2年前の2022年の今日、きなこは突然オシッコができなくなって日本行きの飛行機に乗る日だというのにクリニックへ行った。痛み止めだけ打ってそのままKLIAから飛行機に乗ったのだった。
よく耐えてくれた。食事療法しかなかったから良くなるまでが長かったが、それも耐えた。もうあんなことにはなって欲しくないよ、きなこ。
土日になると開くある小さな店へ時間があると顔を出している。特に用があってのことではないが、なんとなく行ってただ話して帰ってくる。そこへ同じように来て喋って帰る人が何人かいる。
その中にKさんという60代の男性がいる。服装に多少の特徴があるが、簡単に言ってしまうと四季を通して同じタイプの服装なのだ。よく耐えられるなと皆思っているが、ずっと前からそうなので今は誰も彼にその理由を聞かなくなっている。そして地域でも服装故に有名だ。
その人、ほぼ毎週来ているはずが今日は来なかった。理由はその店を経営しているご夫婦の奥様が店に出ないことを知っていたからだ。つまり、その女性に会いに毎週来ているということだ。店には女性の夫も一緒にいるのだが。
勘違いされないように言っておかなければならないのは、そこは接客付き飲み屋ではない。飲食店ですらない。
人間、ある程度年齢を重ねると社会性を発揮する思考を少しずつどこかに置いてきてしまう。その人も前を知らないのでいつからそうなったのかはわからないが行動から社会性が失われつつあるように見える。それでも邪悪な感じではないので行動様式に癖があると見做されるだけで済んでいる。(そろそろ済まなくなってきている?)
歳をとると判断力が鈍ってくるように言われるが、それが医学的な意味での老化の影響なのだろうか?前頭葉が徐々に萎縮し始めて感情その他のことを自分でコントロールできなくなってくるとしたら。人間は社会的に完全にするために教育というシステムを使っている。そして歯止めをかけるために規則、道徳、慣習などが作られている。老化がそうしたものを気にしないようにしてしまうとすれば、人は動物方向へ戻っていくのか?
それが良いとか悪いとか言いたいのではない。
人生で長い期間社会性を発揮している状態を保っている方が我慢している状態、つまり人間にとって不自然で不快な状態なのか?と考えられなくもない。常識人ぶって世に顔を晒している政治家も警察官も学校の先生もその他いろいろな職業の人たちもあたかもそれが普通と言えるほど頻繁に不倫しているし、どこかの聖職者たちの変わった性癖の噂も絶えない。すると、人間の本質はいったいどちらなのかと疑問が湧いてくる。けれど、その答えは既に明らかと言えるだろう。
すると人間は平時でも常に心の中で自分の中の野生と生まれてから獲得した行動や思考の様式を戦わせて生きていると考えるべきなのだろうし、つまりは生きて普通にやっている状態でもかなりの内的戦いのために多くのエネルギーを使っているのだろう。(前頭葉が萎縮して気にしなくなった方が楽?)