
★本稿は、「江戸の都市政策」という観点から、「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」の三大改革に関する代表的な議論を、本稿筆者が纏めたものである。しかし、筆者は、三大改革の歴史的性格を必ずしもこのようには考えない。それは極々大まかに云えば、「享保の改革」は「家康の頃に戻す改革」、「寛政の改革」は「享保の改革後の弛緩を正す改革」、「天保の改革」は幕府にとってどれだけ好ましくなくても、「近代日本」への萌芽を孕まざるを得なかった改革・・・と位置づけるからだ。それらの議論は他日に譲りたい。 osan3 




江戸の都市政策
I. 江戸の定義 ― どこまでが江戸か?
II. 江戸の都市計画 ― 享保期までの都市計画
III. 享保改革の都市政策
IV. 江戸幕府の町人に対する意識 ― 三大改革を例に
I. 江戸の定義
「東京」が指す範囲が何通りもあるように、「江戸」も何通りかの範囲があった。
* 首都圏…江戸中期には、江戸は四里四方(日本橋から北に二里、南に二里が江戸だという。)といい、だんだん時代がたつと五里四方だともいった。(将軍が鷹狩をする範囲)市街地と市街地の江戸を支える物資を供給する地域。
* 市街地…府内(市街地)は四里四方のうち真ん中の方二里だった。幕府の中枢が集まり、武家地、町人地、寺社地が入り組んでおり、さらに農地との境界は不明瞭。⇒明暦の大火後、新たに市街地化した地域を府内、つまり町奉行の管轄に編入していく。
* 行政区分
① 江戸町奉行の管轄地…江戸の市街地のうち、2割が町人地であり、それを治めていたのが江戸町奉行であった。この管轄地は次第に増えて1600を越すようになった江戸の町のことで、正式に町地に編入することもたびたび行われていた。しかし、見かけ上は町になっていても、あいかわらず代官支配地になっているものもあり、その境界も曖昧だった。
② 寺が建築のために寄付を募る場合の江戸府内という範囲。
③ 「江戸払い」の場合の江戸という範囲。
④ 江戸のなかで、行き倒れの死者や水死などの変死者や迷子が出た場合には「塗高札」に掲げたが、その場合の江戸の範囲。
⑤ 旗本や御家人が江戸の外に出るときには届出が必要であったが、その場合の江戸の範囲。
⇒文政元年(1818)に幕府が決定。
黒引き…②。西は山手線より少し内側、東は本所・深川を含む範囲で、現在の区でいうと、千代田・中央・港・新宿の東半分・文京・豊島・台東・墨田の南半分・江東の西半分・目黒の一部くらい。
朱引き…③・⑤。黒引き+新宿・墨田・江東の全部、荒川・北の一部・板橋の一部・渋谷・品川の一部が入る。江戸の四宿は全部入ってしまう。
II. 江戸の都市計画
明暦大火以前―家康・藤堂高虎プラン
政治・軍事面と都市機能面の整備に重点をおいた都市計画で、統治者の館である江戸城を中心に、内堀に支配階層の事務所と住まいである武家地を、海側に町人地を、主要な街道沿いの出入り口には大寺院を配置した。
「の」の字状の濠と五街道の接点には橋を架け、「見付」と呼ばれる城門36ヶ所と見張所を設置し、市中への人や物資の出入りを改めた。東海道の虎ノ門、甲州街道中の四谷門、上州道の牛込門、中山道の筋違橋門(秋葉原)、奥州街道中の浅草橋門は「江戸五口」といわれ、都市江戸への出入りにあたっての主要な関門となっていた。町の要所には木戸を設け、都市の出入り口には大木戸を設けた。
明暦大火からの復興―松平伊豆守信綱プラン
都市拡大の傾向と江戸の消費経済化に対処しつつ、防災面に留意して、機能的な流通経済都市としての大江戸を整備する都市計画で、城郭内にあった御三家をはじめとする武家屋敷は全て城郭外へ移転し、寺社も城下町から一周外側へ移転させた。こうして市街地は玉突き状に拡大した。これらのための替地が必要であったため、郊外に江東地区・山の手・内藤新宿といった新市街地を開発した。
防災面では、諸大名の火災時の避難場所として郊外に下屋敷を下賜し、市街地には火除地を設置するとともに、耐火建築を奨励して市街地の防火化を進める。日本橋を中心にする通町の幅を6間から10間に広げた。火除地には倉庫をつくったりして、だんだんに食いつぶしていって今は残っていない。広小路という幅7間程度の広い道路を設置したが、仮設建築ではあるが屋台などの店を認めたために、見世物小屋などの立ち並ぶ繁華街になってしまい、防災上はあまり役に立たなかった。
流通を盛んにするため、関東内陸における河川網の改編を図った。
III. 享保改革の都市政策
荻生徂徠の問題意識
江戸の町人地が無計画なまま拡大し、江戸と周辺農村との境が不明確になったこと、しかも奉行など行政の対応である都市政策が大きく遅れていることを指摘している。
広域経済圏の中心・百万都市江戸
享保10年(1725)には、江戸の都市区域は69.93㎢に達した。その内訳は、武家地が66.6%、町人地が12.5%、寺社地が15.4%である。
当時の土地利用をみると、市街地の約26%を水面が占めていた。主要な交通路・物資輸送路が河川・運河であったことを考えると、江戸の都市計画はかなりしっかりとしていたことがわかる。
享保のころには下町の町屋は、北は浅草・千住あたりまで、東は亀戸あたりまで広がっていた。こうした町屋は、誰の許可もなく建てられることもあった。
都市政策
江戸と町人の拡大に対応しつつ、町人地の支配体制を防火面に重点を置いて強化
* 拡大した江戸への対応…本所見回りの設置・町政機構の再編・江戸城城付地の再編(鷹場・抱屋敷・行楽地)・町奉行所の関東農村支配(地方御用・地方改め)
* 防火面…町火消・町屋の改造・火除地・新たな役職(出火之節人足改め・火事場建具改め・風烈見回り)
* 消費経済への対応…物価問題(空米取引解禁・買米・仲間組合の結成)
* 福祉…下層民対策・小石川養生所
* 健全化…風俗の取り締まり・行楽地
明暦大火後の復興期(松平信綱期)と比較して、江戸町奉行の管轄である町人地・市街地・首都圏と江戸は拡大した。首都圏は、流通が発達したことによってより密接な関係になった江戸周辺の地を含む。また、江戸初期には軍事的役割が強かった江戸周辺地は、消費が増大した江戸を支えるという経済的な役割を期待されるようになった。
経済の発展や流通の活発化によって、江戸にはより多くの人が集まり、町人地はどんどん広がっていった。それに幕府、つまり町人地を支配する町奉行所の対応が追いつかず、それを荻生徂徠は指摘したのである。また、明暦大火後の火除地や広小路といった防火対策はあまり役に立たなくなっており、享保期の防火対策がほとんど町人地を対象にしているのはそのためであると考えられる。
火除地は、最初絶対に建築物を建てさせないようにしていたが、後に防火用の土蔵、土手蔵、あるいは公共施設といった例外を認めるようになる。また、吉宗の発案で江戸市中に沢山の馬場がつくられたが、その狙いの一つである火除地の役割は、馬場が行楽地化してしまい、果たされなくなってしまう。
これらは、火除地という空き地を有効利用しようとした商人たちの要望に、幕府が譲歩したということである。松平信綱プランの前提には、「江戸は政治都市であり、武士中心の町だ。町人は、その武士の補完機能である」という考えがあり、町人は都市問題の対象にいれていない。それが、商人の台頭などにより町人が大きく成長し、「われわれは、補完機能ではない。主体性を持った生活者だ」という主張をはじめた。大岡はその良き理解者であった。信綱プランにはなかった町人への福祉や江戸の健全化も、幕府がこうした町人を江戸の生活者として意識し始めたととらえることができる。
IV. 江戸幕府の町人に対する意識
享保改革の都市政策の思想
テキストでは、首都江戸の改造は徂徠の思想の影響を受けたものと見ることができるとあるが、徂徠の主張は、「江戸の官庁を再配置し、都市としての軍事機能・防衛機能を高める」とある。享保改革の都市政策には、そういったことはみられない。それより、江戸の町人の声に耳を傾けようとしたところから、大岡の思想が色濃く反映されていると思われる。これは、社会の変化に対して支配の根本にあるこれまでの儒学(徂徠も含めて)では、対応しきれなくなってきたことの現われかもしれない。幕府は重農主義と言われるように、その基盤は農民からの税である。四民のうち、工・商は士・農の補完機能としてしか認識されていない。しかし、江戸においては商人が力を伸ばし、また商人でも職人でもない無宿人などの四民の枠に収まらない者もでてきて、それらをひっくるめた町人を、改めて被支配者として認識することになったのだ。
寛政改革と天保改革
その後の都市政策について少し触れておくと、寛政改革では享保改革で導入された福祉の面を発展させている。小石川養生所の整備拡充や、人足寄場の創設などである。次の転機は天保改革である。水野忠邦は、幕府の威信を取り戻そうと、「江戸の町を政治都市として純化する」と公言し、「そのために、江戸の十里四方を幕府の直轄地とする」と宣言した。大岡のように民衆の理解者であった江戸町奉行遠山金四郎がいたにもかかわらず、享保・寛政と続いた福祉の面に力を入れなかったのは、江戸の機能を政治のみに縮小するためだと思われる。それはつまり、町人を武士の補完機能にもどすという時代に逆行する政策であった。
このように、享保改革以来、幕府にとって町人支配が大きな関心となった。それは、時代が下るにつれて大きな問題となったが、結局、幕府は町人を支配しきれなくなってしまう。享保改革は、都市政策において本格的な町人支配に乗り出したという点で大きな意味を持っていたと評価できる。
平成17年2月22日 YBB





江戸の都市政策
I. 江戸の定義 ― どこまでが江戸か?
II. 江戸の都市計画 ― 享保期までの都市計画
III. 享保改革の都市政策
IV. 江戸幕府の町人に対する意識 ― 三大改革を例に
I. 江戸の定義
「東京」が指す範囲が何通りもあるように、「江戸」も何通りかの範囲があった。
* 首都圏…江戸中期には、江戸は四里四方(日本橋から北に二里、南に二里が江戸だという。)といい、だんだん時代がたつと五里四方だともいった。(将軍が鷹狩をする範囲)市街地と市街地の江戸を支える物資を供給する地域。
* 市街地…府内(市街地)は四里四方のうち真ん中の方二里だった。幕府の中枢が集まり、武家地、町人地、寺社地が入り組んでおり、さらに農地との境界は不明瞭。⇒明暦の大火後、新たに市街地化した地域を府内、つまり町奉行の管轄に編入していく。
* 行政区分
① 江戸町奉行の管轄地…江戸の市街地のうち、2割が町人地であり、それを治めていたのが江戸町奉行であった。この管轄地は次第に増えて1600を越すようになった江戸の町のことで、正式に町地に編入することもたびたび行われていた。しかし、見かけ上は町になっていても、あいかわらず代官支配地になっているものもあり、その境界も曖昧だった。
② 寺が建築のために寄付を募る場合の江戸府内という範囲。
③ 「江戸払い」の場合の江戸という範囲。
④ 江戸のなかで、行き倒れの死者や水死などの変死者や迷子が出た場合には「塗高札」に掲げたが、その場合の江戸の範囲。
⑤ 旗本や御家人が江戸の外に出るときには届出が必要であったが、その場合の江戸の範囲。
⇒文政元年(1818)に幕府が決定。
黒引き…②。西は山手線より少し内側、東は本所・深川を含む範囲で、現在の区でいうと、千代田・中央・港・新宿の東半分・文京・豊島・台東・墨田の南半分・江東の西半分・目黒の一部くらい。
朱引き…③・⑤。黒引き+新宿・墨田・江東の全部、荒川・北の一部・板橋の一部・渋谷・品川の一部が入る。江戸の四宿は全部入ってしまう。
II. 江戸の都市計画
明暦大火以前―家康・藤堂高虎プラン
政治・軍事面と都市機能面の整備に重点をおいた都市計画で、統治者の館である江戸城を中心に、内堀に支配階層の事務所と住まいである武家地を、海側に町人地を、主要な街道沿いの出入り口には大寺院を配置した。
「の」の字状の濠と五街道の接点には橋を架け、「見付」と呼ばれる城門36ヶ所と見張所を設置し、市中への人や物資の出入りを改めた。東海道の虎ノ門、甲州街道中の四谷門、上州道の牛込門、中山道の筋違橋門(秋葉原)、奥州街道中の浅草橋門は「江戸五口」といわれ、都市江戸への出入りにあたっての主要な関門となっていた。町の要所には木戸を設け、都市の出入り口には大木戸を設けた。
明暦大火からの復興―松平伊豆守信綱プラン
都市拡大の傾向と江戸の消費経済化に対処しつつ、防災面に留意して、機能的な流通経済都市としての大江戸を整備する都市計画で、城郭内にあった御三家をはじめとする武家屋敷は全て城郭外へ移転し、寺社も城下町から一周外側へ移転させた。こうして市街地は玉突き状に拡大した。これらのための替地が必要であったため、郊外に江東地区・山の手・内藤新宿といった新市街地を開発した。
防災面では、諸大名の火災時の避難場所として郊外に下屋敷を下賜し、市街地には火除地を設置するとともに、耐火建築を奨励して市街地の防火化を進める。日本橋を中心にする通町の幅を6間から10間に広げた。火除地には倉庫をつくったりして、だんだんに食いつぶしていって今は残っていない。広小路という幅7間程度の広い道路を設置したが、仮設建築ではあるが屋台などの店を認めたために、見世物小屋などの立ち並ぶ繁華街になってしまい、防災上はあまり役に立たなかった。
流通を盛んにするため、関東内陸における河川網の改編を図った。
III. 享保改革の都市政策
荻生徂徠の問題意識
江戸の町人地が無計画なまま拡大し、江戸と周辺農村との境が不明確になったこと、しかも奉行など行政の対応である都市政策が大きく遅れていることを指摘している。
広域経済圏の中心・百万都市江戸
享保10年(1725)には、江戸の都市区域は69.93㎢に達した。その内訳は、武家地が66.6%、町人地が12.5%、寺社地が15.4%である。
当時の土地利用をみると、市街地の約26%を水面が占めていた。主要な交通路・物資輸送路が河川・運河であったことを考えると、江戸の都市計画はかなりしっかりとしていたことがわかる。
享保のころには下町の町屋は、北は浅草・千住あたりまで、東は亀戸あたりまで広がっていた。こうした町屋は、誰の許可もなく建てられることもあった。
都市政策
江戸と町人の拡大に対応しつつ、町人地の支配体制を防火面に重点を置いて強化
* 拡大した江戸への対応…本所見回りの設置・町政機構の再編・江戸城城付地の再編(鷹場・抱屋敷・行楽地)・町奉行所の関東農村支配(地方御用・地方改め)
* 防火面…町火消・町屋の改造・火除地・新たな役職(出火之節人足改め・火事場建具改め・風烈見回り)
* 消費経済への対応…物価問題(空米取引解禁・買米・仲間組合の結成)
* 福祉…下層民対策・小石川養生所
* 健全化…風俗の取り締まり・行楽地
明暦大火後の復興期(松平信綱期)と比較して、江戸町奉行の管轄である町人地・市街地・首都圏と江戸は拡大した。首都圏は、流通が発達したことによってより密接な関係になった江戸周辺の地を含む。また、江戸初期には軍事的役割が強かった江戸周辺地は、消費が増大した江戸を支えるという経済的な役割を期待されるようになった。
経済の発展や流通の活発化によって、江戸にはより多くの人が集まり、町人地はどんどん広がっていった。それに幕府、つまり町人地を支配する町奉行所の対応が追いつかず、それを荻生徂徠は指摘したのである。また、明暦大火後の火除地や広小路といった防火対策はあまり役に立たなくなっており、享保期の防火対策がほとんど町人地を対象にしているのはそのためであると考えられる。
火除地は、最初絶対に建築物を建てさせないようにしていたが、後に防火用の土蔵、土手蔵、あるいは公共施設といった例外を認めるようになる。また、吉宗の発案で江戸市中に沢山の馬場がつくられたが、その狙いの一つである火除地の役割は、馬場が行楽地化してしまい、果たされなくなってしまう。
これらは、火除地という空き地を有効利用しようとした商人たちの要望に、幕府が譲歩したということである。松平信綱プランの前提には、「江戸は政治都市であり、武士中心の町だ。町人は、その武士の補完機能である」という考えがあり、町人は都市問題の対象にいれていない。それが、商人の台頭などにより町人が大きく成長し、「われわれは、補完機能ではない。主体性を持った生活者だ」という主張をはじめた。大岡はその良き理解者であった。信綱プランにはなかった町人への福祉や江戸の健全化も、幕府がこうした町人を江戸の生活者として意識し始めたととらえることができる。
IV. 江戸幕府の町人に対する意識
享保改革の都市政策の思想
テキストでは、首都江戸の改造は徂徠の思想の影響を受けたものと見ることができるとあるが、徂徠の主張は、「江戸の官庁を再配置し、都市としての軍事機能・防衛機能を高める」とある。享保改革の都市政策には、そういったことはみられない。それより、江戸の町人の声に耳を傾けようとしたところから、大岡の思想が色濃く反映されていると思われる。これは、社会の変化に対して支配の根本にあるこれまでの儒学(徂徠も含めて)では、対応しきれなくなってきたことの現われかもしれない。幕府は重農主義と言われるように、その基盤は農民からの税である。四民のうち、工・商は士・農の補完機能としてしか認識されていない。しかし、江戸においては商人が力を伸ばし、また商人でも職人でもない無宿人などの四民の枠に収まらない者もでてきて、それらをひっくるめた町人を、改めて被支配者として認識することになったのだ。
寛政改革と天保改革
その後の都市政策について少し触れておくと、寛政改革では享保改革で導入された福祉の面を発展させている。小石川養生所の整備拡充や、人足寄場の創設などである。次の転機は天保改革である。水野忠邦は、幕府の威信を取り戻そうと、「江戸の町を政治都市として純化する」と公言し、「そのために、江戸の十里四方を幕府の直轄地とする」と宣言した。大岡のように民衆の理解者であった江戸町奉行遠山金四郎がいたにもかかわらず、享保・寛政と続いた福祉の面に力を入れなかったのは、江戸の機能を政治のみに縮小するためだと思われる。それはつまり、町人を武士の補完機能にもどすという時代に逆行する政策であった。
このように、享保改革以来、幕府にとって町人支配が大きな関心となった。それは、時代が下るにつれて大きな問題となったが、結局、幕府は町人を支配しきれなくなってしまう。享保改革は、都市政策において本格的な町人支配に乗り出したという点で大きな意味を持っていたと評価できる。
平成17年2月22日 YBB