二杯の‘いき’
“居候、三杯目にはそっと出し”
昔は、居候ですら二杯は当然のこととして食べた。二杯の食文化は世人の常識だったのだ。
仏飯が盛りきりの一杯、死んだ人の枕飯(まくらめし)が一杯、出棺の前に近親者が食べる出立飯(でたちのめし)も一杯、嫁入りで実家をたつときも一膳飯。
一膳飯屋を除いて、普段は一膳飯はタブーだった。とくに蕎麦は寺方蕎麦(お寺で打つ蕎麦)という言葉もあり、長寿イメージと結びついていたから、[二杯のマナー]は強かったようだ。
紀伊国屋文左衛門と張り合っていた大富豪・奈良屋茂左衛門は、通称、奈良茂。
(タイトル 新吉原稲本楼図 著者/作者 歌川芳虎画 公開者 早稲田大学図書館)
こういう話が残っている。それは……奈良茂が吉原の花魁に「もり蕎麦」(小セイロに盛った蕎麦)を、たった二つ届けさせた。
それを聞いた友人の紀伊国屋文左衛門がセセラ笑って、「どんなうまい蕎麦か知らないが、なんともシミッたれた奴だ。オレが吉原三千の美妓全部に蕎麦を届けてやる」と豪語して、吉原の五町はいうまでもなく、界隈の蕎麦屋を全部廻らせたが、全店休業。
勿論、奈良茂がその日の売り上げ分相当の代金を渡していたのだ。
その日はどんなに蕎麦が食べたくても、土地(ところ)では、奈良茂から贈られた花魁以外は一口も蕎麦を食べることは出来なかった。
紀文は「蕎麦ならもう(奈良茂)、奈良茂にはかなわん。‘一杯喰った’」とボヤいたことだろう。
[二杯の‘いき’]だった。