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もんく [とある南端港街の住人になった人]

子供に「人の役に立つ人間になりたい」と言わせる我々の無自覚な問題点

活断層ハウスのある町の広報誌を読んでいて、ここが気になったところがあった。


これは全国学力・学習状況調査の結果のうちこの町の小学生への質問調査の結果、特徴的な部分だけを抜き出したもの。

昔、小学校位の時には、大人が「将来何になりたい?」というのを聞いていた。お巡りさんとか、パイロットとか、花屋さんとか、パン屋さんとか知っている職業を答えていた。それ自体は他愛もないことなのだけれど、その他愛もない質問から逆に、子供の自分たちは既存の社会システムのどこかにアダプトするというか、しなければならないと思ったはずだ。だから高校を出て、大学を出て、どこかで何かになろうと必死になった。

考えれば、そんな質問をする大人もそういう意識で生きているし、それで上手く何かと合致すれば本人も豊かになれるか少なくとも生きる上での心配は少なくなるから仕方ないのかもしれない。無意識に、生きていくにはそうするのが効率的だし正しいやり方だと思い込む。

しかしながら、根本的なこと言えば、生きるって何?とか自分て何?とかそういう問いに欠けているんじゃないかなと考えられもする。役に立たなきゃ生きてちゃいけないのか?誰かに説明できる仕事してなきゃいけないのか?って話だ。

時々誰かが生産性の無い生き方について批判的な意見を言う。要は稼いでいるということ、少なくとも税金を払っていて一方的に社会の世話にだけなっていないことが良しとされ、そうでない場合はダメだ。言うなれば多分に資本主義的な意見と言える。確かにこの社会ではお金を回せなければ生き難い。生きられないかもしれない。

ただ、そうするにしてもそれは誰のためなのだろうか?もし社会は社会の他の構成員のための生産性と言われるのであれば、そこには欠けているものがありはしないか?つまり、「自由」だ。そして根本的に欠落しているのは哲学じゃないだろうか? 人として生きるということイコール生産ではないはずだから。

ともかく、小学生にそんなこと言わせるのは大人としてどうなんだ?と思う。言わせている我々大人にその自覚が無いとすればさらに悪い。
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