『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

言葉はどんどん変わっていく運命

2021年02月06日 | 考える日々
美しい日本語を話す人がいます。
笑い方も朗らかで、声も澄んでいる。
その人の上品な話し方を聞いていると、
日本語っていいな~と、うっとりする。

中学生たちの日本語を聞いていると、
スタッカートの効いた短い言葉に、
いろんな思いを上手に込めて発射している。
「うざっ」「まじ?」「やば!」「キモっ」。

この少ない語彙でコミュニケーションが取れるのは、
似たような文化で生きているから、だろうな。

リモート勤務中の友人と、昼休みに電話した。
プライベートモードで30~40分電話して、
昼休みが終わるからと、電話を切った。

5分後、伝え間違いに気付いてかけ直したら、
受け答えが仕事モードに変わってた。
妙にテキパキ対応されてビックリ!
そんなんやったっけ? 別人やん(^^)。

同じ文化に属していたら、
だいたい同じような日本語になるんだけど、
それぞれの場所にはそれぞれの日本語があって、
そのどれもが、内容以上に文化を示している。

無意識だとは思うけど、
ヤンキーはいかにもヤンキーらしく、話す。
鋳型にはめたように、
眼付も服装も身のこなし方も似ている。

高校球児は高校球児らしく、
板前さんは板前さんらしく、
漫才師さんは漫才師さんらしく、しゃべる。

日本語は見事に、文化にふさわしく分化している。
その文化の人にとっては、
その日本語が一番ふさわしいから使っているわけで、
その中に、未来に残って行く日本語の萌芽がある。

「日本語が乱れている」とか言うけど、
言葉は、そうやって、
使う人が、日々工夫しながら、
いつでも新しく変えて行くもの、
で、いいんじゃないかな?

もっと的確な表現、
もっとインパクトのある言葉、
もっと温もりを載せられる言葉…、
そういうものを求めて、変わっていく。

家族や職場の間だけで通じる言葉を
持っている人もいっぱいいるでしょ?
同じ言葉を使う人同士は、
仲間意識が生まれやすいよね。

そう思うと、
日本語って、すごい包容力があるな~。
昔だって、武士と商家の人は、
全然違う日本語を使ってたわけだし。

そう思うと(×2回目)、
「日本語が乱れる」と憂いている人って、
もしかして、
「標準語」に携わってる人くらいじゃないの?

もともと、日本語には、
「標準語」なんてものはなかったんだから、
このまま、いろんな年代、いろんな文化ごとに、
どんどん豊かになっていけばいいな~と思う。

さらに、必要な時には、
別の文化の人にも伝わるように、
「標準語訳」を用意しておいてくれたら嬉しい。

同じ地域で生まれ育ったとは言え、
80歳~90歳の親せきは、
私が使えない、すごく滋味深い言葉を使っている。

「べっちょない」→「別条ない」→「大丈夫だ」
「なしたま~!」→「なんとしたことだ、まぁ!」→「あら~、ビックリ!」
「へてから」→「そうしてから」→「それから」
なんて感じで(^^)。

これ「乱れてる」って言うよりは、
「豊かさ」だと思うな~。
聞いてて、その独特のサウンドにうっとりするもの。

お江戸のユリコさんがカタカナを多用するのも、
ユリコさんなりのインパクトを期待しての事だろう。
聞き慣れない言葉は、注意を引くもの。

問題なのは、あれ、ふつーに使う標準語じゃないから、
注意を向けてくれた一定数の人には伝わらないけど、
そこをどう補えばいいのかな? ってところくらい。

好き嫌いを越えて言うなら、
あれはあれで、日本語の包容力を示しているし、
日本語をストレッチしてると、I think…程度問題か。

エジプトの遺跡から出てきた4000年前の手記か何かに
「最近の若いモンは、なっとらん」って書かれてたそうです。
すご~。
2000年前のプラトンにも、
「最近の若いモンは」のフレーズがあるらしい。

「最近の若者言葉は乱れてる」とか言う前に、
そもそも、言葉は変わるものだと腹を決めるべし。

んで、自分がわかんない言葉を使う文化に腹を立てて
「最近の若いモンは」って攻撃するのは、
若いモンに相手してもらえなくなった大人世代が
4000年前から感じてきた疎外感、だったりしてね。

気を付けようっと(^^)。




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