今日の話はややこしいです。
ゴメンなさい。
先に謝っておこう(^^;)。
さっき、テツガク講義に参加してました。
話し手は、オランダの哲学博士
イェッセ・ミュルダー氏。
(書いてるのは、20日の夜)
んでね、イェッセ氏が言うのです。
「真実はひとつ」とか「善はひとつ」って。
日本人の私としては
「うっそーーーー」ってカンジ。
だってさー。
私にとっての善は、
他の人にとっては悪かもしれんやん?
たとえば、今日なら、
私の関心にビンゴそうな人が、
大阪に来るんだったら、
行って深めるのが私の善。
だけど、たとえばウチの子どもにとっては、
「遊びに連れて行くこと」が善かもしれないし、
夫にとっては
「勉強行くより掃除してよ」が善かもしれない。
(両者とも、そんなこと言わないけど)
こんな風に、
立場が変われば善も変わるし、
それがわかってて感謝もするから、
家庭も世界も平和なわけで。
真実だって、善だって、ついでに美だって、
文化によっても時代によっても状況によっても
変わるもの。
「真実という(善という、美という)概念がある」
くらいのばっくりした所まで昇らないと、
「善も真も美もひとつだ」
ってのが理解できない。
ので、
イェッセ氏の考えを確認したくて質問してみた。
「真や善がひとつだと思ったことはないから驚いた。
どうひとつだと思いますか?」って。
そしたら、なんと、
「何を言ってんのか、その質問自体がわからない」
と言われた。
ぎょぎょ〜‼︎
今度は、私が、
なぜその質問が理解できないのかが理解できなくて
うーーん、と困ってしまった。
困っていると、
「選択肢がいっぱいあるからと言って
真実がないとは言えないでしょ?
ジャズやロックやゴスペルなど、
種類がいろいろあるけど、音楽に美があるのと同じで」
と重ねて説明いただいたんだけど。
それはわかるけど…。
やっぱり、「真実や善は1つだ」という考えには
どーしても違和感を感じる。
真や善が1つじゃないから
考える必要も対話する必要もあるのでは?
美が1つじゃないから、
画家はいろんな作品を描くのでは??
何人かの日本人が同じように困惑していたから、
たぶん、個人の考え方の違いとかじゃなくて、
人種による、考え方のクセの違いか何か。
だとしたら、不自由な考えだよね。
自分で自由に考えられない状態で、
民族による考え方のクセの範囲を抜け出せてない。
一神教と多神教の違いかな?
「キリストが唯一無二の絶対神である」
っていう宗教の人と、
「石にも樹にも米一粒にも神が宿る」
っていう宗教の人とは、
やっぱり、ベースの違いがあると思うんだー。
「ディベート」とかってのがあるけど、
自分がどう考えているかは別として、
たまたま自分が分けられたグループの意見を通すために、
どう主張するか、何を伝えるか、というようなテクニックに、
私は「善」も「真実」も感じない。
仮にどんな意見も通すような
スゴいテクニックがあったとしても、
それは真実とはナンの関係もなくて、
「それって、ただの詭弁、強弁ちゃうん?」
と思ったり…。
いや、相手を納得させる話術は
大事だし便利だし、私も欲しいけど、
それは真実とは、ずいぶん違うから。
西洋人はそこで通った意見を
真実だと見なすんかな?
んなわけないやんね?
あ、でも「多数系で決まったことは、
個人的に反対でも従う」とか、そういうこと?
…わからん。
あ、そうか。
今日私が自分と違う考えに接して
質問したいと思ったのは、
相手を論破しようとかいうことじゃなくて、
その考えを、理解したかったからだ。
なんでその考えを理解したいのかというと、
「真実」が二つあるように見えて、
それが気持ち悪いから。
ってことは、
私も「真実」がひとつだと思ってる、
ってことだね。
おーーそういうことか‼︎‼︎
あ、今、
「真実が二つあるように見える」って
サラッと書いたけど、
違う考えに接した時に取り得る姿勢が二つあるね。
1 「真実は私で、相手は間違ってる」
2 「真実が二つあるように見える」
「1」の場合は
相手を論破して真実を通そうと思うよね。
「2」なら
相手の考えを理解することで、
ひとつにまとまりたいと思う。
相手を尊敬してるかどうかで、
「真実が私」なのか、
真実が二つなのかが分かれる。
そこが、世界平和の分かれ道だな。
違う人の意見を尊重しよう。
自分で考えを編めば編むほど、
自分と違う意見を正しいと考えることが、
難しくなるけれど。
自分を押し付ける前に
相手の中の真実を尊敬しよう、
おー(^^)/
苦手な人の尊敬できるところを意識したら、
相手の話も違って聞こえるから。
相手を否定するのが民族的にイヤなら、
理解して共存するために役立とう、
ガンバレ、和を以て尊しとなす日本人〜♪
あ、二元論と一元論の違いだね。
家庭は私とあなたに分かれてるんじゃなくて、
「私たち」という、ひとつ。
世界は、敵と味方に分かれてるんじゃなくて、
世界は、大きなひとつ。
「I」じゃなくて「We」の最適化を考えること。
環境や貧富の問題を考える時、
「家族」や「当社」や「日本」を考えたら、
次に「地球」や「人類」や「歴史」の視点でも
考えてみること。
そして、両者のズレを埋めていこうとすること。
考えるって、楽し〜。
ほんとにワクワクするわ。
ゴメンなさい。
先に謝っておこう(^^;)。
さっき、テツガク講義に参加してました。
話し手は、オランダの哲学博士
イェッセ・ミュルダー氏。
(書いてるのは、20日の夜)
んでね、イェッセ氏が言うのです。
「真実はひとつ」とか「善はひとつ」って。
日本人の私としては
「うっそーーーー」ってカンジ。
だってさー。
私にとっての善は、
他の人にとっては悪かもしれんやん?
たとえば、今日なら、
私の関心にビンゴそうな人が、
大阪に来るんだったら、
行って深めるのが私の善。
だけど、たとえばウチの子どもにとっては、
「遊びに連れて行くこと」が善かもしれないし、
夫にとっては
「勉強行くより掃除してよ」が善かもしれない。
(両者とも、そんなこと言わないけど)
こんな風に、
立場が変われば善も変わるし、
それがわかってて感謝もするから、
家庭も世界も平和なわけで。
真実だって、善だって、ついでに美だって、
文化によっても時代によっても状況によっても
変わるもの。
「真実という(善という、美という)概念がある」
くらいのばっくりした所まで昇らないと、
「善も真も美もひとつだ」
ってのが理解できない。
ので、
イェッセ氏の考えを確認したくて質問してみた。
「真や善がひとつだと思ったことはないから驚いた。
どうひとつだと思いますか?」って。
そしたら、なんと、
「何を言ってんのか、その質問自体がわからない」
と言われた。
ぎょぎょ〜‼︎
今度は、私が、
なぜその質問が理解できないのかが理解できなくて
うーーん、と困ってしまった。
困っていると、
「選択肢がいっぱいあるからと言って
真実がないとは言えないでしょ?
ジャズやロックやゴスペルなど、
種類がいろいろあるけど、音楽に美があるのと同じで」
と重ねて説明いただいたんだけど。
それはわかるけど…。
やっぱり、「真実や善は1つだ」という考えには
どーしても違和感を感じる。
真や善が1つじゃないから
考える必要も対話する必要もあるのでは?
美が1つじゃないから、
画家はいろんな作品を描くのでは??
何人かの日本人が同じように困惑していたから、
たぶん、個人の考え方の違いとかじゃなくて、
人種による、考え方のクセの違いか何か。
だとしたら、不自由な考えだよね。
自分で自由に考えられない状態で、
民族による考え方のクセの範囲を抜け出せてない。
一神教と多神教の違いかな?
「キリストが唯一無二の絶対神である」
っていう宗教の人と、
「石にも樹にも米一粒にも神が宿る」
っていう宗教の人とは、
やっぱり、ベースの違いがあると思うんだー。
「ディベート」とかってのがあるけど、
自分がどう考えているかは別として、
たまたま自分が分けられたグループの意見を通すために、
どう主張するか、何を伝えるか、というようなテクニックに、
私は「善」も「真実」も感じない。
仮にどんな意見も通すような
スゴいテクニックがあったとしても、
それは真実とはナンの関係もなくて、
「それって、ただの詭弁、強弁ちゃうん?」
と思ったり…。
いや、相手を納得させる話術は
大事だし便利だし、私も欲しいけど、
それは真実とは、ずいぶん違うから。
西洋人はそこで通った意見を
真実だと見なすんかな?
んなわけないやんね?
あ、でも「多数系で決まったことは、
個人的に反対でも従う」とか、そういうこと?
…わからん。
あ、そうか。
今日私が自分と違う考えに接して
質問したいと思ったのは、
相手を論破しようとかいうことじゃなくて、
その考えを、理解したかったからだ。
なんでその考えを理解したいのかというと、
「真実」が二つあるように見えて、
それが気持ち悪いから。
ってことは、
私も「真実」がひとつだと思ってる、
ってことだね。
おーーそういうことか‼︎‼︎
あ、今、
「真実が二つあるように見える」って
サラッと書いたけど、
違う考えに接した時に取り得る姿勢が二つあるね。
1 「真実は私で、相手は間違ってる」
2 「真実が二つあるように見える」
「1」の場合は
相手を論破して真実を通そうと思うよね。
「2」なら
相手の考えを理解することで、
ひとつにまとまりたいと思う。
相手を尊敬してるかどうかで、
「真実が私」なのか、
真実が二つなのかが分かれる。
そこが、世界平和の分かれ道だな。
違う人の意見を尊重しよう。
自分で考えを編めば編むほど、
自分と違う意見を正しいと考えることが、
難しくなるけれど。
自分を押し付ける前に
相手の中の真実を尊敬しよう、
おー(^^)/
苦手な人の尊敬できるところを意識したら、
相手の話も違って聞こえるから。
相手を否定するのが民族的にイヤなら、
理解して共存するために役立とう、
ガンバレ、和を以て尊しとなす日本人〜♪
あ、二元論と一元論の違いだね。
家庭は私とあなたに分かれてるんじゃなくて、
「私たち」という、ひとつ。
世界は、敵と味方に分かれてるんじゃなくて、
世界は、大きなひとつ。
「I」じゃなくて「We」の最適化を考えること。
環境や貧富の問題を考える時、
「家族」や「当社」や「日本」を考えたら、
次に「地球」や「人類」や「歴史」の視点でも
考えてみること。
そして、両者のズレを埋めていこうとすること。
考えるって、楽し〜。
ほんとにワクワクするわ。
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