興浜干拓碑 (姫路市網干区興浜907番地)
興浜干拓碑
〔要略〕
着工昭和20年10月17日 竣工昭和24年12月10日
毎年のように襲う台風災害を防ぐために、湾洞川河口の民有地および魚介産卵地を含む地域の干拓を行いました。役員の努力と漁民の協力により10余町歩、1千万円の工費と4ケ年の年月を費し、限りなく果菜が実を結ぶ緑畑と成りました。深く感謝の誠を顕し碑を建て永く後世に伝えます。
昭和29年12月 興浜干拓組合建立
姫路市網干土地整理組合作成『網干区の字限図』より
平成19年現在の姫路市網干区興浜付近の地図 goo地図より
昭和20年までは、今の興浜に『湾洞川』という川があった。本町橋のすぐ南側から現在の興浜農栄舎会館を通り『沖高洲』に流れていた。
上図の黒く囲んだ部分が『湾洞川』です。両側は低い土手になっていたようで、青い部分は『西ノ浜』『西高洲』『古新畑』『中新田』『新々田』に行く橋が架かっていました。『沖高洲』はその名の通り、汐が干潮の時に干潟になっていた場所である。
『湾洞川』は、南に『沖高洲』がある為、生活物資を運搬する船が通る程度の川だったようです。もちろん船着場もあったようです。
記念碑の碑文からわかるように、台風が襲うたびに農作物に被害が出る為、興浜干拓組合を設立して、『沖高洲』の南側に堤防を築造し、サンドポンプにより、上図緑色の部分の砂で、『湾洞川』と『沖高洲』を干拓しました。ポンプアップした砂に塩気がかんでいた為、西側の『新々田』は10年余り不作に苦しんだようです。
『湾洞川』の西側の『西ノ浜』『西高洲』『古新畑』『中新田』『新々田』と南側の『沖高洲』はそれまで、家がありませんでしたが、それ以降少しずつ家が建ちはじめ現在では、どの場所も畑も残っていますが、住宅地になっています。
埋め立てられた『湾洞川』は興浜507番地、『沖高洲』は興浜907番地として現在残っています。
興浜の住所を見たとき、507-○○なら『湾洞川』、907-○○○なら、『沖高洲』だったという事です。
誰もが知らなかったり忘れている事を、このような忘れられたように建つ石碑を読む事と、長老から聴き取りした事を記します。現代の我々には想像できないような、大工事であったようです。
当時の惣代をされていた干拓委員長の太田覚治郎氏はじめ干拓委員の方々のおかげで今の興浜がある事には間違いありません。感謝です。
本町橋南側の湾洞川跡
幅を狭くして水路として残っています
干拓委員の中に最後の網干町長宮垣幸吉氏の名前がある事に疑問を抱いています。宮垣氏は元々網干の方ではなく氷上郡の方です。山本真蔵前町長の推薦で就任後、興浜に仮住まいをしたと聞いています。干拓完成の1年前の昭和23年12月に亡くなっています。干拓事業はその当時では相当大規模な事業だった事と思われます。この干拓の影の功労者でしょうか。春麗さんなら知っておられないかと思い書き込みました。
実際には、食料増産が最大の目的だったようですね。
夏休みの宿題で網干の事を調べています。
碑文の事も取り入れたいので碑文の要略と地図を使わせて頂けませんか。どうぞよろしくお願いします。
了解しました。
夏休みの宿題頑張って下さい。
疑問があれば連絡下さい。