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もんく [とある南端港街の住人になった人]

溶接に人生の終焉を見る今日この頃

今朝、大きな機械の天井からある部品が落ちた。

部品と言っても元から付いていたものじゃなくて、後から付けたものなので生産に支障があると言うほどでもない。それはちょっと安心な事だけれど、やっぱり上から物が落ちると言うのはちょっとした物だったとしても危ない。なのでなぜ落ちたのか、ちゃんと見ておかないといけない。次回はもっと危ないものが落ちてこないとも限らないわけで。


さて、こう言う仕事も現場管理人にやらせる。普段そこにいて危険を察知しないといけない人間が把握するのが良いからだ。が、ここはいつもの通り、そんなちょっとした仕事にもハードルがあった。想像の範囲内だったとしても、やっぱりあった。さて、何でしょう?



この件について原因を調査しなさいと言う。するとメッセンジャーですぐに1枚の写真が送られてきた。そして現場管理人言う。「溶接が弱かったのが原因」と。おまえ、それだけか?「でも、見た通り溶接が良くない。だから壊れて落ちてきた。」どうも他に考えられないらしい。

こう言うのが一番危険なのだ。確かに溶接は良くなかったかもしれない。が、本当にそれだけか?振動とか作業に問題とか、長い期間の間に錆が出ていたとか、そう言う事はないのか?溶接が外れた反対側の所はネジで止まっていたはずだがそっちはどうなのか?力のかかり方に問題は無かったのか?ちょっとよく見ればいろいろ問題はあるかもしれない。それを見ないで一見して「溶接が弱い」で終わりか?!


なぜこうして単純な結論で終わらせたがるか、本人も気付いていないのがさらに悪い。まあ、普通は本人は気付かないが。

第一に、面倒な事早く終わらせたい。→簡単な結論の方が良い。
第二に、自分のやった工事でないし、他人のせいにできてしまう。批判できるはずと見積。→簡単に済まそう。
第三に、時分はこれについて知っていると思う。だって見た目通りだ。→簡単に終わらそう。

となっていて、つまりはこれを工事したテクニシャンにクレーム付けようと心の中で瞬時に判断したに違いないのだ。こうして調査もろくにしないままそう言う事を考えてしまいがちなのが普通の人間だ。自分の中に勝手に結論を出したり、簡単な対策案を考えたりして、そっちの方向に動こうとする。結果、思考停止になるけれど、思考停止してしまった自分には気付かない。だって思考停止しているんだから気付きようがない。

悪く言うと、いろいろな事に関して、また自分自身の知らなさについて自分で制限を加えてしまっているのである。こうなるともう、きっと先がない。こんな「溶接が弱い」程度で終わりって事はもうそれ以上自分の向上ってのは金輪際無いのである。極体言えば、人生このレベルで終わりって意味なのだ。
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