もんく [とある南端港街の住人になった人]

映画「日本沈没」(リメイク版) -みんななかよく

深夜にテレビをつけたところこの映画が始まったので見てしまった。(クアラルンプール)

この映画のすごいところは地面が陥没したり津波に人が流されたりと言うシーンの出来が良いようで、その部分はなかなか迫力があった。(大きいスクリーンで見ていないので細かいところまで見られないのが残念だ。)

しかし、ただそれだけのように思える。衝撃的な大災害の発生はこの映画の中では少しの論理付けがなされるだけで、その事自体にはほとんど焦点が当てられていない。悪く解釈すればこれは映画としての単なる状況設定であって、「起きちゃったんだから仕方がないでしょう」と適当にお茶を濁されているように感じる。SFとしての説得力は無いようだ。その意味では子供向けの怪獣映画に近い。


さて、では何に焦点があるのかと言うと、これがよくわからない。

以前、主役の草薙くんの映画で落下してきた隕石で亡くなった人が生き返ると言うようなのがあったが、あれとあまり印象が変わらない。登場人物の多くが日常あまり見ないタイプのキャラクターで、しかもそのほとんどがエモーショナルに行動するだけの人に見える。

人を愛すること、人類愛、そうしたものが結局は日本を救うことになる。けれども主要な登場人物が映画やドラマによくあるステレオタイプの非現実性を表現してしまっているので、その感情が観ているこちらを映画に繋ぎ止めてはくれない。観ている方は沈没する日本におらず、ずっと外から観察するにとどまってしまう。

人が人を愛すると言うこと、人が利己的であること、そう言った感情があたりまえのように、つまりはそれが記号のように使われている。日本人が日本人としてこれを何も疑問なく普通に捉えるだろうとの前提に立って、恋愛に至るずっと個人的な動機や状況設定を省いてしまっているように見える。沈没のプロセスの中で話をどんどん進めなければならないからだろうか。

例えば、周囲が瓦礫の山であってそこに避難している人を訪ねるのにはどんな決意や苦難が必要なのかが全く描かれない、地面が陥没する瞬間に立ち会うにも関わらずカメラの目線はそこに居る人間の目線とは離れた観察目線なのである。利己的な人は最初から最後まで"きちんと"利己的であって、そこには何の葛藤も見られない。まるで悪役と決められているから悪事をする怪獣と同じなのだ。これは日本人を一人でも多く救いたいと思う登場人物の方も同じでそれがその人のどんな背景から来るのかが何も説明されず、単なる聖人か、「人間としてそれが当たり前でしょう」と言われているようで観ているこちらをクールダウンさせる。

小学校の壁に貼られている「みんななかよく」とか「手を洗いましょう」とか「ろうかを走らない」と書いたを見せられている感覚に近い。そこには大人が納得できる何らの理由も無いのだ。


振り返ってその事が逆に日本の大惨事についての臨場感まで薄めてしまっているようである。
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