カフェで友達と「経済は愛か競争か」について
話をしていたところから、どんどん続く4回目。
1回目→ハニワな彼女と経済を語る
2回目→ロックな本居宣長と49:51
3回目→「勝ち組って感じ?」という言葉が「負け組って感じ(^^)」
「勝ち負け」ってよく言うけど、
そもそも、二つに分けなくていいんじゃないの?
…と思うけど、
戦争中にそんなことを言っても、
のんきな絵空事にすぎない。
だから、頑張って戦う!
…ばっかりだと疲れるから、
戦いから離れられる
正月休みにでも考えるコトなんだけど。
経済は愛か暴力か。
〇〇を好きか嫌いか。
予算を達成したかどうか。
試合に勝ったか負けたか。
自分に責任あるかないか。
○○が○○するのは是か非か。
ぜんぶ、All or Nothing。
なんか、ものを考える時、
0か1か、でつい見てしまうんだよね。
コンピュータじゃなくて人なのに。
具体的に身の回りのことを考えると、
0か1かで分けられることなんかほとんどない。
だけど、
結果に注目したり、理念的なことを考えると、
真実は0か1かのどちらかだと思ってしまう。
0か1かで考えること自体が、
人にとっては、無理があるよね。
だって、個人は0か1かで言えないことだらけだもの。
算数は苦手だけど、数学の美しさには感動する。
ピアノの練習はキライだけど、音楽を聴くのは好き。
霊は信じないけど、お墓でキャンプはしたくない。
安く買いたいけど、誰かを泣かせてまで安く買いたくはない。
などなど。
人間の感情は、
光と影の織りなし加減であって、
0か1なんてことは、普通は、ないと思う。
普通はないのに、
0か1かという考え方でモノゴトを進めるってことは、
「理性だけで仕事をしなさい」ってことだよね。
そりゃ、心を閉じてないと、もたないわ…。
んで、心開くと、ややこしくて進まないわ…。
それに耐えられるのが知性って気もするけど。
コンピュータの入力なら0か1だけど、
人が考える枠組みとして
All or Nothingを採用するのは、
かなり現実離れしていると思う。
…って、なんかこの文章も現実離れしてきた。
えーと、全体のことなんか考えるから、
考えが宙に浮くんだろうな。
特に、経済学を学んだこともないのに。
それなら、自分のこととして考えよう。
何かを学ばなくても、自分のことなら考えられる。
自分が今、競争の経済に99巻き込まれて、
愛を真ん中に置く経済を1しか繰り出してないなら、
自分が、愛を真ん中に置く経済を2に増やせばいい。
それならすでに、
誰でもやってることで、
その気になれば、私にも増やすことができる。
料理が得意だから、誰かにごちそうする。
いっぱいリンゴをもらったからおすそ分けする。
大切なことだと思うから、人に伝える。
旅行に(出張でも)行ったから、お菓子をみんなに買ってくる。
給料は同じだけど、お客様に親身に対応する…。
経済は、効率とか競争とかだけになると、
どんどん非人間的、暴力的になっていくけれど、
損得を離れて、自分に戻って、
自分から、愛を繰り出すことによって、
経済の暴力性を減らすことはできる。
うん、確かに。
さっきの愛から繰り出す例は全部、
競争もないし、暴力的でもないもの。
日本は西洋に学ぶことで、
いろんな事を身に着けたけど、
もともと、せっかく
他を責める前に自らを省みる国民性なんだから
(コーヒーで舌を火傷しても訴訟しようとは思わないよね?)
他の民族と同じルールに縛られる必要もないと思うんだー。
えーと、論点が急にズレたみたいだけど、
関係あるのよ。
言いたいのはこういうこと。
経済に関する時も、
普通は、お客様のためにいいものを届けようとするから、
スキあらば自分が得しようとする民族の作った
外からのルールに縛られて消耗するんじゃなくて、
自分の感覚(人としてこれがいいと思う、みたいなとこ)に戻って
自分の意思で仕事できたら、元気に働けると思うんだよねー。
ああ、また大きなことを考えて、
タワゴトになってるな。
個人に戻って考えよう。
うーんと、自分の経済活動に愛を絡めたら、
その分、
経済的な暴力に加担する率は減るんじゃない?
サンタさんになって、子どもにプレゼントするとか、
ワリカンする時、割りやすいように端数を出すとか、
家の中で、笑顔を絶やさない、とかね。
愛だ、愛。
経済の矛盾を解くカギは愛だ!
もちろん、もっと全体を考えられる賢い人は、
今、困っている立場の人が救われる経済の仕組みを
考えていただきたいのですが。
だけど、どんな経済状況に置かれていても、
自分を真ん中に置いて、
愛から繰り出せる選択肢がある、というのは、
確かに、ひとつの救いではないでしょうか。
自分サイズの愛の経済、ふやすぞ~。
話をしていたところから、どんどん続く4回目。
1回目→ハニワな彼女と経済を語る
2回目→ロックな本居宣長と49:51
3回目→「勝ち組って感じ?」という言葉が「負け組って感じ(^^)」
「勝ち負け」ってよく言うけど、
そもそも、二つに分けなくていいんじゃないの?
…と思うけど、
戦争中にそんなことを言っても、
のんきな絵空事にすぎない。
だから、頑張って戦う!
…ばっかりだと疲れるから、
戦いから離れられる
正月休みにでも考えるコトなんだけど。
経済は愛か暴力か。
〇〇を好きか嫌いか。
予算を達成したかどうか。
試合に勝ったか負けたか。
自分に責任あるかないか。
○○が○○するのは是か非か。
ぜんぶ、All or Nothing。
なんか、ものを考える時、
0か1か、でつい見てしまうんだよね。
コンピュータじゃなくて人なのに。
具体的に身の回りのことを考えると、
0か1かで分けられることなんかほとんどない。
だけど、
結果に注目したり、理念的なことを考えると、
真実は0か1かのどちらかだと思ってしまう。
0か1かで考えること自体が、
人にとっては、無理があるよね。
だって、個人は0か1かで言えないことだらけだもの。
算数は苦手だけど、数学の美しさには感動する。
ピアノの練習はキライだけど、音楽を聴くのは好き。
霊は信じないけど、お墓でキャンプはしたくない。
安く買いたいけど、誰かを泣かせてまで安く買いたくはない。
などなど。
人間の感情は、
光と影の織りなし加減であって、
0か1なんてことは、普通は、ないと思う。
普通はないのに、
0か1かという考え方でモノゴトを進めるってことは、
「理性だけで仕事をしなさい」ってことだよね。
そりゃ、心を閉じてないと、もたないわ…。
んで、心開くと、ややこしくて進まないわ…。
それに耐えられるのが知性って気もするけど。
コンピュータの入力なら0か1だけど、
人が考える枠組みとして
All or Nothingを採用するのは、
かなり現実離れしていると思う。
…って、なんかこの文章も現実離れしてきた。
えーと、全体のことなんか考えるから、
考えが宙に浮くんだろうな。
特に、経済学を学んだこともないのに。
それなら、自分のこととして考えよう。
何かを学ばなくても、自分のことなら考えられる。
自分が今、競争の経済に99巻き込まれて、
愛を真ん中に置く経済を1しか繰り出してないなら、
自分が、愛を真ん中に置く経済を2に増やせばいい。
それならすでに、
誰でもやってることで、
その気になれば、私にも増やすことができる。
料理が得意だから、誰かにごちそうする。
いっぱいリンゴをもらったからおすそ分けする。
大切なことだと思うから、人に伝える。
旅行に(出張でも)行ったから、お菓子をみんなに買ってくる。
給料は同じだけど、お客様に親身に対応する…。
経済は、効率とか競争とかだけになると、
どんどん非人間的、暴力的になっていくけれど、
損得を離れて、自分に戻って、
自分から、愛を繰り出すことによって、
経済の暴力性を減らすことはできる。
うん、確かに。
さっきの愛から繰り出す例は全部、
競争もないし、暴力的でもないもの。
日本は西洋に学ぶことで、
いろんな事を身に着けたけど、
もともと、せっかく
他を責める前に自らを省みる国民性なんだから
(コーヒーで舌を火傷しても訴訟しようとは思わないよね?)
他の民族と同じルールに縛られる必要もないと思うんだー。
えーと、論点が急にズレたみたいだけど、
関係あるのよ。
言いたいのはこういうこと。
経済に関する時も、
普通は、お客様のためにいいものを届けようとするから、
スキあらば自分が得しようとする民族の作った
外からのルールに縛られて消耗するんじゃなくて、
自分の感覚(人としてこれがいいと思う、みたいなとこ)に戻って
自分の意思で仕事できたら、元気に働けると思うんだよねー。
ああ、また大きなことを考えて、
タワゴトになってるな。
個人に戻って考えよう。
うーんと、自分の経済活動に愛を絡めたら、
その分、
経済的な暴力に加担する率は減るんじゃない?
サンタさんになって、子どもにプレゼントするとか、
ワリカンする時、割りやすいように端数を出すとか、
家の中で、笑顔を絶やさない、とかね。
愛だ、愛。
経済の矛盾を解くカギは愛だ!
もちろん、もっと全体を考えられる賢い人は、
今、困っている立場の人が救われる経済の仕組みを
考えていただきたいのですが。
だけど、どんな経済状況に置かれていても、
自分を真ん中に置いて、
愛から繰り出せる選択肢がある、というのは、
確かに、ひとつの救いではないでしょうか。
自分サイズの愛の経済、ふやすぞ~。
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