土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

平城京建設のミステリー

2013-08-20 09:53:29 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。

前回記事の天智天皇の国創りは、主に日本の政治体制、天皇を中心とした国家体制の礎になりました。
日本の古代は、天智天皇が終わらせました。

また白村江の戦いには負けましたが、それにより、朝鮮半島から帰化人が多く倭国に入りました。
帰化人とは、恐らく任那(みなま)や、親交もあり、白村江で共に戦った、百済(くだら)系の朝鮮人であると思われます。

帰化人たちによって、国内の近代化が進んだ・・・と教科書にはありますが、恐らく、大和朝廷内やその他の豪族たちの、意識改革が進んだことが大きかったのではないでしょうか?

嫌が上でも、国際化されますからね。
私の説では、そのころの日本の外交上の窓口は、九州だったはずで、近畿は奥の院的な存在だったはずです。
白村江の戦いや、その後の帰化人流入が平城京建設への、意識の芽生えになったのかも知れません。

なぜなら、白村江の戦以降、奈良に本格的な都を建設するからです。

奈良時代に移る前の倭国は、近畿内で、たびたび遷都を繰り返しております。
事実上、天皇が変わるたびに、遷都を行なっております。

何でこんなことをしたのでしょうか?

行政を一新するためもあるでしょうし、恐らく、ヤマト国が近畿に入城した際に、協力した地方の豪族たちへのサービス、行政キャンペーンもあったのではないでしょうか?
首都が来てくれれば、その地域が発展するのは間違いないですからです。

そして、神武東征の目的である、国防面での意味合いもあったと推測します。
つまり、大陸勢力に、ヤマトの本当の首都を悟られないようにするためです。

しかし、遣隋使や遣唐使での大陸との交流、そして大和朝廷の東アジアでの存在感の高まりなどで、そのような非効率なことは必要ないと、思えるようになったのではないでしょうか?

そして、白村江の戦いの敗北で、唐などへの競争意識も高まったと思います。
日本お得意の、明治維新後の欧米社会、太平洋戦争後のアメリカ社会への、良い意味での「追いつき追い越せモチベーション」ですね。(笑)

そして、奈良(平城京)に腰を落ち着かせての、しっかりとした国家形成への道を歩み始めた・・・ということなのではないでしょうか。

現実的に、天皇が変わるたびに首都が移転していたなら、政策の一貫性に支障がでそうです。
また行政の蓄積もできませんし、首都建設や移転に伴う費用などがバカになりません。

また何より、多くの日本国民に、現時点での日本の行政の中心がどこかがわかりません。(笑)

このころには、慣例のようなたびたびの遷都の必要性は、もう既になかったのかも知れませんが、前例や習慣に流されていただけなのかも知れませんね。
また、九州ヤマトの国の人々が朝廷奈良盆地入城の際の、地域住民への約束事があり、東征以降の朝廷は、それを実行していたのかも知れません。

兎にも角にも日本は、これ以降都市という、文明の基盤ができるようになりました。

私の説では、当初の大和朝廷は対外的には、小さな秘密組織的な存在だったはずです。
それならば、天皇が変わるたびの遷都も、言わば政治活動の一環としての機能も理解できます。
しかし、大国隋や唐と対等に外交できるようになった大国となれば、やはり堂々と居を構えた、どっしり感が欲しいものです。

何はともあれ大和朝廷は、西暦710年、奈良に都を移します。
建設モデルは、唐の都長安です。
その後、途中数年、難波などに遷都をしますが、約70年間、倭国の中心として栄えます。

平城京では、仏教寺院の建立も盛んに行われたのは、もう皆さんご存知のとおりですね。
そして南都六宗など、この小さな一都市で、密教以外の仏教が全て学べる宗教都市として、世界に誇れる一時代を、日本は経験することになったのです。

                                     (続く)


大和(大倭)連邦の限界  (小さすぎる朝廷パワーの謎)

2013-08-16 18:17:26 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
久しぶりに、古代ミステリーです。(笑)

今回は、聖徳太子の時代(飛鳥時代)から数十年経過した、飛鳥時代末期について書いて参ります。
この頃、大和朝廷と呼ばれるものが、ほぼ形成されたと思われます。

大和朝廷・・・と言われている、当時の奈良盆地の政権ですが、”大和”と書いて、やまと・・・と読みますね。
我々は普通にこう読みますが、考えてみればかなり変わった読み方ですよね。

「日本の心、やまとの心は、大調和の心だから”大和”なのかな?」とも読み取れますね。
以前は私もそう考えておりました。

しかし今の私は、これは、”和”という表記は、古来の日本地域名”倭”が、表記変換されたものではないかと思っています。

そして、和(倭)の支持国の集まり、即ち大和(大倭)連邦こそ、”大和”なのではないでしょうか?
つまり、九州から来た倭と、倭に協力した近畿周辺諸国との連合が、大倭・・・後の、大和なのではないでしょうか?

まぁ、大日本帝国・・・とか、大韓民国・・・とか言いますが、ああいう感じの、自国を偉大に見せる、愛国心からくる表記の大和・・・なのかも知れませんが。

この頃の大和朝廷は、当時の日本国全体の力関係の中では、決してスーパーパワーを持っていたとは、私には思えません。
なぜなら、天皇一族をはじめ、朝廷の主だった勢力の直轄地が、極めて少ないからです。

聖徳太子などの皇族が、今の愛媛県などの遠隔地に、所領をわずかに持っていたらしいのですが、まぁほとんど、朝廷勢力は奈良盆地しか直轄地を持っていません。
直轄地が少ないと言うことは、今の政治で言えば、自派の議員が少ない、超少数与党みたいなものですね。
これでは、決して大きな態度は取れません。

はっきり言って、この頃はまだ、出雲の国(島根県)や、吉備の国(岡山県)の方が大国なのです。
近畿一円を、大和朝廷の勢力化と拡大解釈して、やっと大和・出雲・吉備三国が釣り合うくらいの規模ですね。

つまり当時は、かなり極端な形の、”集合国家体制”だったということです。
しかし大和朝廷は、この時期既に遠方の九州に勢力圏を持っていました。

これは、単純な神武東征説や、朝廷近畿発祥説では説明できないことです。
この両説だと、かなりの大掛かりな支配パワーを、朝廷は当初から保持していないと不可能だからです。

この近畿では小さな政治パワーしか持っていないのに、遠方の九州に強い影響力を持つ朝廷の謎は、
元来は九州の支配者だった政治指導者たちが、少数で近畿に移り住み、そこで周辺諸国と大連立を組んだ・・・
という、米と酒外交説でないと、うまく説明できないのです。

ともあれ直轄地=経済力=軍事力=影響力ですから、それから推測する大和朝廷の権勢は、全国的にはまだ権威的なもの、象徴的なものでしかなかったはずです。

そして、聖徳太子が導入した官位十二階制度も、当時は十分には、効力を発揮していたとは到底思えません。
当時の官僚の給与体制などは、私には良くわからないのですが、恐らく宮中、すなわち天皇一族から出ていたとするならば、当時の豪族たちにやり込められていたはずです。

天皇の直轄地は、奈良盆地の一部に過ぎず、以外ですが当時の豪族、蘇我氏や大伴氏などの方が所領が大きいのですね。
いわゆる、氏・姓・連(うじ・かばね・むらじ)ですけど、こちらの方が現実的な経済力では、天皇一族より、まだこの時点では上なのです。

ところで、氏姓連(うじ かばね むらじ)って一体何なのでしょうか?
恐らく、神武東征時に後の天皇一族が、奈良盆地に移動する時に一緒に付いてきた、いわゆる、”側近中の側近たちの子孫”だろうと推測いたします。

大和朝廷の政治は、氏姓しか直接参入できなかったのですが、これならばつじつまが合います。(笑)

日本の近代化のために、聖徳太子はこの氏姓制度を変革しようとして、官位十二階制度を設けたのですが、
残念ながら制度としてはあったが、機能としては十分ではなかったと思われます。

聖徳太子の一族も、太子の死後に蘇我氏によって滅ぼされています。(太子暗殺説もあります。)
現実的にその後の朝廷では、蘇我氏による政治が執り行なわれていました。

それは、このころの朝廷には制度機能を支える経済力が、十分ではなかったからだと推測されます。
すなわち、天皇の直轄地がとても少なく、現実的な力を持てなかったのです。

今ならば、そうですね・・・予算が出ない・・・と説明すればよいですね。
これが大和朝廷の当時の限界であり、これによってその後、国家が存亡の危機を迎えることになるのです。

日本が、この天皇の所領が少ない問題から来る、支配制度の不備を解決し、真の天皇中心の国家、
今に続く日本の国体が完成するには、一人の天才政治家の登場を待たなければなりませんでした。
                                             (続く)


東西の結界 (伊勢神宮と出雲大社)

2013-08-05 18:45:56 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
拙ブログにお越しの皆様、ここ数日の歴史日記で、弥生時代の謎は解けましたでしょうか。(笑)

弥生時代は地味な印象がありますが、この時代は、古代史の謎に満ち満ちております。

いつの間にか、米作が始まり、
いつの間にか、卑弥呼が魏志倭人伝に登場し、
いつの間にか、神武東征が行われ、
いつの間にか、大和朝廷が出来上がっている。

そして、いつの間にか、日本に天皇制ができあがり、いつの間にか、日本神道が日本に定着しています。

それらは、一つ一つの出来事が、それ単独でも凄いことなのに、それらがとても静かに、そしていつの間にか物事が進んでおります。

私は、とても不思議な感じが致します。
弥生から、史実のある飛島・奈良時代までというのは、とてもミステリアスな期間ですね。

学校の授業で、ただ単なる事実として、私たちは自国に起こった過去の出来事として、当たり前の出来事の如く、「ふ~ん、そうなんだぁ。」と、何気に学んで参りましたが、この時代は、日本が生まれ変わり、そして、現代にまで影響を与え続けている、ものすごい時代なのだと思います。

その、”もの凄い変化”が静々と、そして淡淡と行われた・・・という事実の謎を、私は、最近の弥生シリーズで、ある程度解明できたのではないかと、自負しております。

要するに、大和朝廷に繋がる、日本の神話の時代は、水面下で極秘裏に執り行われた、静かな国創りだった・・・という新説です。
隣国朝鮮半島諸国に、ヤマトの国政への介入をさせないことが、神武東征の目的であり、その為には、隠密裏に作業を行う必要があった・・・というのが、私の自説です。

つまり、稲作とヤマトの国の政治形態、そして、日本神道の信仰形態の普及が、この頃同時進行で日本全土に普及しましたが、これを執り行ったのが他ならぬ、”九州のヤマトの国の人たちだった”・・・とすると、全ての謎が繋がり、つじつまがあうのです。

さて、ヤマトの国が近畿地方に根を下ろす頃、今も残る日本の二大神社が建設されます。
伊勢神宮と、出雲大社です。
場所は、三重県と島根県ですね。

宗教的には、この2つの神社は、大和朝廷を護るための東西の結界として造られた・・・と言われているようです。

私は霊的なことは、あまり分かりませんので、「そうなんだぁ。」と思うしかないのですけど、地形や海流の知識を踏まえた上で、この2つの地域を見た時には、霊的な側面意外に、別のものが見えて参ります。

それはやはり、軍事的な側面です。

弥生後期には、紀伊半島以東の地域も稲作は普及しており、九州のヤマト勢力は当時この地域にまで、影響力自体は持っていたと思われます。
しかし恐らく、近畿地方ほどの完全な成功にまでは、至れなかったのではないでしょうか。

それがその後の、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征伝説や、坂上田村麻呂の、東国攘夷の戦いにつながったのだと、私は思います。

伊勢神宮のある、三重県の志摩半島は、三重県の南端であり、そのまま舟を出せば、黒潮に乗って、東国にいち早く辿り着けます。

軍事拠点、特に海軍の基地としての伊勢神宮に、私はどうしても着目してしまいます。

また出雲大社も、朝鮮半島からの船からの攻撃に対する、軍事拠点としての一面があったように私は思います。

当時出雲の国は、ヤマトの国の最大の同盟国であったと思われます。
10月を、【神無月・かんなづき】と言いますが、出雲の国では、【神在月・かみありづき】と呼びます。

明らかな、”特別扱い”ですね。

ヤマトへの国譲りの見返りとして、この時期に出雲の国で、日本の神々の合議を行うことになったから・・・という、いわれが残っていますね。

出雲の国が、古来日本の国創りに、多大な貢献をした証であろうと思われますし、同時に地理的に、極めて重要な地点にあったと思われます。

出雲が朝鮮半島諸国に、万が一寝返るようなことになれば、ヤマトは、とたんに窮地に立たされる位置関係にあるからです。
また出雲の国は、独自で朝鮮半島諸国と、日本海の海流を使っての、交易をしていた節もあります。
朝鮮半島南部から船を出し対馬海流に乗れば、自然と出雲地方に流れ着きます。

出雲大社の主宰神、大国主命(オオクニヌシノミコト)は、経済繁栄の神ですが、それは、当時の出雲の貿易による富・・・
も象徴しているのかも知れません。

この地理的政治的に、大変重要な拠点である出雲にも、巨大神社が建設される・・・
これはやはり、対朝鮮半島諸国対策と、出雲の国の謀反対策ではなかったか・・・と、私は考えてしまいます。

建設当初の出雲大社は、現存するものとは佇まいが違い、とても長い階段のある、超高層構造だったということです。
出雲大社は神社という、宗教的な建築物のみならず、見張りやぐらの機能も、有していたのではないでしょうか?

日本神道は、政治と軍事と宗教が一体ですから、そう考えれば、つじつまが合うのではないかと私は思っております。
つまり、伊勢神宮と出雲大社は、大和朝廷のある奈良盆地から見れば、軍事的拠点としての機能も持っていたと、私には思えるのです。

                                      (とりあえず 完)


卑弥呼の鏡は、大和(大倭)連邦の証 ?

2013-08-04 18:38:39 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
つじつま合わせの歴史マジシャン、古代のミステリーハンターでございます。(笑)

やっと、卑弥呼の邪馬台国の時代が、一区切り付けましたので、これからはだんだんと、教科書に出てきたような話が出てくることと思います。(笑)

私の説では、
・邪馬台国(ヤマト国の中国読み)は2つあった。
 (九州のヤマトと、近畿のヤマトです。)

・卑弥呼の邪馬台国(九州のヤマト国)は、対外的なヤマトであり、ヤマトの正規軍は九州に残し、万一の朝鮮半島からの侵略に備えた、囮(おとり)の機能を兼ね備えていた。(侵略されるのは、日本列島のみならず、朝鮮半島南部の任那・みなまを含みます。)

ということになります。

その2つの説を機軸に、今後も話を進めてまいります。

まず、近畿ヤマトの最終拠点である奈良盆地ですが、魏志倭人伝以降に、日本の歴史の表舞台に立つ、大和朝廷の最終拠点である奈良は、どう見ても対アジア勢力に対する要塞としての地形をしており、決して、首都機能優先、外交優先の地形をしておりません。

そして普通は、軍事的な常識から言えば、盆地を対外勢力が占領しようとはしません。
なぜなら盆地は、完全な地元有利の地形であるので、攻め取るのに難儀するからです。

盆地は山々に囲まれています。
ということは、大軍は進入路が極端に制限されますね。
大軍で攻めても、山に阻まれるので、少数の兵しか進めず、相手が少数でも防衛されてしまいます。

そして山岳部は、無数の抜け道など存在しますから、地元民でならば防衛は容易です。
盆地は守りは堅い・・・ということは、攻め取るのにとても苦労する、侵略リスクの高い地形なのですね。

桶狭間の戦いでは、今川義元の大軍を、少数の織田軍が破りますが、こういう山岳地帯では、地元勢力の方が圧倒的に有利で、攻め入る大軍を山が無力化するのですね。

ですからヤマトという外部勢力が、この地に最終拠点を築いたのが確かならば、ヤマト軍は奈良盆地を攻め取っていないはずです。

考えられるのは、
① 元々この地(奈良盆地)には、誰も住んでいなかった。
もしくは、
② ヤマト勢力が、この地に定住するのに、地元勢力などのお膳立てがあった。

この2つのいずれかか、または、この両方の条件しか考えられないのです。

もともとヤマト勢力は、地元近畿の出であった・・・という歴史学者もいますが、神武東征伝説もありますし、何より、初期の遺跡と言われる”纏向遺跡(まきむくいせき)”は、完全な計画都市です。
計画都市ということは、自然発生した人口集落ではない・・・ということです。

交通の要所でもなく、川の流れも急で、山野に囲まれた盆地の奥の奥に、わざわざ計画的に、大規模な都市を建設していることは、専門の研究者でもその理由がわからず、まだ意見が分かれているところです。

私は、極少数の側近たちに囲まれた形で、現在の天皇一族につながる方々が、地元や、西国の豪族たちにお膳立てをしてもらいながら、この奈良盆地の奥に移り住んだのではないだろうか・・・と、考えています。

それは、後の飛鳥・奈良時代の天皇一族や、天皇側近の氏姓(うじかばね)たちが、全国を支配していた勢力とはとても思えないくらい、わずかな面積の所領しか持っていないことから伺えることです。

天皇一族ですら、奈良盆地の一角しか、直轄地を持っていません。
ということは、奈良盆地入城は、極少数で行われた可能性が高いことになります。

直轄地が少ない・・・ということは、養える直属の部下が少ない・・・ということだからです。

また、盆地は山岳地形なので、よそ者であるはずのヤマトの国の軍では、防衛ができません。
ですから、ヤマトの国の人々を守っていたのは、元々奈良盆地に暮らしていた人々のはずです。

こうなると、以前に記事に書いた、通称 【卑弥呼の鏡】 の謎も解けます。
日本各地で出土する”卑弥呼の鏡”が、近畿地方で最も多く出土する謎ですね。

つまり、奈良入城に到るまでの一連の神武東征(米と酒外交)で、近畿ヤマト国勢力への配慮や護衛に対する、各豪族たちへのお礼の品が、”卑弥呼の鏡”だったのではないでしょうか?

そうです。
ヤマトの国との、同盟関係の印が、「卑弥呼の鏡」なのではないでしょうか?

魏志倭人伝では、「邪馬台国からの朝貢の礼に、鏡を100枚贈呈した。」とあります。
しかし、実際の”卑弥呼の鏡”は、既に140枚ほど出土しています。

卑弥呼の鏡に記されている年代や文字などに、相当怪しい物も多数存在しますので、純粋に、”魏国製”とは言えないと思います。
恐らく、後の時代の複製品も、多数混じっていると思われます。
(ということは、複製品を作る技術が、当時のヤマトの国には、既にあったということですね。)

しかしこれはあくまで、”考古学的な価値の問題”であって、当時の、”政治的価値”には関係はありません。

もらった方からすれば、本物の”魏国製”であろうが、コピーであろうが全く関係はなく、「見たこともない銅製のきれいな鏡を、ヤマトの国の方々からいただいた。」と、ありがたがったことでしょうね。

そしてこの、”卑弥呼の鏡”こそ、大倭(大和)=ヤマト連邦の証であり、
この大倭(大和)=ヤマト連邦こそ、後の私たちが知る、”大和の国の原型” であると、今の私は考えています。

                                      (続く)


二つのヤマト (後編)

2013-08-04 11:08:09 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
前回記事の続きで、本日2本目の記事です。

繰り返しますが、古墳があったことは、死生観の共有があった・・・ということです。
古墳は日本人には馴染みの厚い”墓”であり、上流階級者の遺体を埋葬するものです。

古墳は朝鮮半島の各地から発見されます。
ということは、古代日本(ヤマト)と、朝鮮半島との、死生観を共有するくらい密接な関係があった明らかな証拠です。

ヤマトの国の前文明である縄文は、高度な海洋国家です。
かなり広範囲の朝鮮半島と交流し、文化圏や居留地があったはずです。

縄文文明には武具の発展した形跡が全くなく、完全な平和の文明ですが、その後の中国の国家成立を受け、それに伴って発展した武具を手にした朝鮮半島国家群に押される形で、朝鮮半島南部の任那(みなま)まで撤退したのが、九州ヤマトの国の脱縄文のきっかけかも知れません。

弥生初期の遺跡、九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、物々しい櫓(やくら)があり、警戒色の強い遺跡ですが、このような明らかな軍事的緊張を表現した遺跡は、現在のところ九州でのみ発見されます。
これは、九州の人々は高い軍事的緊張を感じていたが、他の地域はそれほどでもなかった・・・という証拠とも言えます。

それらの点を考慮しての、この時代の動きに着目して参ります。

さて、この九州を表舞台で、国際的にはとても目立つ形で行われた卑弥呼外交の裏で、初代天皇と言われている、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の東征・・・と言われる、近畿地方への遷都が、採り行われたのではないでしょうか?

私の説では、米と酒外交で、縄文系の東国の日ノ本の国々への段取りは、もう全て済んでおります。
ですから東征・・・という軍事的行動を現す表記が物々しすぎるのであって、実際は交渉だったと推測します。

恐らく、米と酒という新たなエネルギー源と産業テクノロジーを引っさげたヤマト国の人々は、五穀豊穣の神、子孫繁栄の神として、縄文系の九州以東の日ノ本の民たちに、篤い信任(信仰)を得ていたはずです。
ヤマト国の長の遷都に、協力しないはずはありません。

陸路を通ったのか、海路を通ったのかは、はっきりとは私にはわかりません。
恐らく海路ではないかと、私は思います。

この頃の古墳遺跡が、西日本各地で見つかりますが、近畿以外は、なぜだか各地に点在して存在しているからです。
ですから、陸路からキチキチと弥生化していたのではなく、海路で移動し、拠点拠点を弥生化していたのではないでしょうか?

九州ヤマトの国との、言わば連立関係を結ぶことで、他の地域は米の生産が可能となり、豊かさを手にできた・・・。
つまり、日本各地に今の天皇家の先祖の方々が米を普及し、同時に勢力を拡大させた・・・ということが、
その後の、天皇を中心とした国つくり伝説として、日本神道の神事や、日本の神々の伝説として、後の世に語られていったのではないでしょうか?

これだと、九州に正規軍を残しての東征という、平和裏の遷都と勢力の東国への拡大、そしてその後の、近畿での大和朝廷発足という、歴史のウルトラCが可能なのです。
私には、それ以外の方法は無理だと思いますね。

平和裏の東征というモデルは、その後の日本の歴史にも登場いたします。
明治維新のヒーロー、西郷隆盛の実例です。

西郷隆盛は、京都での鳥羽伏見の戦いの後、江戸無血開城に至るまで一戦も交えてはいません。
道中は、東海道も中山道も、徳川方の大名の領地ばかりです。
普通なら、戦を繰り返し、敵をなぎ倒し続けて、本拠地江戸に向かうのが常です。

なぜ新政府軍と幕府軍には戦がなかったか。
西郷が江戸に向かう前に、段取りは全て済んでいたからです。

西郷が主に戦ったのは、江戸城無血開城後の徳川勢力の残党との戦いです。
この時には、敵をなぎ倒し続けて、西郷ら新政府軍は北進しました。

幕末と同じことが、実際の神武東征でも行われたのではないでしょうか?
大和朝廷の戦いの史実やそれらを記した伝説は、日本武尊伝説など、近畿で大和朝廷ができて以降のものしか存在しないからです。

まとめると、
国際的、対外的には、卑弥呼の邪馬台国(ヤマトの国の中国読み)が引き受け、いざ朝鮮諸国との戦になれば、九州の”卑弥呼の邪馬台国”が立ち向かう。

当時の国際的には九州の、卑弥呼の邪馬台国がどうしても目立つので、その裏でひっそりと行われている、近畿への政治拠点移しは、国の外からは見えないのです。

つまり、外交上の窓口と囮(おとり)としての役割も、卑弥呼の邪馬台国が兼ねる訳です。
そして、新しい日ノ本の国づくりや国家形成は、近畿のヤマトの国が、静かにじっくり行う・・・。

こういう体制作りが、この卑弥呼の時代前後に、執り行われたのではないでしょうか?
つまり卑弥呼外交は、ヤマトの東国への拠点移動を、国際的に見えなくする、政治外交パフォーマンスであり、それは同時に、ヤマトの国が新たに、近畿に拠点を移す、最後の仕上げであったと私は考えているのです。

卑弥呼登場は、今から1800年ほど前になります。
神武東征が行われたのは、日本書紀や古事記等の歴史書で言えば、今から2500年ほど前になります。
時系列的にもおかしくはありません。

むしろ、通常の歴史で言われている、卑弥呼→神武東征→近畿の大和朝廷説の方が、時系列的には無理があります。
短時間で行われていますから、当然激しい戦闘が必要です。
そのような伝説は、日本のどこにも存在いたしません。

激しい戦いがあれば、必ず伝説は生まれ英雄が生まれるからです。
この幕末や倒幕後の戦いには、ドラマが付きまといます。
現在も、大河ドラマで放映されております。

しかし、鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城までの限られた期間には、伝説も英雄伝も存在しませんよね。
なぜなら、戦いそのものがなかったからです。

弥生時代の、近畿での大和朝廷成立までの静かな歴史の秘密も、戦いそのものがなかったから・・・というのが、最もつじつまの合う答えだと思います。
東征・・・という名の交渉だった・・・のだと思います。

また邪馬台国近畿説は、当時の武具の違いを説明できません。
この当時はまだ、当時の近代的武具を持っていたのは、九州地方だけだからです。
当時の日本では、九州だけが飛びぬけた、そして唯一の軍事大国なのです。

その後の弥生的な文化の流れや、当時の武具の性能から、九州→近畿という流れがあったという方が自然です。
これだと、大和朝廷発足時に既にあった、朝廷の九州への影響力も、すんなり説明が付きます。

ともあれ東アジアでの、巨大国家の発生という歴史的脅威に対して、日本は上記の記事ような工夫で、この時期を乗り切った・・・。
それが、日本の神話となり、これまでの日本の精神的支柱となった・・・。

そのようなロマンを、私はこの時代に感じるのです。

                                   (続く)