今日、近所といっても別の筋なので普段顔を見ない人が家に来た。その人は市役所が移転するので代わりに出張所を設けて欲しいという要望書への署名を欲していた。とりあえず今回はその取りまとめがどこかの政党なのか任意のグループかがわからなかったので署名はせず、別の方に聞いてからということにした。自分は別に反対というわけではない。
その人が帰った後にキャサリンさんが言う。「過疎化の進んでいるこの地域に予算の不足している市にそんなことのためにお金を使わせるのはどうか」と。
確かに以前は人が多くいたが今は産業が下火となったために過疎化と高齢化が進んでしまって人口の多い地域は市のもっと北に移っている。商店街はシャッター通りに変わっている。だからこの地域の為に役所の機能をいくらか残したとしても受益者は少なく、効率的とも言い難い。
同じようなことで、紙を近所に回す回覧板というものがあるが、これを廃止してスマホで情報を配信する形に変えてしまえばどうかという意見もある。今やスマホの普及率はどの世代でも約90%となっていてそろそろ紙を回すのを止めてしまっても良いという意見もある。
上記2つのことについて、廃止してしまえ、スマホで済むだろうというのは割と大きな説得力をもって受け止められるだろう。
その根拠は何かというと、極端を言えばお金だ。税金の使い道の中で無駄なところは省いて構わない。そしてそれに続くのはそんな小さなことのために税金を増やされるのが嫌だという意見だ。
税金について言っているのそうは感じないかもしれないが、お金に依存するという意味では資本主義の考え方ということになる。さらにそこに矛盾が出てくるのは税金を離れて話す時には資本の論理によって切り捨てられるいろいろなものを評して資本主義の限界と言ったりお金持ちにだけ有利を断罪する姿勢が一般にあることだ。つまり一般社会では資本主義断罪否定、行政と税金については資本主義肯定という矛盾がある。そんなご都合主義に陥っていることに人はなかなか気付けない。(苦笑)
そしてもう一つ気付けないことは資本主義活動と人権の関わりについて。スマホというのは住民票とかそういった法的根拠のあるものとは違う個人がお金を出して任意に買うもの。そして通信機に使っているつもりだが、実際には企業の広告表示器でしかない。マーケティングが上手く行っていて今は90%ほどの人が持っている。でも全員というわけじゃない。つまり10%ほどは持っていない。持っていないのは今時はマイノリティだ。そういった状況の中で持っていない、もしくは十分に使えない人たちを放っておくようなやり方を肯定してしまうというのは人権の問題として正しいと言えるだろうか?