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もんく [とある南端港街の住人になった人]

マジョリティとして認められるのは喜ばしい事じゃない

この記事がSNSに出ていて、そのコメント欄が面白い、と言ったら失礼かもしれないが、おかしなものばかりだったのでこれが日本の教育を経て育った結果なのかと悲しくなった。
代表的なコメントの要約はこのようなもの。
『人権の問題として、進学、就職、住居契約等で差別が許されないのは当然だが、男性器を持つ人物が心は女性と主張する事で法的に女性として扱われるのはおかしい』
『全て西洋の基準に倣わなければならないわけではなく、大部分の人が反対しているLGBTを意識高い系や海外の圧力の意見によって決めるべきではない。民主主義の国では多数決で決めるべき。心と身体の性別が別というなら性転換手術を受けろ』
『欧米コンプレックスで言うべきではない。差別はあってはならないが、言葉狩りのように差別だ!と言って攻撃することは被害者の救済にはならない』

こうした意見について2つほど勘違いと感じるポイントがある。

1つ目は、人権というものに関して、「誰か」がそれを決めるものと考えている事だ。日本ばかりではなくて、マレーシアでもそういう傾向が強かったと考えるが、政府があるグループの人たちの存在を「認める」または公にそうした者として「許す」べきものと考えている。だが、本来ならば人間であるというだけで無条件に権利があるというのが人権であって、政府が認めたり多数決で決めてからどうのこうのという性質のものではないはずだ。欧米政府などが求めているのは「認める」という事でなくて、本来あるべき権利を「保護」するという事であるはずだ。

2つ目は、人がどういう状態の時のその人が男性または女性であると言えるかというような事を言っているが、それは誰かと風呂やトイレを共用する時に問題ないかどうかだけの話であって、その心配は無いわけではないが、問題の本質はそこには無い。女性ならこうで、男性ならこうという事や、異性どうしの関係でしか成り立たないとされている事をどんな性別でも、どういう関係であっても本人が希望すれば受け取れるようにしなければいけないというのが主旨のはずだ。結婚や相続、または家の賃貸等がまず出てくるがそうした問題だ。

これは、逆から考えてみるとよくわかる。
自分の場合はたまたまマジョリティに属すと思われるが、これまでの人生で結婚やらその他の手続きにおいて特に何の苦労もなくやって来る事ができた。自分としてはそれは人権として当たり前と思っていたが、実は政府によって選別された後、「許可」された結果であったとしたら、嬉しいだろうか? そしてそうした選別は社会のあり方として正しいと言えるだろうか? 結婚や性や姓のような個人的な事について政府の許可が必要だとしたら、我々のこの国は民主主義の国と言えるだろうか?

そして、我々はこうした事に関してこれまでこうだったからという消極的な理由で変えずにある人々の権利を認めない、つまり制限し続ける政治家を選び続けている。それは正しい事なのだろうか?
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