『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

●『テオゾフィ』知ることの細道 タイトルについて

2011年04月11日 | シュタイナー
2011年4月10日「ことばの家」の講座の覚え書き。
4月からテオゾフィー(神智学)の最終章が始まりました。
訳はいつも通り、鈴木一博さん訳で。すごいなぁ、この訳。
わかりにくくて読み飛ばせないところが、スルメ的で。
それでも、自由の哲学よりは読みやすいわ。
忘れることの大事さも学んだけれど、やっぱり覚えておきたくて。


まずは、「知ることの細道」というタイトルについてみっちり。
これは、「細く小さな道」じゃなくて、「細やかな道」だと教わりました。
一歩ずつ、長い時間をかけて、きめ細かに、
自分の中で密やかに(外からは見えない)進めて行く、細やかな道。

その反対は「荒っぽい道」で、
「これおもしろそう!」と思って本屋に駆け込み、
「1日でわかる」系のノウハウ本を見て
人に「こうなんだって~」と言って終わるような…ことかな。
テンション高い。

細やかな道は、「不易流行」で、
荒っぽい道は、「直情径行」だとも聞いた。
「不易流行」って言葉、まだあんまりピンと来ないんだけど、
変わらないものと変わるものの間を行き来する…??
変わらないものに新しいものを見ること!

「変わらないものに、新しく光を当てることで、
ういういしく、みずみずしい気持ちになれる。
細やかな道は、同じ人に日々出会い直すこと」
って、言ってはったなぁ。
ってことは、
荒っぽい道は、すぐに新しい出会いを求めることか。


ちょっとイメージしてみよう。

たとえば、
細やかな道は、徒歩旅行で、
荒っぽい道は、パックツアー。

細やかな道は、畑で野菜を育てることで、
荒っぽい道は、スーパーで買ってくること。

細やかな道は、ソファカバーが汚れて、それを隠す刺繍をすること
荒っぽい道は、機能性重視で拭き取りやすいソファにすること

細やかな道は、1文1文、膝つきあわせて読んでいくこの講座
荒っぽい道は、効率よく覚えて処理することを求められる進学塾

うん。なんとなくイメージできてきた。

「細やかな道」は、出会えるんだ。
そこでの出会いは、たぶん、
ものすごく新鮮で、一生忘れないような(忘れるけど)ワクワクするもので、
愛おしいもので、いつまでも心の中で幸せを出し続けるもの。
細やかな道を歩くと、少~しずつ、自分が成長していく。

そうそう。
「自分が成長するということは、自分に、新しく光を当てて、
日々、昨日と違った自分を見つけ出して行くことで、
新しく、自分と出会い直すこと。
そこから生まれるみずみずしさを持って歩いて行くことが、
この、細やかな道を歩いて行くのに必要だ」ということでした。


でも、「荒っぽい道」も大切だもんなぁ。
特に、今は。
時代に即して動くには、絶対に後者が必要だ。
後者は、外への対応が必要な時に役立つ。
自分の中が変わるのを待つ時間がない時、今すぐ外に対応できるから。
今の情勢では、荒っぽくてもなんでも実際に動ける人が絶対に必要だ。

高いビルの屋上に行きたい時、
エレベーターを使わずに階段で行くことに値打ちがある、
ということではないと思う。

「細やかな道を行こう」と静かに思いつつ、実際は、
思い出したように時々浅く考えて満足しているような状態が続くなら、
荒っぽい道を行って、強制的に外から何かを考えさせられる方が
何倍も値打ちがあるのではないかしら。

あ、そっか。
「荒っぽい道」が発展してきたのは時代の要請だから、
今の時代に生きていると、無意識でいる時は、
たいてい「荒っぽい道」を歩いているんだ。
「細やかな道」の大切さは、意識してみないとわからないし、
「細やかな道」は、意識して歩かないと、歩けないんだ。

自分の足で歩くということは、
エレベーターでも行けるし、
それが止まってても階段でも行ける、ということだ。

アタマでは「階段でも行ける」と知ってても、
普段から体力(本を読むには気力?)を鍛えてないと、
実際には行けないな。

数十キロ離れたところに行きたい時、
電車や車で行けなくても、歩いてでも行ける、ということだ。
文字通り、歩いて行く、か。
自分がどこまで歩けるのか、一度実際に歩いてみると、
「そこまでは誰の助けがなくても自分で歩ける」という自信にもなるし。
プラス、エレベーターの乗り方も、知っておく必要はある。

両方の大切さを認識して、
そこを必要に応じて行き来できるようになって行きたい。
「自由」に。

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4 コメント

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Unknown (オキツ)
2011-04-11 08:31:57
あ、でも電車やエレベーターで行ったら、
行った先で何かがあって帰れなくなっても、
どうしようもないな。
歩いて行ったら、歩いて帰れる。
自分で考えたら、おかしくなった所まで自分で戻れる。

だから、あっちの世界(?)に行く道は、
自分で歩いてくことが大事なのか。
ハードルの低いスピリチュアル系の本が怖いのは、
こーゆーことなのか。

まぁ、でも私は、よくわからないあっちの世界は、
まだ、よくわからないままでいいや。
今、自分で認識できることの方が興味ある。
それがそのうち広がるのかもしれないけど。
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Unknown (ゆか)
2011-04-13 15:02:53
茨木のゆかです(^^)

「不易流行」
大好きな言葉の一つになりました。

いま見える全てを、自らの目で「観」て、
楽しみながら、学んでいきたいです。

よろしくお願いします(^^)
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Unknown (オキツ)
2011-04-16 16:24:30
こんにちは。
来ていただいて、ありがとうございます!
せっかく来ていただいたので、もっとビシバシアップしたいのですが、
能力が足りなくてすみません。

哲学が好きで、考えることが好きで、自分の感じ方を大切にされる、
ゆかさんのような方にお会いできて、とても嬉しいです。

これからも、ココでもアソコでも、いろんなご意見、お聞かせください。
よろしくお願いします。
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Unknown (hasutama)
2011-04-20 09:47:41
オキツさんの使われている本では、認識の小道ではなく、知ることの細道なのですね!

言葉は細かく見ていくと、とても面白く色々な発見がありますね

認識は、認めると識別するが一体になったもの?

知るは、見るということとどう違う行為なのだろう?

「shi」「ru」という音の、母音と子音が、何を教えてくれるのか?

そもそも原文では何という単語が使われているのか、英語に訳されるときには?

調べられることを調べた後に、心静かに、印象から流れてくるものを受け止めてみたいです

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