『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学_3章_32

2011年03月24日 | 『自由の哲学』
第3章「考えるは世を捉えるに仕える」の32段落(P44)

今回の地震の状況を知るにつけ、
「実際に動かないなら、こうやって考えることが何になるのか?」
「ここで、言葉しかないから言葉を紡ごうと考えても、
現地に行って堂々と、私には言葉しかない、と言えるのか、言えない」
と、考えているうちに情けなくなってきた。
そこで、ここを読んだ。

わたしたちの考えるがそれとして正しいかどうか、
誰も定かにはいえない。
考えるを出発点にするのも、そのかぎり疑わしいままだと。
木がそれとしてそのものなら、考えるもそれとしてそのことだ。
それそのもの、それそのことの正誤を云々しても意味はなかろう。
疑うとすれば、せいぜい考えるを正しく用いたかどうかだ。
とあるものを作るのに、とある木がふさわしいかどうかだ。
(鈴木一博さん訳)

   「木がある」「考えがある」は、
   どちらも同じように、実際にあるものであって、
   木が正しいかどうかとか、
   考えが正しいかどうかとかを疑うことは、ナンセンスだ。
   ただ、木の使い方、考えの使い方が問われる。
   考えのふさわしさは時と場合で変わることはあっても、
   その木があること・その考えがあることは疑いえない。
   その木で椅子を作るのはふさわしいか、
   その考えでここに対処するのはふさわしいか。
   それが問われる。


「考えて何になるの」という虚しさに包まれてはいけない。
どんな時でも、誠実に考え続ければいい。

諏訪先生曰く、
「なぜなら、考えることは、
どんな状況であれ、自分が世界に生み出せる唯一のものであり、
世界に向けて自分で押せる唯一のスイッチだから」。
「柔軟さと右往左往することは違う。
考えの癖や個人の考え方というものはあるけれど、
それらを乗り越えて
“この場・この時にふさわしい考え”は、一緒に考えることができる」と。


考えることは、もしかして、人形が人になるスイッチ?
考えないことは、人が人形になるスイッチ?
確かに、どんな状況であれ、「考え」は生み出せる。
どんな状況であれ、何かがあってもなくても、「言葉」は生み出せる。
こころさえしっかりしていたら、
光と熱と力のこもった考えが降りてくるだろう。

私にとっては、考えは言葉なのかもしれないな。
一日中だって何か書いていられるもんな。
でも、それと山奥で隠居するのと、どう違うんだろう?
やっぱり、自己満足?

いや、自己満足しかないんだった。そうだった。
こころしぼませてる場合じゃないぞ。
えーとえーと、
「考え」を世界に向けてスイッチオンするには、
やっぱり、カラダがいるな。
そのカラダをスイッチオンするには、
やっぱり考えないと自分の動きたいようにスイッチオンできないな。
と、また当たり前のことに行きついてしまいました。

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