数ある戦国武将だが可児才蔵をご存知の方は、相当な武将好きであろう。願興寺に残る自伝「大寺記」には、「宝渕宗珠と云う人、世財を投じて吼鐘を鋳造して、以て法器に供する事あり」という一文がある。この宝渕宗珠という人は、朝倉義景の側室であり朝倉家の没落で妊娠中にひそかに一乗の谷を逃れ、漂白の後にこの願興寺に逃れてこられたという。
こうして月日が流れるうちに一子が誕生したのであるが、朝倉の姓を名乗るのは憚られて、如来を親と頼み奉り可児太郎と名付けられた。可児才蔵については、広島県に才蔵寺というお寺があり、最終的に福島正則の家臣となって、ともに広島に家禄を得て広島で没している。この才蔵寺の石碑には才蔵の生まれは尾州と記されているが、才蔵寺の住職も才蔵の生まれは願興寺であると認められている。
おそらくは願興寺は江戸時代に寺領100石を賜っていたが、それは徳川尾張藩から賜っていたためにそのような記述になったのではないか、という説もある。13歳ごろから武芸に道を進んだとされているが、その仕官先は斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、福島正則と渡り歩くことになる。
この可児才蔵が頭角を顕すのが、関が原の戦いである。このとき、才蔵は福島正則軍の先方隊であったが、背旗の代わりに笹を背負っていたという。戦では、普通討ち取った武将の首は腰にぶら下げるが、才蔵は背負っていた笹に首を刺して持ち歩いていたそうである。こうして時間を稼いで次々に戦いを挑んで、17とも22ともいわれる敵将の首をとったとされている。このことから才蔵は笹の才蔵という別名もある。
さて、宝渕宗珠の寄進した梵鐘はどうなったかであるが、その梵鐘は第二次大戦中に危なく供出されるところであった。当時、寺院の鐘で供出されるのは鋳造後300年以内の鐘であったという。この梵鐘が最初に鋳造されたのは1500年代であるが、江戸時代の中期に寺が荒れたときに近隣の悪童が石で鐘を突いたりしたため、相当傷ついたようである。
そのために江戸時代に鋳造されなおしていた。このために物議を醸し出したが、先代の住職岩田教源の強い主張で最初の鋳造が認められたという。したがって、現在県重要文化財に指定されている鐘楼門にある梵鐘は残ったのである。形状は多少変化したかもしれないが、原材料は間違いなく可児才蔵の親である宝渕宗珠の寄進した梵鐘である。
願興寺公式サイト