野叟解嘲(やそうかいとう)ー町医者の言い訳ー

老医師が、自ら患者となった体験から様々な症状を記録。その他、日頃、感じていることや考えていることを語ります。

自然についての考察 ー 続き ー

2024年04月29日 | 日記

投稿が、ながらく途切れてしまいました。使用中のPCが突然使用不能になってしまい、修復を試みたのですが、できませんでした。

改めて、「自然」ということについて考え続けます。

高校生の頃、哲学好きの友人から質問されました。「目の前に、怪我人が二人いる。一人は重傷でどんなに頑張っても助かりそうにない。もう一人は軽傷だがすぐに処置をしなければ、やはり命が危いと思われる。君はどちらから治療するか?」ほとんど迷うことなく、軽傷の方から治療すると答えました。恐らく皆さんも同様に答えるのではないかと想像します。実際、現在の救急医療の現場では「トアージ」が行われ、救命の可能性が高い患者を優先するように指示されています。さて、友人は私の答えに対して「君の考え方は、アメリカンナイズされている。命を数で測っている。東洋の考え方では、より重い方から治療に取り掛かる。」というのです。「君は、重傷な方から治療すると、軽傷な方まで一度に二人の命を失うことになるだろうが、軽傷者から治療すれば一人の命は助かると考えた。二人よりは一人が良いと、命を数としてとらえている。東洋の考え方は、今にも死にそうな人間に手を差し伸べるのが「自然」だ。」というのです。

どうでしょう?

昔テレビで見た映画で、海棠尊氏原作の「ジェネラル・ルージュの凱旋」の最終盤、大きな工場で事故が発生し、多数のけが人が病院に搬送されて、「トリアージ」されるシーンがあります。そこで重症な患者を診た医師が「措置の施しようがない」として、縋る家族と患者を残して立ち去ります。それに対して、家族が何もしてもらえないのかと叫ぶのです。映画の本筋とは関係ないシーンでサラリと過ぎた印象を受けましたが、私は此処に原作者の気持が現れているのではないかと感じました(原作は読んでいませんが)。

現実問題として、「トリアージ」は致し方ないと思うのですが、かつての友人が追加した「見捨てられる重傷患者の気持ちを考えたら、何もしないということは考えられないじゃないか」という言葉を思い出しました。救急の現場で働く中堅から若手の医師たちにはピンと来ないかもしれませんが、年老いて死が身近に迫りつつあるものとして、「どうしようもない」として見捨てられる重傷者の気持がわかる気がするのです。

これは永遠の課題でしょう。さらにこのことについて次回以降に書いてみます。


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