テレビ(BS11)で「あの日昭和20年の記憶」をいまみながら 書いてます。
これは、31年前に母が書いた文章です。
今年も終戦記念日が巡ってきました。
悲惨な戦争が終わった日。
思えばその時、私のお腹にいた次女ももう33歳。
遠い昔のように思えるのですが、苦しかった日々がいま、甦ってきます。
終戦の前日でした。明日は陛下の重大は発表があるから 聞くように・・・とラジオが報じていました。翌日の放送でを私は 一心にききました。
天皇陛下の震えるような声が、ガー ガーという雑音とともに
「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え・・・」と言われています。
これ以上 何を堪え何を忍べといわれるかと思っていると どうやら無条件降伏ということです。戦争がおわったのです。
負けた日本が、この先どうなるということより 私はほっとしました。
今夜から空襲警報もなく 電灯もつけられる。妊娠九ヶ月の身重で、警報がでれば 直ぐ 避難できるように、モンペ姿のまま ただ 横になっているだけの毎日だったからです。
食糧はますます逼迫して 子供たちには ひもじい思いをさせまいと その確保に必至の毎日でした。戦争が終わって肩の荷が 軽くなったようです。
当時、私たち一家は 名古屋から疎開してきており、主人の実家の隣にある分家の離れ座敷にすんでいました。 長男は名古屋陸軍幼年学校の生徒で、小牧の学校におり、次男は小学校四年生、長女(私のことです)は保育園児でした。 主人は県庁の外郭団体である労務報国会に勤務しておりました。
大家のおばあさんは 一人暮らしで 昔気質の旧家のご隠居さんでした。品の良い人でしたが、しっかり者で通ってました。 子供たちはお婆さんの顔色を うかがっての生活です。のびのびと誰の気兼ねもなく暮らせるのは、いつの日かとおもいました。けれども 暗くてひもじい生活を強いていた戦争が終わったのが 私のいつわらざる気持ちでした。
空襲(名古屋大空襲)
澄み切った青い空を 一条の白い細い線が、 ずっと東から西へと 一直線に鮮やかひかれてます。飛行機は高度を行くので 目には はっきりみえません。
青い空と白い一線 本当に綺麗です。その線が 東の方から ゆっくりと ぼやけてきて 雲のようになり それが、いつの間にか 大空に解けて 消えていきます。それを私は じっと眺めております。そのうちに 30数年も前の 空襲の時のことが、甦ってきます。
私が初めて敵機をみたのは、前述のような晴れた日でした。ゴー ゴーと不気味な唸りをたて 北方へ向かってます。防空壕から そっと出てそれを眺めています。
皆 無言です。隣組で掘った防空壕は全員入ることができません。私は、入り口にいたので よくみえます。胸がドキドキして あしのすくむ思いです。時間は 1時間ぐらいだったと思います。警報が解除された時は ほっとしましたが、勤めに出ている主人と長男が気鰍ゥりです。長男は勤労学徒として働いていました。中学一年生だったとおもいます。二人が夕方帰ってきた時 ほっとしました。
その後は毎夜のように 空襲警報が でます。ブー ブー ブーとまず警報です。
素早く 家の中の電灯を 消してまわります。 一つの電灯にだけ 黒い布を被せ 光を外にもらさないにして 支度します。 警戒警報になると 一家全員、防空壕に退避するのです。寒い寒い晩に そんなことが二度 三度です。そのころはまだ爆撃はありませんでしたが 人々は 毎夜のことに 不安と恐浮ェ募ってきます。
その頃、ちょうど 三河地方に 大地震があり、被害も大きかったようでしたが 我々には余り知らされません。時々くる余震に 子供たちも怯えます。空からと 地の下からの災難との恐浮ナ 寄ると触ると その話ばかりです。
毎夜のように偵察に来ていた敵機は、 大都市への 大空襲をはじめました。東京はB29の大挙来週によって 一夜にして焦土と化し 死者は何万ともいわれ 私たちの不安はますます募るばかりです。
忘れもしません。昭和20年3月20日。夜の大空襲で 敵機 大挙来襲のなか 子供を抱えて、防空壕、飛び込みました。鉄橋の上を 汽車が走るほどの 爆音です。子供を自分のそばに 抱きよせます。緊張した幼い顔が 私の顔を見つめています。私は、目をつむって 両手に子供を しっかり抱えていました。
ドーン ドーン ドーン高射砲が 薄気味悪く 遠くの方で鳴っています。
そのうちに焼夷弾が 雨 霰と落下し始めました。私の家の近くでも 万一に備えて外に出しておいた布団にも 飛び火して焦げ始めました。 50メートル先の電柱に 火が付いた時には 身体の震えがとまりませんでした。
悪夢のような一夜が 開けて 我が家の無事を 見た時はほっとしました。辺りにはきな臭い臭いが漂っています。その日、次男が学校から すぐ帰ってきて
「おかあさん、大変だ。 大変だ。学校が全部 やけてしまったよ。僕たちの買っていた豚もみんな死んでしまった。明日から 学校へ行けなくなってしまった。
どうしよう」としょげ返っています。
3,4軒先のの風呂屋さんが 防空壕で行き埋めになって死んでしまった。警防団長さんの家も一家全滅とか 身辺のひとが、数多く 帰らぬ人となりました。私たちは事の重大さに 顔を見合わすばかりでした。
大分前から 子どもと妊婦は 疎開するようにとの 達しがあったのですが 私たちは頑張っていたのでした。
この機に、心をきめて 2,3日後には 奥町へ疎開しました。荷物を荷馬車に積んで 東海道を 男の子二人と主人で出発しました。
途中でも 空襲に遭い 田んぼのなかで 身を伏せたりして 長時間かかって やっと、奥町についたそうです。私と幼い○○子(私のこと)は電車で 12~3年くらい住んだ我が家を 後にしました。
そして、奥町の本家の一間で お世話になることになりました。
実際には記憶のない私ですが きっと母がつたえたかったのだろうと思います。
子供たちにも伝えることが大切 戦争を忘れないために・・・・
ここに登場する人で残っているのは 私とお腹のなかにいた妹の二人になってしまいす。
これは、31年前に母が書いた文章です。
今年も終戦記念日が巡ってきました。
悲惨な戦争が終わった日。
思えばその時、私のお腹にいた次女ももう33歳。
遠い昔のように思えるのですが、苦しかった日々がいま、甦ってきます。
終戦の前日でした。明日は陛下の重大は発表があるから 聞くように・・・とラジオが報じていました。翌日の放送でを私は 一心にききました。
天皇陛下の震えるような声が、ガー ガーという雑音とともに
「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え・・・」と言われています。
これ以上 何を堪え何を忍べといわれるかと思っていると どうやら無条件降伏ということです。戦争がおわったのです。
負けた日本が、この先どうなるということより 私はほっとしました。
今夜から空襲警報もなく 電灯もつけられる。妊娠九ヶ月の身重で、警報がでれば 直ぐ 避難できるように、モンペ姿のまま ただ 横になっているだけの毎日だったからです。
食糧はますます逼迫して 子供たちには ひもじい思いをさせまいと その確保に必至の毎日でした。戦争が終わって肩の荷が 軽くなったようです。
当時、私たち一家は 名古屋から疎開してきており、主人の実家の隣にある分家の離れ座敷にすんでいました。 長男は名古屋陸軍幼年学校の生徒で、小牧の学校におり、次男は小学校四年生、長女(私のことです)は保育園児でした。 主人は県庁の外郭団体である労務報国会に勤務しておりました。
大家のおばあさんは 一人暮らしで 昔気質の旧家のご隠居さんでした。品の良い人でしたが、しっかり者で通ってました。 子供たちはお婆さんの顔色を うかがっての生活です。のびのびと誰の気兼ねもなく暮らせるのは、いつの日かとおもいました。けれども 暗くてひもじい生活を強いていた戦争が終わったのが 私のいつわらざる気持ちでした。
空襲(名古屋大空襲)
澄み切った青い空を 一条の白い細い線が、 ずっと東から西へと 一直線に鮮やかひかれてます。飛行機は高度を行くので 目には はっきりみえません。
青い空と白い一線 本当に綺麗です。その線が 東の方から ゆっくりと ぼやけてきて 雲のようになり それが、いつの間にか 大空に解けて 消えていきます。それを私は じっと眺めております。そのうちに 30数年も前の 空襲の時のことが、甦ってきます。
私が初めて敵機をみたのは、前述のような晴れた日でした。ゴー ゴーと不気味な唸りをたて 北方へ向かってます。防空壕から そっと出てそれを眺めています。
皆 無言です。隣組で掘った防空壕は全員入ることができません。私は、入り口にいたので よくみえます。胸がドキドキして あしのすくむ思いです。時間は 1時間ぐらいだったと思います。警報が解除された時は ほっとしましたが、勤めに出ている主人と長男が気鰍ゥりです。長男は勤労学徒として働いていました。中学一年生だったとおもいます。二人が夕方帰ってきた時 ほっとしました。
その後は毎夜のように 空襲警報が でます。ブー ブー ブーとまず警報です。
素早く 家の中の電灯を 消してまわります。 一つの電灯にだけ 黒い布を被せ 光を外にもらさないにして 支度します。 警戒警報になると 一家全員、防空壕に退避するのです。寒い寒い晩に そんなことが二度 三度です。そのころはまだ爆撃はありませんでしたが 人々は 毎夜のことに 不安と恐浮ェ募ってきます。
その頃、ちょうど 三河地方に 大地震があり、被害も大きかったようでしたが 我々には余り知らされません。時々くる余震に 子供たちも怯えます。空からと 地の下からの災難との恐浮ナ 寄ると触ると その話ばかりです。
毎夜のように偵察に来ていた敵機は、 大都市への 大空襲をはじめました。東京はB29の大挙来週によって 一夜にして焦土と化し 死者は何万ともいわれ 私たちの不安はますます募るばかりです。
忘れもしません。昭和20年3月20日。夜の大空襲で 敵機 大挙来襲のなか 子供を抱えて、防空壕、飛び込みました。鉄橋の上を 汽車が走るほどの 爆音です。子供を自分のそばに 抱きよせます。緊張した幼い顔が 私の顔を見つめています。私は、目をつむって 両手に子供を しっかり抱えていました。
ドーン ドーン ドーン高射砲が 薄気味悪く 遠くの方で鳴っています。
そのうちに焼夷弾が 雨 霰と落下し始めました。私の家の近くでも 万一に備えて外に出しておいた布団にも 飛び火して焦げ始めました。 50メートル先の電柱に 火が付いた時には 身体の震えがとまりませんでした。
悪夢のような一夜が 開けて 我が家の無事を 見た時はほっとしました。辺りにはきな臭い臭いが漂っています。その日、次男が学校から すぐ帰ってきて
「おかあさん、大変だ。 大変だ。学校が全部 やけてしまったよ。僕たちの買っていた豚もみんな死んでしまった。明日から 学校へ行けなくなってしまった。
どうしよう」としょげ返っています。
3,4軒先のの風呂屋さんが 防空壕で行き埋めになって死んでしまった。警防団長さんの家も一家全滅とか 身辺のひとが、数多く 帰らぬ人となりました。私たちは事の重大さに 顔を見合わすばかりでした。
大分前から 子どもと妊婦は 疎開するようにとの 達しがあったのですが 私たちは頑張っていたのでした。
この機に、心をきめて 2,3日後には 奥町へ疎開しました。荷物を荷馬車に積んで 東海道を 男の子二人と主人で出発しました。
途中でも 空襲に遭い 田んぼのなかで 身を伏せたりして 長時間かかって やっと、奥町についたそうです。私と幼い○○子(私のこと)は電車で 12~3年くらい住んだ我が家を 後にしました。
そして、奥町の本家の一間で お世話になることになりました。
実際には記憶のない私ですが きっと母がつたえたかったのだろうと思います。
子供たちにも伝えることが大切 戦争を忘れないために・・・・
ここに登場する人で残っているのは 私とお腹のなかにいた妹の二人になってしまいす。