「正しいこと言ってるのに、
なんで通じなんだろな」みたいなことは、
残念ながらよくあることです。
正しさの暴力性。
耳の痛いことも、
言いにくいことも言うよ、
「だって正しいもん」。
っていう文脈。
正しきゃいいの?
いつでも正しいこと言われたい?
「だって正しいもん」で終わらせようとする友人に
そう聞いてみたら、なんかしばらく考えてた。
何を考えたのか、また時間が経って聞いてみたいな。
そういうことは、ふつー失礼に当たるから、
人には言わないんだけどね。
でも、関係性が壊れない自信がある時、
相手も「ホントウ」の事に迫りたい、という癖があるなら、
まな板に乗せておいしく料理してみようよ、ってことで、
あえて、真っ正直に自分を開くことがある。
基本、ココロ開けば問題が解けやすくなると思ってるから、
勇気を持って、なるべく繊細に1枚ずつ開いていく。
ココロ開ける相手としゃべるのが好きなので、
開くことが誠実さだ、と思ってきた。
でもね~、
それが相手を怖がらせることがあるらしい。
「そんなに軽々しく開いて見せないでよ。
フタしてること自体を直視したくないのよ!」
みたいなこと。
特に、すでに十分傷ついてる時には。
ココロ開き合って、
「あ、私の中にこんなワルモノがいた」みたいに、
お互いの中にあるものを点検して遊ぶのって、
わりと楽しいんだけどな~。
「愛をベースに生きようとしてるのに、
今、アイツをゴジラ認定して切って捨てたよ、私」
みたいなことが自分の中に見つかると、
ココロ開くのが当たり前の関係ではゲラゲラ笑える。
自分の理想に全然届いてないギャップもおもしろいし、
バカやな~、人間っぽくていいな~とも思えるし、
それに傷ついてたんだよ、ってことも
自分とは違う価値観なんだ、ってことも共有できる。
笑い飛ばしてやれ、くらいの軽さに転換できたら、
そこから何か自分に必要なことが学べて、
学び足りたらその出来事を卒業できるだろうし、
同じことはもう繰り返さないだろう。
だけど、頑なに
「私は何も間違ったことをしてない」
って思ってる時には、
笑いごとで済ませられないんだな~と。
「私は正しくて、アイツにモンダイがある」
みたいな発想をしてる時には、笑えないわ。
そして何も学べないね。
しかも、嫌なことを何度も繰り返す。
だって、学ぶのが課題だから。
自分を苛む必要はないけど、
自由に自分で生きるためには、
相手が変わることを求めてたら埒があかない。
自分が変わる=育つために
この出来事があると思ってみよう、
って思えたら、上等!
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