土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

鬼平のとってもイイ話 

2013-10-23 10:22:52 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。

前回記事は、田沼意次の治世のお話でしたね。
今日はその後の、寛政の改革の時代です。

前回記事の田沼時代は、今に伝わる江戸文化のほとんどが出現した時代でした。
寿司などのファーストフードも、この頃だと言われています。

日本の文化のすごいところは、そのほとんどが市民文化だということです。
世界の名だたる文化というものは、王侯貴族や大富豪が資金を出したり、パトロンを庇護するなどして、
できたものが多いのですが、
日本の文化は、今でもアニメやカラオケなど、一般市民文化が主流です。

これは日本が、一般市民レベルで文化を創造する力があり、享受することができる民族である証拠ですね。

さて、田沼の重商主義政策で江戸は繁栄したのですが、田沼政治は農村を置いてけぼりにしたところがありました。
折りしも、天命の大飢饉もあり、地方では田畑を捨て、江戸に流れ込む人が、この時期にはたくさんいました。

今でも同じですけど、洋の東西に関わらず「都市には仕事がある。」と思って、人々は都会に出てきますね。
まぁ、この感覚に近いのですが、江戸時代当時は、これは立派な”密入国”だったのです。
藩を超えての、人の移動の自由がなかったからです。

この密入国者を当時は、無宿人(むしゅくにん)と呼んでいたのです。
この頃は基本的に、人の自由な移動は禁じられていて、江戸という都市も、多量の無宿人を受け入れる体制や文化にはなっていませんでした。

ですから、無宿人は普通、職にありつくことができなかったし、住むところもありませんでした。
今でも、戸籍がなければ、住むところも仕事にもありつけないですから、日本は今も現状は、あまり変わっていないのかも知れません。
そこで当時江戸の町は、この大量の無宿人が、様々な犯罪に手を染めることが多発していたのです。

この時代に活躍した人が、時代劇ドラマ、『 鬼平犯科帳 』 で有名な、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)
長谷川宣以(はせがわのぶため)です。

長谷川平蔵・・・の方が有名ですね。
(以下、長谷川平蔵とします。)

長谷川平蔵の仕切る、火付盗賊改というのは、放火や強盗など、凶悪犯罪を取り締まる幕府の機関です。

奉行所は警察署というイメージがありますが、どちらかというと、都庁や県庁・・と言った、総合的な役所ですね。
その中に、警察機関もあったのです。

火付け盗賊改は、警察+国家公安のような存在でしょうね。
犯罪取締りの、専門的な役所です。

その仕事の中で長谷川平蔵は、様々な凶悪犯罪を取り締まり、鬼平・・・と言われるほど、悪には厳しかったのですが、
どんどんどんどん無宿人が、全国から江戸に集まるものですから、「これでは、きりがない。」と、思った野のでしょうね。

そこで一計を講じます。

平蔵は、時の老中松平定信に、人足寄場(にんそくよせば)の設立を進言します。
江戸の石川島に、いわゆる、職業訓練所を造ったのです。

ここで長谷川平蔵は、軽犯罪者や無宿人を捕らえたりして、大工の仕事など様々な、技術的な職業訓練を、無宿人に手当てを与えて施したのですね。
もちろん予算は、幕府から出ました。

直轄は、長谷川平蔵が火付け盗賊改をしながら兼務しました。
(長谷川以降は、新たに奉行職ができました。)

寄場の資金が足りず、平蔵自ら借金をし、相場などの運用でまかなっていた・・・という記述もあります。
寄場を無事卒業すれば、大工道具など必要なものが、寄場から支給されたそうですよ。

鬼平、長谷川平蔵の施策は、世界初の犯罪人への社会更生施設だった可能性が高いです。

平蔵はこの、寄場の職務の激務が祟ったのか、火付け盗賊改の役職を退いて後、数年でこの世を去ってしまいます。
とにもかくにも、この鬼平こと長谷川平蔵という方がいてくれたことで、その後の江戸市中の治安に、多大なる影響があったに違いありません。

無宿人・・・現代で言えば、移民ですね。
彼らを取り締まるのではなく、排除するのでもなく、教育し構成して世に出して、市中の発展に役立たせる・・・

日本も、今後の移民外国人政策を学ぶ上で、模範的な事例が江戸時代にはある・・・ということですね。
とても誇るべき歴史だと、私は思います。


金一点、スーパー老中、田沼意次。

2013-10-22 18:48:47 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじら(幸福うさぎまる)です。

以前、増税某国論を書いている時、江戸時代の元祖アベノミクス将軍として、11代家斉(いえなり)の記事を、
取り上げたことがございました。

家斉は将軍就任直後に、それまで筆頭老中をしていた田沼意次(たぬま おきつぐ)を解任し、
反田沼派の松平定信を老中に任命します。

しかし松平定信の、厳格な緊縮財政路線を嫌い家斉将軍は、田沼時代に復古する形で、元祖アベノミクス政策とも言える、
大金融緩和を行いました。
つまり、元祖アベノミクスは、田沼意次という、江戸幕府の歴代老中の中で、最も悪名高い人物がいればこそだったのですね。

田沼意次は、10代将軍家治(いえはる)の時代の老中です。

この方は、松平定信のように、歴史教科書で取り上げられることも少なく、また、賄賂政治を行ったなどと言われ、
歴史上とても評判の悪い老中です。

しかし私は、日本の歴史において、この御仁こそ、その後の幕末から明治維新の日本を、救った一人だと私は思っております。

田沼意次の政治を一言で言えば重商主義、つまり、資本主義なのですね。
それまでというか、田沼以外の幕府政治というのは重農主義、つまり古来からの米本位制です。

よく○○藩、○○万石・・・とか言います。
藩の勢力を、米の取れ高で評価する手法ですね。
これが、米本位制です。
経済の機軸が、米という農作物だということです。

江戸時代は、米の相場などもやっておりますが、武士の経済はこの米を基軸にした米本位制なのです。
しかし唯一、田沼意次の時代だけが、重商主義なのですね。

実質的には、江戸時代中期当時の日本は治安もよく、商業が随分と盛んになっておりました。
つまり武士の経済だけが、時代に取り残されていたのです。

田沼は、積極的に市場経済の景気向上策を実施した上で、それまでは無税だった商人にも課税します。
それにより、絶望的と言われていた幕府の財政は、一気に健全化しました。

日本の市中、特に江戸の景気は絶好調になります。
「宵越しの銭はもたねぇー」という、江戸っ子の気風は、この頃芽生えました。

よく働き、よく呑み、よく遊ぶ。
よく言われる江戸人らしさは、田沼時代以降の江戸っ子の人柄です。

それにより風紀が乱れたと、その後の松平定信は、江戸の風紀を今度は取り締まり、厳しく規制するようになります。
しかしこの、田沼時代の江戸市民への影響は、その後もう消えることはありませんでした。

江戸市民には、田沼時代に覚えた、人生を楽しむという文化が、世界初の市民的文化として生まれていたのです。
その江戸市民文化は、11代家斉将軍の大金融緩和政策で、日本に完全定着しました。

田沼の悪名は、平家物語や戦前日本侵略国家説のように、
歴史は強いものが、いくらでも書けるという特性を生かしての、一種の政治キャンペーンであった可能性が高いです。

その後の、幕末のエピソードとして、こういうものがあります。

日本に来て、江戸市中を歩く西洋の外国人たちは、一応に目を疑いました。
江戸の市民が皆、明るく屈託なく、いつもニコニコしているからです。
市中は、オヤジギャグを常時連発する(笑)市民の笑い声で満ちていました。

「このような、朗らかな国民は見たことがない。」
「このような、市民が文化的で幸福に暮らしている国を、我々は占領して良いものだろうか?」

と、日本をあわよくば侵略者しようとしていたはずの西洋人たちに、こう思わせたのです。

他の国の国民たちは皆、西洋人からすれば、ドンヨリ生きているように見えたのでしょう。
また、本国のヨーロッパにおいても、一般的な国民は生活に疲れ、やはりドンヨリ生きていたのでしょうね。

当時の日本人の、明るく笑顔に満ちた、人生を前向きにハツラツと歩む姿そのものが、
欧米の侵略者たちに、侵略の動機を失わせたという、歴史的事実が日本にはあるのです。

それは田沼意次という、突出した一人の政治家が、日本の歴史にいたからです。

仏典に国師をしていた釈尊に、とある王が戦争の相談を持ちかけたエピソードがあります。
仏陀釈尊は、こうお答えになりました。

「国民が、幸福に暮らしている国には、攻め入ってはならない。」

幕末の日本は、当時の世界レベルで言えば、幸福な国民が暮らす国だったのです。

このことは、時代が変わっても同じだと思います。
真理は普遍だからです。

政治は国民の幸福を第一義に考え、国民を豊かにすることで豊かな国家を築くことです。
その豊かさが、国民の朗らかさを生み、それこそが国家を守るのです。

日本には、尊い教訓を秘めた歴史があります。

神様は、日本という国を、こよなく愛してくださっている。
私には、そう思えてなりません。


ひょんなことから元禄文化

2013-10-21 17:41:11 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。

当ブログでは今、江戸時代に着目しております。
家康の基本的施政方針、統治主義的天下布武と現代の憲法9条下における、絶対平和主義との対比から、
私は相当、江戸時代に対してネガティブな情報を発信しましたので、その埋め合わせに、少しポジティブな話題も記事にいたします。

時代は下って、5代将軍綱吉の元禄時代、そう江戸時代に絢爛たる文化が始めて芽生えた、華やかな時代です。

時代劇なんかでも、この時代というのは、花魁(おいらん)や、茶店(ちゃみせ)など、
新たなと町人の楽しみが増え、とても賑やかなイメージですね。

そしてこの時代と言えば、そう、天下の悪法と言われる、生類哀れみの令(しょうるいあわれみのれい)というのが、幕府から宣下され、「人よりも犬を大事にするのか!」というような、論調がよく聞かれる時代であります。

賑やかな江戸の町を、お犬様ご一行様が、偉そうに歩き回る。
そういうなんとも場違いな雰囲気の映像が、時代劇などでもよく見られます。

しかし、この映像には、明らかな間違いがあるのですね。

実はこの、生類哀れみの令があったからこそ、江戸の町民文化の始まりである、華やかな元禄文化が起こり、賑やかな江戸の街が生まれたのです。

つまり、順番が逆なのですね。
生類哀れみの令こそ、華やかな元禄文化の産みの親なのです。

この生類哀れみの令は、将軍綱吉に跡継ぎが出来なかったことから生まれたものです。
綱吉が将軍になった頃というのは、江戸幕府開闢から85年あまりが経過した頃ですが、実はまだ戦国時代の気風は、人々の心の中に色濃く残されていたのです。

そして江戸の街は、とても武士の人口比率が高いのですが、戦がなくなり腕の見せ所を失った武士が、ウップンばらしをするのに、夜な夜な辻斬りをすることが、日々横行していた、とても治安の悪い都市だったのですね。

いわゆる、試し斬り・・・であります。
武士は確かに、農民や町人の生殺与奪の権限がありました。

ちなみにこの身分制というのは、日本では江戸時代に確定されたものです。
それ以前では、皇族貴族以外は流動的でした。

とまれ、江戸時代は「無礼をはたらいた。」という口実があれば、武士は庶民を無礼討ちができたのですね。

しかしまぁ、さすがに日中は、そう易々と辻斬りはできません。
なぜならそれは、統治主義的天下布武政策による、お家のお取り潰しの、格好の餌食となりうるからです。
ですから江戸時代を通じて、武士は刀が抜きにくい状況下にありました。

ですがまだ、江戸時代初期においての江戸市中では、夜になると辻斬りが横行していて、夜に市民が歩けない街だったのです。
まだ綱吉以前の江戸の街では、ムシャクシャしている武士に出会ったら、庶民は切り殺されかねないからです。

つまり初期の江戸の夜は、シーンと人影のない街・・・だったのです。
ですので、綱吉将軍以前の江戸市民は、夜は出歩かなかったので、町民文化は生まれないのですね。


そこで、それを知ってか知らずかですが、偶然なのか、それとも思惑があったのかは、私は存じませんが、(笑)
生類哀れみの令が、5代綱吉将軍より直接発令されました。

生類・・・哀れみ・・・ですので、
これは当然、犬に限らず・・・なのですよ。

つ・ま・り、
一般市民の命も哀れみ、無碍に殺したりしてはならない・・・と、将軍自ら法令化し、武士を含めた国民全員に、お触れとして出したのです。

将軍は、犬ですら哀れむのですから、人は、言うに及ばずですわな。

これで一気に、江戸の治安は良くなりました。
ですから、生類憐みの令によって、花魁や吉原などの、夜の文化が一気に花開いたのです。

徳川綱吉は、世界で始めて動物愛護の精神を法制化したと、今世界ではその評価が見直され始めてています。
しかし、それだけではまだ、評価が低すぎると思います。

政治的、軍事的には天下布武は、綱吉以前に確定していたでしょう。
しかし5代綱吉将軍は、さらにそれを推し進め、日本の全国民の心から、争いの心をなくした名君であったと、今の私は考えております。

つまり貞享4年(1687年)に、5代将軍綱吉によって発布された生類哀れみの令によって、
信長以降の日本人の願いである天下布武は、やっと完成したと私は思います。


日本を救い続けた職人魂

2013-09-30 06:00:00 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。
このところ、歴史記事がなおざりになっていますね。(笑)

日本の失われた歴史を取り戻し、日本の誇りを取り戻すことから、私はブログを始めました。
今回は、それを技術的側面から支えた、職人にまつわるエピソードです。

今、当ブログの歴史記事では、織田信長に焦点が当たっておりますので、種子島への鉄砲伝来にちなんで、記事を進めてまいります。

種子島に鉄砲が伝来されたのは、諸説ありますが、天文12年(1543年)と言われます。
時の将軍は、室町幕府12代足利義晴です。

この将軍が、滋賀県の国友の鍛冶屋たちに、鉄砲作りを命じます。
それは、種子島鉄砲伝来の翌年、1542年の出来事です。

国友の加治屋たちは、将軍直々に本物の鉄砲を渡され、それを分解して実際に作ってしまいました。

これは、スゴイことです。
世界広しと言えども、当時の最先端技術である鉄砲を、見て分解しただけで、実際に作り出せた民族は、日本人しかいませんでした。

他の人々は、鉄砲の破壊力にただ怯え、畏怖するだけでした。
「これを、我々も作れないだろうか。」と思うことが出来たのは、世界で日本人だけだったのです。

実際にあるものは、我々にだってできる・・・
どうやら世界で日本人だけは、そう思うことが、ごく自然に出来る民族のようです。

その後滋賀県国友は幕末まで、鉄砲の生産場として栄えます。
浅井氏の領地だったのを、織田信長が支配刷るようになって後、それまでは補足的な武器であった鉄砲は、主力武器として利用されるようになりました。

国友の職人たちにより、大量生産出来るようになったからです。

この、鉄砲の大量生産は、世界で唯一日本だけが成し遂げたものでした。
発祥の地ヨーロッパでも、大量生産はできなかったのです。

その後、信長・秀吉・家康と、日本の支配は推移して行きますが、この戦国時代末期において、それぞれの戦いの時代がありましたが、一つの大きな世界史的転換を、この時期に日本は経験します。

それは、日本国内の鉄砲の総数が、全ヨーロッパの鉄砲総数より多くなったのです。

世界は大航海時代初頭。
ヨーロッパ諸国は、航海技術と鉄砲とキリスト教布教を一体化させ、全世界に植民地争奪戦を繰り広げておりました。

フィリピンは、スペインが取りました。
台湾は、オランダが占拠しておりました。

フィリピンの国名の由来は、征服者であるスペイン人が、当時のスペイン王子フェリペにちなみ、「フェリペ王子に捧げる」という名目で付けた名前です。

そのような、国名すらも自分勝手に付けるような、俺様な侵略者たちが跋扈する、世界史の中で唯一、彼らが侵略を諦めたのが戦国日本でした。

なぜなら戦国末期の日本は、世界最強国となってしまったからです。


世界随一の鉄砲総数を誇り、100年の戦国時代で鍛え抜かれた、数多くの武士が多数おり、しかも最後は平和裏に泥沼化することなく統一され、分裂国家とならなかった日本に、軍事的に攻め入る隙はどこにもなかったからです。

信長以降の日本は、他国が侵略するのに、最も軍事リスクの高い国家となったのです。

足利義晴将軍や織田信長など時の権力者の命を受け、当時の世界最先端技術である鉄砲の製作と、世界唯一の大量生産を成した日本人の職人魂が、大航海時代を日本が生き抜くための、大切な歴史的アイテムとなったのです。

                                             (続く)


天下布武=脱戦国論と、信長への信頼。 

2013-09-23 11:49:06 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。
久しぶりに歴史記事です。(笑)

信長の時代になりますと、かなり資料も多く、また信長ファンもとても多いので、記事を書くのは緊張しますね。
なぜなら私は、史実を細々と追うのが苦手な、変な歴史愛好家だからです。(笑)

歴史愛好家というよりは、謎解きが好きなのですね。
ですから史実のかっちりしている時代は苦手です。(^^;

ということで、細々とした史実に関する考察は、私より優秀な歴史愛好家の方々にお任せして、私なりの信長論に迫りたいと思います。
私なり・・・というのは、歴史は現代に適応させたり、未来を築くために参考にしなければ、知る意味はない・・・ということですね。
そういう観点から、お読みいただければ幸いです。

さて信長の有名なスローガンと言えば、言わずと知れた、「天下布武」ですね。
「軍事で、この国を平定するのじゃ!」と言うイメージで、私は捉えていたのですが、今の私はこの天下布武を、脱戦国論と捕らえるようになりました。

つまり、
戦国時代を終わらせる・・・ということです。

当時、戦国時代に生きる人々は、戦国時代を終わらせるのは不可能・・・と思っていたはずだということは、以前の記事で書きましたけど、信長だけは、「終わらせる」と断言したのですね。

信長の偉いところは、それが実現できるように、実際の自軍の伝統であるとか、社会であるとか、そういう脱戦国に邪魔なものを実際に排除し、新たな遺伝子を構築し続けたということです。

信長が、覇王であるとか、残忍で冷酷な殺戮者であるとか、実際に大量虐殺などをしているにもかかわらず、なぜだか尊敬されているのは、信長の脱戦国理念と、それを実現させるための生き様に、時代を超えた正当性があるからだと思うのです。

そしてそれは、やり方は違えど、後の豊臣秀吉や徳川家康にも、その脱戦国理念は受け継がれたと思います。
秀吉や家康の政治も、一種の脱戦国論だとすれば、歴史のつじつまが合うのですね。

まとめると、
信長は、原理主義的脱戦国論であり、秀吉は現実主義的脱戦国論、家康は統治機能としての脱戦国論なのではないでしょうか?
つまり、その後の明治維新までの期間、日本に流れていたのは、信長理念=天下布武の変化形だったと私は考えます。

ではその脱戦国を実現するための方法論として、信長が行ったことは、一つは兵農分離ですね。
当時の日本は、武士=農家でした。
ですから、農繁期には戦が出来ませんでした。

信長は、家の次男三男の希望者を銭で雇い、戦専門の武士を創出したのです。
これは当時の、家長相続制の社会において、次男三男に働く場所と、立身出世の機会を与えることとなりました。

これで信長軍は、年中戦ができるようになりました。
こういうシステマティックな陣形は、年々効力を発揮いたします。

織田軍は、相手が戦えない農繁期でも戦ができたので、段々と織田軍は実績を上げてきました。

ただ問題がありました。
織田軍は、急ごしらえの軍隊ですから、ここの兵隊は弱かったのですね。

ですから信長は、鉄砲などの新兵器を、積極的に採用しています。
また、大阪の堺を占拠した後は、鉄砲の大量生産体制を築きました。

これは、織田軍の兵士が、弱かったからなのです。

そして一番代表的なのは、能力昇進制度ですね。
家柄や身分、採用年次に関係なく、手柄のあった者を重用し、晩年は臣下を大名にまでしています。

当時のほとんどの地域では、そこに長く仕えていた者が重用されていました。
それは恐らく、領地の多い者が上に立っていたはずです。
当時は、武士=農家ですからね。

領地が多ければ、多くの人間・・・すなわち武士を食わせられる=軍事力が大きいだったはずです。
これは今でも、二世議員が多いのと変わりませんね。
ジバン・カバン・カンバンがあれば、出発点から知名度と運動員と政治資金があるので、政治進出にとても有利です。

これらの内部改革によって、ここの価値観を変えると共に、実績を積んで行ったのが信長流の生き方でした。

信長の偉いところは、この天下布武というスローガンを、現実化するために生きたことです。
ですから、長く続けていくことで、「これは本物だ。」と信頼されたと思うのですね。

つまり、
言っていることと、やっていることが同じだということですよ。
言行不一致な人は、結局は信頼されません。

たとえば景気対策と称して、還付金ばらまくのは、言行不一致なのですよ。
なぜなら、その財源は税金だからです。

税金を取って、そのお金をばら撒くのであれば、最初から取らなければ良いのですよ。
そんなことをするくらいなら、何もしない方が景気対策なのですよ。
可能な限り税金を安くして、無駄な規制をなくして、国民にお金を動かしてもらった方が良いのですよ。

国家予算なんて、たかだか年間100兆円もないですよ。
でも、日本国民は預貯金だけで1500兆円も持っているのですよ。

国民に、お金を使ってもらえば良いのです。
今は政府より、国民の方がお金持ちなのですからね。

たった100兆円しか使えないのに、偉そうに、仕事している振りだけするのは、言行不一致で笑えますぜョ!!

                                           (続く)