊っているフックは最近に取り付けたものである。
江戸時代の匠の技である提灯を吊るす為の木製の滑車が今も残る。
めずらしく、貴重なものである。
本殿全体が明るいので、あまり気に留めていませんでした。
昔はろうそくを使っていたでしょうから、それを取り替えるためには、滑車が便利だったことでしょうね。
新しく見える提灯なのに・・・と、不思議に思っていましたが、
提灯を作り変えても、献納(?)した時の年号を書き入れるのですね。
拝殿まわりの提灯も電球です。
新しい提灯になっても献納した年号を入れているようです。
本殿興・幣殿新在家・拝殿余子濱の網干3ケ村の提灯には年号が入っていないのでいつの頃から吊るされたのかわからないのが残念です。