『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

おいしいリンゴと無資格検査

2017年12月31日 | 昼行燈より愛をこめて
ちょっと前に、
「自分の真ん中に仕事や勉強への愛があれば、
評価に一喜一憂しなくて済む」ってことを、
「先生が成績つけるためにテストに協力してる」
という子どもに教えられた。

ココ↓
テストはこどもの思いやり

と、他人事のように言ってたけれど。

指を自分に向ければ、
「総理大臣賞」とリンゴの箱に書いてあるだけで、
中身も確かめずに「絶対おいしいぞ!」と思う
味覚に関するこの私のナマケモノ加減が、問題なんだろうな。

おいしいものを食べたいくせに、
自分の味覚ではなく、
ついラベルで判断しちゃう、という姿勢が。
いや、そのリンゴは実際おいしかったんだけど。

自分の目で見て判断する自信のない私が、
「テストの点」とか「なんとか大学卒」とか、
「ナントカ農園のワイン」とか、
「有機認証の野菜」とかいう
比較しやすいラベルで判断すること。

そういう私の姿勢が、食品偽装をはびこらせ、
いろんな矛盾を温存させてる一因だろうな。

「高卒だから、大卒より仕事できるけど給料安い」とか
「実力はあるけど資格ない人は門前払い」とか
「儲けるために資格作って売り出そう」とか…。

極論すれば、
製品検査をする人が、公的な資格を持ってなくても、
10年も20年も実際にきちんと検査できてたなら、
資格取りたてで初めて工場に入る若者が検査するより
よほど安全に精密に検査できると思うけどな。

有機認証を取るお金がないから
いちいち認証ももらってないけど、
おいしくて安全な野菜作ってる人は
いっぱいいると思うねんなー。

人としてつきあうなら、それはアリなんだけど、
顔が見えない関係だから、難しいんだよなー。
その人が、信頼できる人かどうかわからないから、
資格という見えるラベルが必要なわけで。

そのうちに、ラベルが一人歩きして、
信頼してるのが、人の技術や内容じゃなくて
ラベル自体になっちゃった。

さっきの例だと、
ある人が、周りの人から信頼に足ると判断されて、
10年も20年も製品検査の役割を立派に果たしていたなら、
試験を受けたら通るんじゃないかな?
その人が通らないなら、試験の方がおかしい…かも?
っていう方向性だってアリなわけで。

まぁ、それでは世間は通らないだろうけど、
「自分の責任で判断する」って、自由だけど難しいね。
だけど、それを全部ラベルに任せると、
いいかどうか、好きかどうかすら、自分でわからなくなる。

作家資格のある作家、とか、絵画士資格のある画家、とかいないし。
美術館でも、解説のタグばっかり見てわかった気になってないで
自分で直接、絵と向き合って、絵と対話しましょう、
って話です。ハイ(^^;)。

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