
長崎の鐘
写真㊤:永井隆博士が生前住んだ如古堂
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非核求める声相次ぐ 長崎の地球市民集会(共同通信) - goo ニュース
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♪こよなく晴れた青空に~ィ・・良く知られた… 『長崎の鐘』だ。
酔っぱらった挙げ句、カラオケに行くと、音痴の癖に無性に唄いたくなる。なぜだか分からない。
東京裁判(極東国際軍事裁判)で、A級戦犯の裁判も終わりに近づいた1948(昭和23)年、三冊の本がベストセラー入りした。太宰治の「斜陽」、ドストエフスキーの「罪と罰」の翻訳、そして三冊目が永井隆の「この子を残して」である。
とくに永井の作品は、占領軍が認可した原爆投下に関連する書籍の最初期のものだった。放射線病で死の床にあった長崎の若い科学者・永井は、核による破壊とその後の救いに関する深い考察をつづって、日本中を魅了したと聞く。続いて、彼の次の作品「長崎の鐘」もベストセラーになった。
皮肉なことに、彼は放射線学を専門とする医者であり、長崎に原爆が投下される以前から被爆していた。キリスト教徒でもある彼は、「長崎は、第二次世界大戦中の罪を償うため、生け贄になった」と考えた。それは宗教的神秘論に近いものだったから、多くの人びとにとって受け入れがたいものだった。
(写真:「如己堂」…己の如く人を愛したひと・永井博士が、家族とともに亡くなるまで、ここで過ごした。わずか二畳くらいの広さしかない)
にもかかわらず、この本が世に出たときは、原爆体験からそうとう時間がたっていたこと、東京裁判で勝者による敗者への判決が出ようとしていたことなどにより、日本人の第二次世界大戦に関する犠牲者意識(加害者意識ではない・・念のため)の内容に影響を与えたと見られる。
センチメンタルな軍歌の作曲家として最も有名な古関祐而が、「長崎の鐘」を作曲したという事実は、意味深だと思う。どうだろうか。
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06.10.24
平和記念公園・原爆資料館・如己堂を、みにいきました。たたみ二条というちいいさな家で暮らしていたのでびっくりしました\(◎o◎)/!