『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

「自称〇〇」と言える誇り

2020年09月09日 | 考える日々


会社員以外の人が「自称〇〇の男(女)」って表現される事に、
組織に所属する側からのやっかみというか、
うらやましさの裏返しの蔑視というか…
を感じてちょっとイヤな気持ちになる事がある、
というようなことを、昨日書きました。

そしたら、
視野が広がるようなコメントをいただきました。

曰く、
「他称・・・よりよくないですか。
自称できる人は・・・立派だと思います。」

その方もブログをしておられて、
時に哀しみや苦みの混ざった、静かな言葉が、
いつも、ちょっとだけ綴られています。

このコメントも、
「ああ…そうか、本当だ」と思わずにはいられなかった。
その方が書いてくださった意図に沿ってるかは疑問だけど、
自分なりに思い当たるフシもあって。

「他称・・・よりよくないですか」に関しては、
私は「他称」されるシーンを想像せずに書いてた。
それって、どういうシーンなんだろう?
たとえば、誰かに決めつけられたり、
的外れなレッテルを貼られたりすること?

小さい事なら、身に覚えがあるぞー。
見た目ほど運動が出来ないとか、
根は地味なのに、派手好きだと思われたり、
人前でしゃべるの苦手なのに、カンタンに出来ると思われたり…。

勝手に期待されて、後で失望されるのってキツイ。

あ、でもこれ、
人の期待に自分が応えられないしんどさばっかりだ。

その逆は、関わってももらえないんだよね。
「あいつは〇〇」って他人から称されて、
関わらない方が無難だ、みたいなことって、
いくらでもあるもんな。私も、してるはず。

そして「自称できる人は立派だ」という言葉。
それも、本当にその通りだわ、
私、自信を持って堂々と
職業を言えてないじゃないの、と。

カタカナの肩書を書いた自分の名刺は、
私の一部だけ無理に切り取ったみたいで、
自分の名前なのに妙によそよそしい。

振り返れば、社名を書いた名刺は、
さらによそよそしくて、
もはやコスプレだった。

まぁ、中身で付き合ってくれる人は、
私の肩書なんか、どーでもいいから、
そもそも肩書は役割コスプレでいいのかもしれない。

その役割コスプレに逃げ込んでることが、
なんか、本質と違う、って思ってしまったんだよなー。
役割が決まってるだけラクだった面もある。

そこから離れてみたら、
今の仕事関係の、経験の浅い若い人が
やりたい気持ちを担保にして、
遠慮なくカタカナの肩書を名乗ってるのが、
すごく眩しい。

ガンバレ!って応援したくなる。

若い頃ほど、
無邪気に自称できるまっすぐさを持てないでいる。
やりたい気持ちだけじゃなくて、もっと実績がなくちゃ、
なんて言いながら、寄り道や休憩ばっかりしてる。

職業を自称できる人って、ホント立派だ。

身の丈に合わせた形とサイズの肩書きを
自信を持って「自称〇〇」って
言えるようになるんだろうか。

うわぁ、そんなトコから始めるのか~~。

あ、思い出した。カッコイイ名刺。
昔、年上の女性からそういうのをよくもらったんだけど、
社名もロゴも肩書もデザインもない白い名刺に
縦書きの筆文字で、ど真ん中に名前だけ書いてあるヤツ。

今あなたと挨拶をしているのは、
社名や肩書ではなく、私という一人の人間です。
みたいな空気を感じて、憧れた。



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