昨日、「見えないけれどあるもの」について、
ちょこっと考えてみた。
オバケとか心とか精神とか。
もっと言えば、
絵や音楽の美、友人や親子の情、なども、
「見えないけれど、あるもの」だ。
ただ、「見えない」っていうあいまいさが耐えられなくて、
「客観的な評価基準」を設定するけど、
評価なんか、しなくていいんじゃないのかな。
評価されたくてやることなんか、
大したことないんじゃないかな。
ただ、ここに自分があることで満足できたらいい。
自分が自分を評価して、自分で成長していけばいい。
人を評価しない見本が子ども。
子どもは、小さければ小さいほど、
親や先生がどんなにダメダメでも、
全幅の信頼を寄せている。
なのに、親は心配のあまり子どもを評価しちゃう事がある。
成績がどうとか、性格がどうとか…。
一緒にいるのに、その見方は残酷だなぁ~と思う。
ただ、一緒に受け止めればいいじゃない、と思う。
親のそれまでの人生やあらゆる個性を無視して、
たとえば年収や勤務先の株価で一線に並べて評価するようなシステムを
子どもが日常的に採用して、親を励ましたり、
年収を増やそうとして「パパやママのためよ」とか言い出したら、
私たち、とんでもなく不幸じゃないですかね?
わかりやすい評価は、絶対的に見えるけど、
その基準で見た時にはそうである、
ってだけの話なんだから。
見えないけれど、あいまいだけれど、
デキが良くても悪くても、ただ、愛する。
子どもはそれ、親に与えてくれています。
6年生の娘が着替えを持ってきて
「この組み合わせ、おかしくない?」と、
「ファッション?裸でなければ許してくれ」な、
着たきり雀の私に、聞きます。
「どー考えても、聞く相手間違ってるでしょ(^^;)」
と友人も笑っていましたが、
思春期になればこーゆーのも終わるのかと思えば、
全幅の信頼が、こそばゆくも嬉しくもあります。
子どもを励ましたいために、成長させたいために、
そういう基本の信頼をすっ飛ばして、
叱咤激励したり、子ども時代の時間を奪ったり、
コントロールするために大げさに褒めたり…。
自分がされてイヤなこと、
子どもにしてないかどうか、気になります。
ちょこっと考えてみた。
オバケとか心とか精神とか。
もっと言えば、
絵や音楽の美、友人や親子の情、なども、
「見えないけれど、あるもの」だ。
ただ、「見えない」っていうあいまいさが耐えられなくて、
「客観的な評価基準」を設定するけど、
評価なんか、しなくていいんじゃないのかな。
評価されたくてやることなんか、
大したことないんじゃないかな。
ただ、ここに自分があることで満足できたらいい。
自分が自分を評価して、自分で成長していけばいい。
人を評価しない見本が子ども。
子どもは、小さければ小さいほど、
親や先生がどんなにダメダメでも、
全幅の信頼を寄せている。
なのに、親は心配のあまり子どもを評価しちゃう事がある。
成績がどうとか、性格がどうとか…。
一緒にいるのに、その見方は残酷だなぁ~と思う。
ただ、一緒に受け止めればいいじゃない、と思う。
親のそれまでの人生やあらゆる個性を無視して、
たとえば年収や勤務先の株価で一線に並べて評価するようなシステムを
子どもが日常的に採用して、親を励ましたり、
年収を増やそうとして「パパやママのためよ」とか言い出したら、
私たち、とんでもなく不幸じゃないですかね?
わかりやすい評価は、絶対的に見えるけど、
その基準で見た時にはそうである、
ってだけの話なんだから。
見えないけれど、あいまいだけれど、
デキが良くても悪くても、ただ、愛する。
子どもはそれ、親に与えてくれています。
6年生の娘が着替えを持ってきて
「この組み合わせ、おかしくない?」と、
「ファッション?裸でなければ許してくれ」な、
着たきり雀の私に、聞きます。
「どー考えても、聞く相手間違ってるでしょ(^^;)」
と友人も笑っていましたが、
思春期になればこーゆーのも終わるのかと思えば、
全幅の信頼が、こそばゆくも嬉しくもあります。
子どもを励ましたいために、成長させたいために、
そういう基本の信頼をすっ飛ばして、
叱咤激励したり、子ども時代の時間を奪ったり、
コントロールするために大げさに褒めたり…。
自分がされてイヤなこと、
子どもにしてないかどうか、気になります。
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