ここしばらくは、最澄上人と空海上人のお話を取り上げさせていただいている。このお2人の話題となると尽きる暇がない。先回の「地球上にいた宇宙人」でもお伝えしたように、こつこつと一つひとつを積み上げて境地を開かれた最澄上人。天才的な宇宙規模の視点で捉えることのできた空海上人。このお2人の存在が、日本の精神文化の開花に大きく貢献したのは、今さら私が申し上げる必要もなかろう。
先回の「地球上にいた宇宙人」でお伝えしたが、空海上人は留学生(るがくしょう)として、制度的に20年間の留学し研鑽することを課せられていた。だから、たった2年で帰国というのは大きな違反行為だったわけである。実際、空海上人は帰国後しばらく、大宰府に蟄居させられていた。そこで、上人は「請来(しょうらい)目録」を遣唐大使に朝廷への差出しを願い出た。朝廷に届けられた「請来目録」に着目したのが、既に桓武天皇の信頼を一身に受けていた最澄上人である。
空海上人が唐での2年間で、学んだものの偉大さ、持ち帰った文献や仏具の素晴しさは、最澄上人だからこそ、気付き得たといえるであろう。このように、空海上人にとっては最澄上人は、罰せられるところを救ってもらい、仏教界にデビューするきっかけも作ってくださった大恩人ともいえる存在だった。空海上人が類稀な地球上にいた宇宙人ならば、最澄上人もまたその地球上にいた宇宙人を理解し得る類稀な人物であった。
こうして出会ったお2人だったが、やがて疎遠になっていく。それは俗人の仲違いなどの低俗なものではないことは論を待たないことはいうまでもない。お二人は互いに真剣に仏教に取り組み、真剣に進むべき道を探っているうちに、どうしても相容れることのできない溝ができてしまったのであろう。
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