「残念だが絶滅難しい」 橋梁談合で日本経団連会長 (共同通信) - goo ニュース
●日本には「社会」は存在しない〈感想〉
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[経済ニュース 更新日時 : 2005年05月26日(木)21:29 (共同通信) - goo ニュース]によれば、橋梁談合で日本経団連会長から、次のような談話があった。
★「残念だが絶滅難しい」 橋梁談合で日本経団連会長
日本経団連の奥田碩会長は26日の記者会見で、橋梁(きょうりょう)談合事件について「残念に思うが、(簡単には)絶滅できないと思う」と述べた。その上で「談合がよいわけでないが、時代の変化の中で起こった。社会的な慣行(談合)がずっと日本の中で流れとしてあった。若干時間をお借りしたい」と企業の談合体質を改めるには時間を要するとの見方を示した。
記者会見に同席し、逮捕者を出した三菱重工業の西岡喬会長(経団連副会長)は「世間をお騒がせして、申し訳ない」と謝罪。強制捜査を受けた新日本製鉄の三村明夫社長(同副会長)も「利益が減っても構わない。コンプライアンス(法令順守)を徹底する」と再発防止に全力を挙げる姿勢を示した。
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●日本には「社会」は存在しない〈感想〉
信じがたいことだが、この発言には「本音」が出ている。
明治のご一新に、大慌てで近代化を図った。残念ながら、外観だけはどうやら整えたが、内装は今も余り変わっていない。
当時、福沢諭吉が「我が国には、『国民』は未だ存在しない」と言って嘆いたが、現状でもあまり変わらないように思われてならない。「個」(individual)の確立が甚だ不充分であるのに、何故、国民と言えようか?
国民が存在しないところに「社会」は存在しない。いや、逆だ。社会が存在しないから、国民が存在しないのだ。《個人は社会によって「個人」になる》というマルクスの言葉を引用するまでもないだろう。
近代国家とは、複数の社会で構成されている。極論すれば、それによって構成される社会が存在しない国家が、果たして近代国家と言いうるのだろうか?
それでは我が国には、社会は全く存在しないのだろうか? そんなことはない。維新後百数十年を経て、少しづつだが出来つつはある。上記の談話に違和感を覚えることこそ、一般民衆が「社会」を学習しつつある動かぬ証左である。しかし、それは未だ未熟すぎるし不充分だ。
「社会」を持たぬ我が国が伝統的に引き継いできたのは、「世間」だ。世間が全てである。
「世間」は、煩い替わりに面倒見がよい。「個」(individual)の確立など考えずに、世間という集団の中に没我的に埋もれている限りは、面倒が見られる。そこから排除されたりしない。
「世間」ではもたれ合いながら、自分たちの世間を享受することができる。決して自己主張してはならない。なんとなく集団の意向らしきものに盲従してさえいれば安穏だ。
国会議員でも経営者でも教育者でも、謝る時は異口同音に「『世間』をお騒がせして申し訳ない」と言う。日本人は、世間を敵に回すことを一番恐れる。
★世間に申し開きの出来ないことをすると、世間に顔向けができない ということになる。
上記の奥田発言は、「世間」に謝っているのだ。断じて「社会」に謝っているのではない。「社会」というものを少しずつだが学習してきている我々に、違和感を覚えさせる所以である。
平成17年5月30日
面白ブログが盛りだくさん「BLOG! TOWON」
●日本には「社会」は存在しない〈感想〉
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[経済ニュース 更新日時 : 2005年05月26日(木)21:29 (共同通信) - goo ニュース]によれば、橋梁談合で日本経団連会長から、次のような談話があった。
★「残念だが絶滅難しい」 橋梁談合で日本経団連会長
日本経団連の奥田碩会長は26日の記者会見で、橋梁(きょうりょう)談合事件について「残念に思うが、(簡単には)絶滅できないと思う」と述べた。その上で「談合がよいわけでないが、時代の変化の中で起こった。社会的な慣行(談合)がずっと日本の中で流れとしてあった。若干時間をお借りしたい」と企業の談合体質を改めるには時間を要するとの見方を示した。
記者会見に同席し、逮捕者を出した三菱重工業の西岡喬会長(経団連副会長)は「世間をお騒がせして、申し訳ない」と謝罪。強制捜査を受けた新日本製鉄の三村明夫社長(同副会長)も「利益が減っても構わない。コンプライアンス(法令順守)を徹底する」と再発防止に全力を挙げる姿勢を示した。
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●日本には「社会」は存在しない〈感想〉
信じがたいことだが、この発言には「本音」が出ている。
明治のご一新に、大慌てで近代化を図った。残念ながら、外観だけはどうやら整えたが、内装は今も余り変わっていない。
当時、福沢諭吉が「我が国には、『国民』は未だ存在しない」と言って嘆いたが、現状でもあまり変わらないように思われてならない。「個」(individual)の確立が甚だ不充分であるのに、何故、国民と言えようか?
国民が存在しないところに「社会」は存在しない。いや、逆だ。社会が存在しないから、国民が存在しないのだ。《個人は社会によって「個人」になる》というマルクスの言葉を引用するまでもないだろう。
近代国家とは、複数の社会で構成されている。極論すれば、それによって構成される社会が存在しない国家が、果たして近代国家と言いうるのだろうか?
それでは我が国には、社会は全く存在しないのだろうか? そんなことはない。維新後百数十年を経て、少しづつだが出来つつはある。上記の談話に違和感を覚えることこそ、一般民衆が「社会」を学習しつつある動かぬ証左である。しかし、それは未だ未熟すぎるし不充分だ。
「社会」を持たぬ我が国が伝統的に引き継いできたのは、「世間」だ。世間が全てである。
「世間」は、煩い替わりに面倒見がよい。「個」(individual)の確立など考えずに、世間という集団の中に没我的に埋もれている限りは、面倒が見られる。そこから排除されたりしない。
「世間」ではもたれ合いながら、自分たちの世間を享受することができる。決して自己主張してはならない。なんとなく集団の意向らしきものに盲従してさえいれば安穏だ。
国会議員でも経営者でも教育者でも、謝る時は異口同音に「『世間』をお騒がせして申し訳ない」と言う。日本人は、世間を敵に回すことを一番恐れる。
★世間に申し開きの出来ないことをすると、世間に顔向けができない ということになる。
上記の奥田発言は、「世間」に謝っているのだ。断じて「社会」に謝っているのではない。「社会」というものを少しずつだが学習してきている我々に、違和感を覚えさせる所以である。
平成17年5月30日
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