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卒都婆小町

2020-04-19 16:32:56 | 詞章
『卒都婆小町』 Bingにて 卒都婆小町 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【僧、従僧の登場】
ワキ、ワキヅレ:山は浅きに隠れ家(が)の、
  山は浅きに隠れ家の、
  深きや心なるらん
ワキ「これは高野山より出でたる
  僧にて候、
  われこのたび都に
  上(のぼ)らばやと存じ候
ワキ:それ前仏(ぜんぶつ)はすでに去り、
  後仏(ごぶつ)はいまだ世に出でず
ワキ、ワキヅレ:夢の中間(ちうげん)に
  生まれ来て、
  なにを現(うつつ)と思ふべき、
  たまたま受けがたき
  人身(にんじん)を受け、
  遇ひ難き如来(にょらい)の
  仏教に遇ひたてまつること、
  これぞ悟りの種(たね)なると
ワキ、ワキヅレ:思ふ心も
  一重(ひとえ)なる、
  墨の衣に身をなして
ワキ、ワキヅレ:生まれぬ前(さき)の
  身を知れば、
  生まれぬ前の身を知れば、
  憐れむべき親もなし、
  親のなければわがために、
  心を留むる子もなし、
  千里(ちさと)を行くも遠からず、
  野に臥し山に泊まる身の、
  これぞまことの住みかなる、
  これぞまことの住みかなる
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや津の国
  阿倍野の松原とかや申し候、
  しばらくこの所に休まばやと思ひ候

【老女(小町)の登場】
シテ:身は浮き草を誘ふ水、
  身は浮き草を誘ふ水、
  なきこそ悲しかりけれ
シテ:哀れやげにいにしへは、
  驕慢(きょうまん)最も甚だしう、
  翡翠(ひすい)の簪(かんざし)は、
  婀娜(あだ)と嫋(たお)やかにして、
  楊柳(ようりう)の
  春の風に靡(なび)くがごとし、
  また鶯舌(おうぜつ)の
  囀(さえず)りは、
  露を含める糸萩(いとはぎ)の、
  託言(かごと)ばかりに散りそむる、
  花よりもなほ珍しや、
  いまは民間(みんかん)
  賤(しず)の女(め)にさへ
  穢(きたな)まれ、
  諸人(しょにん)に恥をさらし、
  嬉しからぬ月日身に積もって、
  百歳(ももとせ)の
  姥(うば)となりて候
シテ:都は人目(ひとめ)つつましや、
  もしもそれとか夕まぐれ
シテ:月もろともに出でて行く、
  月もろともに出でて行く、
  雲居百敷(ももしき)や、
  大内山の山守(やまもり)も、
  かかる憂き身はよも咎(とが)めじ、
  木隠れてよしなや、
  鳥羽の恋塚(こいづか)秋の山、
  月の桂の川瀬舟、
  漕ぎ行く人は誰(たれ)やらん、
  漕ぎ行く人は誰やらん
シテ「あまりに苦しう候ふほどに、
  これなる朽木(くちき)に
  腰をかけて休まばやと思ひ候

【老女、僧の応対】
ワキ「のうはや日の暮れて候、
  道を急がうずるにて候、
  や、これなる乞食(こつじき)の
  腰かけたるは、
  まさしく卒都婆(そとば)にて候、
  教化(きょうけ)して
  退(の)けうずるにて候
ワキ「いかにこれなる
  乞丐人(こつがいにん)、
  おことの腰かけたるは、
  かたじけなくも
  仏体(ぶったい)色相(しきしょう)の
  卒都婆(そとば)にてはなきか、
  そこ立ち退(の)きて
  余(よ)のところに休み候へ
シテ「仏体色相のかたじけなきとは
  のたまへども、
  これほどに文字も
  :見えず
  「刻める形(かたち)もなし、
  ただ朽木とこそ見えたれ
ワキ:たとひ深山(みやま)の
  朽木なりとも、
  花咲きし木は隠れなし
  「いはんや仏体に刻める木、
  などかしるしのなかるべき
シテ:われも賤(いや)しき
  埋もれ木なれども、
  心の花のまだあれば、
  手向けになどかならざらん
  「さて仏体たるべき謂はれはいかに
ワキヅレ:それ卒都婆(そとば)は
  金剛(こんごう)薩埵(さった)、
  仮に出仮(しゅっけ)して
  三摩耶形(さまやぎょう)を行ひたまふ
シテ「行ひなせる形はいかに
ワキ:地水火風空(じすいかふうくう)
シテ:五大(ごたい)五輪(ごりん)は
  人の体(たい)、
  なにしに隔てあるべきぞ
ワキヅレ:形はそれに違(たが)はずとも、
  心功徳(くどく)は変るべし
シテ「さて卒都婆(そとわ)の功徳は
  :いかに
ワキ:一見卒都婆(そとば)
  永離(ようり)三悪道(さんなくどう)
シテ:一念発起(ほっき)
  菩提心(ぼだいしん)、
  それもいかでか劣るべき
ワキヅレ:菩提心あらばなど
  憂き世をば厭(いと)はぬぞ
シテ:姿が世をも厭はばこそ、
  心こそ厭へ
ワキ:心なき身なればこそ、
  仏体をば知らざるらめ
シテ「仏体と知ればこそ
  卒都婆(そとわ)には近づきたれ
ワキヅレ:さらばなど礼(らい)をばなさで
  敷きたるぞ
シテ:とても臥したる
  この卒都婆(そとわ)、
  われも休むは苦しいか
ワキ:それは順縁(じゅんえん)に
  外れたり
シテ「逆縁(ぎゃくえん)なりと
  浮かむべし
ワキヅレ:提婆(だいば)が悪も
シテ「観音の慈悲
ワキ:槃特(はんどく)が愚痴(ぐち)も
シテ「文殊(もんじゅ)の
  :智恵
ワキヅレ:悪と言ふも
シテ:善なり
ワキ:煩悩(ぼんのう)と言ふも
シテ:菩提なり
ワキヅレ:菩提もと
シテ:植木(うえき)にあらず
ワキ:明鏡(みょうきょう)また
シテ:台(うてな)になし
地:げに本来
  一物(いちもつ)なき時は、
  仏も衆生(しゅじょう)も隔てなし
地:もとより愚痴の凡夫(ぼんぷ)を、
  救はんための方便の、
  深き誓ひの願(がん)なれば、
  逆縁なりと浮かむべしと、
  ねんごろに申せば、
  まことに悟れるなりとて、
  僧は頭(こうべ)を地につけて、
  三度礼(らい)したまへば
シテ:われはこのとき力を得、
  なほ戯れの歌を詠む
シテ:極楽の、
  内(うち)ならばこそ悪(あ)しからめ、
  外(そと)はなにかは、
  苦しかるべき
地:むつかしの僧の教化(きょうけ)や、
  むつかしの僧の教化や

【老女、僧の応対(小町の名乗り)】
ワキ「さておことはいかなる人ぞ
  名をおん名乗り候へ
シテ「恥づかしながら
  名を名乗り候ふべし
シテ:これは出羽(でわ)の郡司(ぐんじ)、
  小野の良実(よしざね)が女(むすめ)、
  小野の小町がなれる果てにて
  さむらふなり
ワキ、ワキヅレ:いたはしやな小町は、
  さもいにしへは優女にて、
  花の容(かたち)輝き、
  桂の黛(まゆずみ)青うして、
  白粉(はくふん)を絶やさず、
  羅綾(らりょう)の衣多うして、
  桂殿(けいでん)のあひだに
  余りしぞかし
シテ:歌を詠み詩を作り
地:酔(え)ひを勧むる盃は、
  漢月(かんげつ)袖に静かなり
地:まこと優なるありさまの、
  いっそのほどに引きかへて
地:頭(こうべ)には、
  霜蓬(そうほう)を戴き、
  嬋娟(せんげん)たりし
  両鬢(りょうびん)も、
  膚(はだえ)にかしけて
  墨(すみ)乱れ、
  宛転(えんねん)たりし
  双蛾(そうが)も、
  遠山(えんざん)の色を失ふ
地:百歳(ももとせ)に、
  一歳(ひととせ)足らぬ
  九十九髪(つくもがみ)、
  かかる思ひは有明の、
  影恥づかしきわが身かな
地:頸(くび)に懸けたる袋には、
  いかなる物を入れたるぞ
シテ:今日も命は知らねども、
  明日の飢ゑを助けんと、
  粟豆(ぞくとう)の乾飯(かれいい)を、
  袋に入れて持ちたるよ
地:後ろに負へる袋には
シテ:垢膩(くに)の垢(あか)づける衣あり
地:臂(ひじ)に懸けたる簣(あじか)には
シテ:白黒(はっこく)の慈姑(くわい)あり
地:破れ簑(みの)
シテ:破れ笠
地:面(おもて)ばかりも隠さねば
シテ:まして霜雪(しもゆき)雨露(あめつゆ)
地:涙をだにも抑ふべき、
  袂も袖もあらばこそ、
  今は路頭(ろとう)にさそらひ、
  往き来の人に物を乞ふ、
  乞ひ得ぬ時は悪心(あくしん)、
  また狂乱(きょうらん)の心つきて、
  声変わりけしからず

【老女の憑依】
シテ:のう物賜(ものた)べのう
  「お僧のう
ワキ「なにごとぞ
シテ「小町がもとへ通はうよのう
ワキ「おことこそ小町よ、
  なにとて現(うつつ)なきことをば申すぞ
シテ「いや小町といふ人は、
  あまりに色が深うて、
  あなたの玉章(たまずさ)
  こなたの文(ふみ)
  :かき暮れて降る五月雨の
  「虚言(そらごと)なりとも
  一度の返事ものうて
  :今百歳(ももとせ)になるが報うて、
  あら人恋しや
  あら人恋しや
ワキ「人恋しいとは、
  さておことには
  いかなる者の憑(つ)き添ひてあるぞ
シテ「小町に心を
  懸(か)けし人は多きなかにも、
  ことに思ひ深草の、
  四位(しい)の少将の
地:恨みの数の
  廻(めぐ)り来て、
  車の榻(しじ)に通はん、
  日は何時(なんどき)ぞ夕暮れ、
  月こそ友よ通ひ路の、
  関守はありとも、
  留まるまじや出で立たん

《物着》

【老女の立働き】
シテ:浄衣(じょうえ)の袴(はかま)
  かいとって
地:浄衣の袴かいとって、
  立烏帽子(たてえぼし)を
  風折(かざお)り、
  狩衣(かりぎぬ)の袖を
  うち被(かず)いて、
  人目忍ぶの通ひ路の、
  月にも行く闇にも行く、
  雨の夜も風の夜も、
  木の葉の時雨(しぐれ)雪深し
シテ:軒(のき)の玉水(たまみず)
  とくとくと
地:行きては帰り、
  帰りては行き、
  一夜(ひとよ)二夜(ふたよ)
  三夜(みよ)四夜(よよ)、
  七夜(ななよ)八夜(やよ)
  九夜(ここのよ)、
  豊(とよ)の明(あかり)の
  節会(せちえ)にも、
  逢はでぞ通ふ鶏(にわとり)の、
  時をも変へず暁の、
  榻(しじ)の端書(はしが)き、
  百夜(ももよ)までと通ひ往(い)て、
  九十九夜(くじうくよ)になりたり
シテ:あら苦し目まひや
地:胸苦しやと悲しみて、
  一夜(ひとよ)を待たで
  死したりし、
  深草の少将の、
  その怨念が憑き添ひて、
  かやうに物には、
  狂はするぞや

【終曲】
地:これにつけても
  後(のち)の世を、
  願ふぞまことなりける、
  砂(いさご)を塔(とう)と重ねて、
  黄金(おうごん)の
  膚(はだえ)こまやかに、
  花を仏に手向(たむ)けつつ、
  悟りの道に入らうよ、
  悟りの道に入らうよ

※出典『能を読むⅠ』(本書は観世流を採用)

竹生島

2020-03-27 17:45:47 | 詞章
『竹生島』 Bingにて 竹生島 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【朝臣、従臣の登場】
ワキ、ワキヅレ:竹に生(ンま)るる
  鶯(うぐひす)の、
  竹に生(ンま)るる鶯の、
  竹生島(ちくぶしま)詣で急がん
ワキ「そもそもこれは延喜(えんぎ)の
  聖主(せいじゅ)に仕へ奉る臣下なり、
  さても江州(ごうしゅう)竹生島の
  明神(みょうじん)は、
  霊神(れいしん)にて御座候ふ間、
  君におん暇(いとま)を申し、
  ただいま竹生島に
  参詣(さんけい)仕り候
ワキ、ワキヅレ:四の宮(しのみや)や、
  河原の宮居(みやい)末早き、
  河原の宮居末早き、
  名も走り井の水の月、
  曇らぬ御代(みよ)に
  逢坂(おうさか)の、
  関の宮居を伏し拝み、
  山越(やまごえ)近き志賀の里、
  鳰(にお)の浦にも着きにけり、
  鳰の浦にも着きにけり
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  鳰の浦に着きて候、
  あれを見れば釣舟(つりぶね)の
  来(きた)り候、
  しばらく相待ち、
  便船(びんせん)を乞(こ)はばやと
  存じ候
ワキヅレ「しかるべう候

【漁翁、若い女の登場】
シテ:面白や頃(ころ)は
  弥生の半(なか)ばなれば、
  波もうららに湖(うみ)の面(おも)
ツレ:霞(かす)みわたれる朝ぼらけ
シテ:のどかに通ふ舟の道
ツレ:憂(う)き業(わざ)となき、心かな
シテ:これはこの浦里(うらざと)に
  住み馴(な)れて、
  明け暮れ運ぶ鱗(うろくづ)の
ツレ:数を尽くして身一つを、
  助けやすると侘人(わびびと)の、
  隙(ひま)も波間に明け暮れぬ、
  世を渡るこそ物憂(ものう)けれ
ツレ:よしよし同じ業(わざ)ながら、
  世に越えけりなこの湖(うみ)の
ツレ:名所(などころ)多き
  数々(かずかず)に、
  名所多き数々に、
  浦山(うらやま)かけて眺むれば、
  志賀の都花園(はなぞの)、
  昔ながらの山桜、
  真野(まの)の入江(いりえ)の
  舟呼(ふなよ)ばひ、
  いざさし寄せて言問(ことと)はん、
  いざさし寄せて言問はん

【朝臣、漁翁の応対】
ワキ「いかにこれなる舟に
  便船(びんせん)申さうなう
シテ「これは渡りの舟と
  おぼしめされ候ふか、
  御覧候へ釣舟にて候ふよ
ワキ「こなたも釣舟と見て候へばこそ
  便船とは申せ、
  これは竹生島に初めて
  参詣(さんけい)の者なり
  :誓ひの舟に乗るべきなり
シテ「げにこの所は霊地(れいち)にて、
  歩みを運び給(たま)ふ人を、
  とかく申さば
  おん心(こころ)にも違(たが)ひ、
  または神慮もはかりがたし
ツレ:さらばお舟を参らせん
ワキ:うれしやさては誓ひの舟、
  法(のり)の力と覚えたり
シテ:今日(けふ)はことさらのどかにて、
  心にかかる風もなし
地:名こそささ波や、
  志賀(しが)の浦にお立ちあるは、
  都人(みやこびと)かいたはしや、
  お舟に召されて、
  浦々を眺(なが)め給へや
地:所は湖(うみ)の上、
  所は湖の上、
  国は近江(おうみ)の江(え)に近き、
  山々の春なれや、
  花はさながら白雪(しらゆき)の、
  降るか残るか時知らぬ、
  山は都の富士なれや、
  なほ冴(さ)えかへる春の日に、
  比良(ひら)の嶺(ね)おろし
  吹くとても、
  沖漕(こ)ぐ舟はよも尽きじ、
  旅のならひの思はずも、
  雲居のよそに見し人も、
  同じ舟に馴(な)れ衣(ごろも)、
  浦を隔てて行くほどに、
  竹生島も見えたりや
シテ:緑樹(りょくじゅ)影(かげ)沈んで
地:魚(うを)木にのぼる
  気色(けしき)あり、
  月海上(かいしょう)に
  浮(うか)んでは、
  兎(うさぎ)も波を走るか、
  面白の島の気色(けしき)や

【漁翁と女の中入】
シテ「舟が着いて候、
  おん上がり候へ、
  この尉(じょう)がおん道しるべ
  申さうずるにて候、
  これこそ弁才天にて候へ、
  よくよく御祈念候へ
ワキ「承り及びたるよりも
  いやまさりてありがたう候、
  ふしぎやなこの所は、
  女人(にょにん)結界(けっかい)とこそ
  承りて候ふに、
  あれなる女人は何(なに)とて
  参られて候ふぞ
シテ「それは知らぬ人の
  申し事(ごと)にて候、
  かたじけなくも
  九生(きゅうしょう)如来(にょらい)の
  御再誕なれば、
  ことに女人こそ参るべけれ
ツレ:なうそれまでもなきものを
地:弁才天は女体(にょたい)にて、
  弁才天は女体にて、
  その神徳もあらたなる、
  天女(てんにょ)と現じおはしませば、
  女人とて隔てなし、
  ただ知らぬ人の言葉なり
地:かかる悲願を起して、
  正覚(しょうがく)年(とし)久し、
  獅子(しし)通王(つうおう)の
  いにしへより、
  利生(りしょう)さらに怠らず
シテ:げにげにかほど疑ひも
地:荒磯島(あらいそじま)の
  松蔭(まつかげ)を、
  たよりに寄する
  海人(あま)小舟(をぶね)、
  われは人間にあらずとて、
  社壇(しゃだん)の扉を押し開き、
  御殿(ごてん)に入(い)らせ
  給ひければ、
  翁も水中(すいちゅう)に、
  入(い)るかと見しが
  白波(しらなみ)の、
  立ち帰りわれはこの湖(うみ)の、
  主(あるじ)ぞと言ひ捨てて、
  また波に入らせ給ひけり

(間の段)【社人、朝臣の応対】
アイ「かやうに候ふ者は、
  江州(ごうしゅう)竹生島の
  天女(てんにょ)に仕へ申す者にて候、
  さるほどに国々に
  霊験(れいげん)あらたなる天女
  あまた御座候、
  なかにも隠れなきは、
  安芸(あき)の厳島(いつくしま)、
  天(てん)の川(かわ)、
  箕面(みのお)江の島、
  この竹生島、
  いづれも隠れなきとは申せども、
  とりわき当島(とうしま)の
  天女と申すは、
  隠れもなき霊験あらたなる
  御事にて候ふ間、
  国々(くにぐに)在々(ざいざい)
  所々(しょしょ)より
  信仰(しんがう)いたし、
  参り下向(げこう)の人々は
  おびただしき御事にて候、
  それにつき、
  当今(とうぎん)に仕へ
  御申しある臣下殿、
  今日(こんにった)は当社へ
  御参詣(さんけい)にて候ふ間、
  われらもまかり出(い)で、
  おん礼申さばやと存ずる、
  いかにおん礼申し候、
  これは当島(とうしま)の天女に
  仕へ申す者にて候ふが、
  ただいまの御参詣めでたう候、
  さて当社へ初めて
  御参詣のおん方へは、
  御宝物(みたからもの)を拝ませ
  申し候ふが、
  さやうのおん望みはござなく候ふか
ワキ「げにげに承り及びたる
  御(み)宝物にて候、
  拝ませて賜り候へ
アイ「畏(かしこま)って候、
  やれやれ一段の御機嫌に申し上げた、
  急いで御(み)宝物を
  拝ませ申さばやと存ずる、
  これは御蔵(みくら)の鍵にて候、
  これは天女の
  朝夕(あさゆう)看経(かんきん)なさるる
  おん数珠(じゅず)にて候、
  ちといただかせられい、
  方々(かたがた)もいただかせられい、
  さてまたこれは
  二股(ふたまた)の竹と申して、
  当島一(いち)の御(み)宝物にて候、
  よくよくおん拝み候へ、
  まづ御(み)宝物はこれまでにて候、
  さて当島の神秘(じんぴ)において、
  岩飛(いわとび)と申す事の候ふが、
  これを御目にかけ申さうずるか、
  ただし何とござあらうずるぞ
ワキ「さあらば岩飛(いわとび)飛んで
  見せられ候へ
アイ「畏(かしこま)って候
  :いでいで岩飛始めんとて、
  いでいで岩飛始めんとて、
  巌(いわお)の上に走り上(あが)りて、
  東を見れば
  日輪(にちりん)月輪(がちりん)
  照りかかやきて、
  西を見れば入日(いりひ)を招き、
  あぶなさうなる巌の上より、
  あぶなさうなる巌の上より、
  水底(みなそこ)にずんぶと入りにけり
  「ハハア、クッサメクッサメ

【弁才天の舞】
地:御殿しきりに鳴動(めいどう)して、
  日月(じつげつ)光りかかやきて、
  山の端(は)出づるごとくにて、
  あらはれ給(たま)ふぞかたじきなき
ツレ:そもそもこれは、
  この島に住んで
  衆生(しゅじょう)を守る、
  弁才天とはわが事なり
地:その時虚空(こくう)に、
  音楽聞え、
  その時虚空に、
  音楽聞え、
  花降りくだる、
  春の夜の、
  月にかかやく、
  乙女(おとめ)の袂(たもと)、
  返(かえ)す返(がえ)すも、面白や

【龍神の舞】
地:夜遊(やゆう)の舞楽(ぶがく)も、
  時過ぎて、
  夜遊の舞楽も、
  時過ぎて、
  月澄みわたる湖面(うみづら)に、
  波風しきりに鳴動して、
  下界の龍神あらはれたり
地:龍神湖上(こしょう)に出現して、
  龍神湖上に出現して、
  光もかかやく、
  金銀(きんぎん)珠玉(しゅぎょく)を、
  かの稀人(まれびと)に、
  捧(ささ)ぐる気色(けしき)、
  ありがたかりける、
  奇特(きどく)かな

【終曲】
シテ:もとより衆生、
  済度(さいど)の誓ひ
地:もとより衆生、
  済度の誓ひ、
  さまざまなれば、
  あるいは天女の、
  形を現(げん)じ、
  有縁(うえん)の衆生の、
  請願を叶(かな)へ、
  または下界の龍神となって、
  国土を鎮(しづ)め、
  誓ひをあらはし、
  天女は宮中(きゅうちゅう)に、
  入(い)らせ給へば、
  龍神はすなはち、
  湖水に飛行(ひぎょう)して、
  波を蹴立(けた)て、
  水をかへして、
  天地(てんち)にむらがる、
  大蛇(だいじゃ)の形、
  天地にむらがる、
  大蛇の形は、
  龍宮(りゅうぐう)に飛んでぞ、
  入りにける

※出典『完訳日本の古典46 謡曲集一 三道』(底本は観世流『寛永卯月本』)
※他の演目の分と、整合を保つため、一部書き変えています。

屋島

2020-03-27 10:44:47 | 詞章
『屋島』 Bingにて 屋島 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【僧、従僧の登場】
ワキ、ワキヅレ:月も南の
  海原(うなばら)や、
  月も南の海原や、
  屋島の浦を尋ねん
ワキ「これは都方(みやこがた)より
  出でたる僧にて候、
  われいまだ四国を見ず候ふほどに、
  このたび思ひ立ち西国(さいこく)
  行脚(あんぎゃ)と志(こころざ)し候
ワキ、ワキヅレ:春霞、
  浮き立つ波の沖つ舟(ぶね)、
  浮き立つ波の沖つ舟、
  入り日の雲も影添ひて、
  そなたの空と行くほどに、
  はるばるなりし舟路経て、
  屋島の浦に着きにけり、
  屋島の浦に着きにけり
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや讃岐(さぬき)の国
  屋島の浦に着きて候、
  日の暮れて候へば、
  これなる塩屋に立ち寄り、
  一夜(いちや)を明かさばやと思ひ候
ワキヅレ「しかるべう候

【漁翁、漁夫の登場】
シテ:面白や月 海上(かいしょう)に
  浮かんでは、
  波濤(はとう)夜火(やか)に似たり
ツレ:漁翁(ぎょおう)夜(よる)
  西岸(せいがん)に沿うて宿(しゅく)す
シテ、ツレ:暁(あかつき)
  湘水(しょうすい)を汲んで
  楚竹(そちく)を焼(た)くも、
  いまに知られて芦火(あしび)の影、
  ほの見えそむるものすごさよ
シテ:月の出(で)潮(じお)の沖つ波
ツレ:霞の小舟(おぶね)焦がれ来て
シテ:海士(あま)の呼び声(こえ)
シテ、ツレ:里近し
シテ:一葉(いちよう)万里(ばんり)の
  船の道、
  ただ一帆(いっぱん)の風にまかす
ツレ:夕べの空の雲の波
シテ、ツレ:月の行方に立ち消えて、
  霞に浮かむ松原の、
  影は緑に映ろひて、
  海岸そことも不知火(しらぬい)の、
  筑紫の海にや続くらん
シテ、ツレ:ここは屋島の浦伝(づた)ひ、
  海士の家居(いえい)も数々に
シテ、ツレ:釣の暇(いとま)も波の上、
  釣の暇も波の上、
  霞み渡りて沖行くや、
  海士の小舟のほのぼのと、
  見えて残る夕暮れ、
  浦風までものどかなる、
  春や心を誘ふらん、
  春や心を誘ふらん
シテ「まづまづ塩屋に帰り
  休まうずるにて候

【漁翁、僧の応対】
ワキ「塩屋の主(あるじ)の帰りて候、
  立ち越え宿(やど)を借らばやと思ひ候、
  いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候
ツレ「誰(たれ)にて渡り候ふぞ
ワキ「諸国一見(いっけん)の僧にて候、
  一夜(いちや)の宿をおん貸し候へ
ツレ「しばらくおん待ち候へ、
  主(あるじ)にそのよし申し候ふべし、
  いかに申し候、
  諸国一見のお僧の、
  一夜のお宿を仰せ候
シテ「やすきほどのおん事なれども、
  あまりに見苦しく候ふほどに、
  叶ふまじきよし申し候へ
ツレ「お宿のことを申して候へば、
  あまりに見苦しく候ふほどに、
  叶ふまじきよし仰せ候
ワキ「いやいや見苦しきは苦しからず候、
  ことにこれは
  都方(みやこがた)の者にて、
  この浦はじめて一見の事にて候ふが、
  日の暮れて候へば、
  ひらに一夜と重ねておん申し候へ
ツレ「心得申し候、
  ただいまのよし申して候へば、
  旅人は都の人にておん入(に)り候が、
  日の暮れて候へば、
  ひらに一夜と重ねて仰せ候
シテ「なに旅人は都の人と申すか
ツレ「さん候(ぞうろう)
シテ「げにいたはしきおんことかな、
  さらばお宿を貸し申さん
ツレ:もとより住家(すみか)も芦の屋の
シテ:ただ草枕と思(おぼ)し召せ
ツレ:しかも今宵は照りもせず
シテ:曇りも果てぬ春の夜の
シテ、ツレ:朧月夜(おぼろづきよ)に、
  敷くものもなき、
  海士の苫(とま)
地:屋島に立てる高松の、
  苔(こけ)の筵(むしろ)はいたはしや
地:さて慰みは浦の名の、
  さて慰みは浦の名の、
  群れ居る鶴(たず)をご覧ぜよ、
  などか雲居(くもい)に帰らざらん、
  旅人の故郷(ふるさと)も、
  都と聞けば懐かしや、
  われらももとはとて、
  やがて涙にむせびけり、
  やがて涙にむせびけり

【漁翁の物語】
ワキ「いかに申し候、
  何(なに)とやらん似合はぬ
  所望(しょもう)にて候へども、
  いにしへこの所は
  源平の合戦(かせん)の巷(ちまた)と
  承はりて候、
  夜もすがら語っておん聞かせ候へ
シテ「やすきあひだのこと、
  語って聞かせ申し候ふべし
シテ「いでその頃は元暦(げんりゃく)元年
  三月(がち)十八日のことなりしに、
  平家は海の面(おもて)
  一町ばかりに船を浮かめ、
  源氏はこの汀(みぎわ)に
  うち出でたまふ、
  大将軍(たいしょうぐん)の
  おん出立(にでたち)には、
  赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、
  紫(むらさき)裾濃(すそご)の
  おん着背長(きせなが)、
  鐙(あぶみ)踏ん張り
  鞍笠(くらかさ)につっ立ち上がり、
  一院(いちいん)のおん使、
  源氏の大将検非違使(けんびいし)、
  五位(ごい)の尉(じょう)、
  源の義経と
  :名乗りたまひしおん骨柄(こつがら)、
  あっぱれ大将やと見えし、
  いまのやうに思ひ出でられて候
ツレ:その時平家の方(かた)よりも、
  言葉(ことば)戦(だたか)ひこと終はり、
  兵船(ひょうせん)一艘漕ぎ寄せて、
  波打際に下り立って
  「陸(くが)の敵(かたき)を待ちかけしに
シテ「源氏の方にも続く
  兵(つわもの)五十騎ばかり、
  中にも三保(みお)の谷(や)の四郎と名乗って、
  まっさきかけて見えしところに
ツレ「平家の方にも
  悪七(あくしち)兵衛(びょうえ)
  景清(かげきよ)と名乗り、
  三保の谷をめがけ戦ひしに
シテ「かの三保の谷はその時に、
  太刀打ち折って力なく、
  少し汀に引き退(しりぞ)きしに
ツレ:景清追っかけ三保の谷が
シテ「着たる兜の錏(しころ)をつかんで
ツレ:後ろへ引けば三保の谷も
シテ:身を逃れんと前へ引く
ツレ:たがひにえいやと
シテ:引く力に
地:鉢付(はちつけ)の板より引きちぎって、
  左右(そう)へくわっとぞ退(の)きにける、
  これをご覧じて判官(ほうがん)、
  お馬を汀にうち寄せたまへば、
  佐藤継信(つぎのぶ)、
  能登殿の矢先にかかって、
  馬より下(しも)にどうと落つれば、
  船には菊王も討たれければ、
  ともにあはれと思(おぼ)しけるか、
  船は沖へ陸(くが)は陣に、
  相引(あいび)きに引く潮の、
  あとは鬨(とき)の声絶えて、
  磯の波松風ばかりの、
  音淋(さみ)しくぞなりにける

【漁翁の中入】
地:不思議なりとよ海士人(あまびと)の、
  あまりくはしき物語、
  その名を名乗りたまへや
シテ:わが名を何と夕波の、
  引くや夜潮(よじお)も朝倉や、
  木の丸殿(きのまるどの)にあらばこそ、
  名乗りをしても行かまし
地:げにや言葉を聞くからに、
  その名ゆかしき老人(おいびと)の
シテ:昔を語る小忌衣(おみごろも)
地:頃しもいまは
シテ:春の夜の
地:潮(うしお)の落つる暁ならば、
  修羅(しゅら)の時になるべし、
  その時は、
  わが名や名乗らん、
  たとひ名乗らずとも名乗るとも、
  よし常の憂き世の、
  夢ばし覚ましたまふなよ、
  夢ばし覚ましたまふなよ

(間の段)【浦人の物語】
(塩屋の本当の主人、浦人がやってきて、屋島の合戦、景清と三保の谷の一騎打ちなど語る)

【僧の待受】
ワキ「不思議やいまの老人の、
  その名を尋ねし答へにも、
  よし常の世の夢心、
  覚まさで待てと聞こえつる
ワキ、ワキヅレ:声も更け行く浦風の、
  声も更け行く浦風の、
  松が根枕そばだてて、
  思ひを延ぶる苔筵(こけむしろ)、
  重ねて夢を待ち居たり、
  重ねて夢を待ち居たり

【義経の登場】
シテ:落花(らっか)枝に帰らず、
  破鏡(はきょう)ふたたび照らさず、
  しかれどもなほ妄執の瞋恚(しんに)とて、
  鬼神(きしん)魂魄(こんぱく)の
  境界(きょうがい)に帰り、
  われとこの身を苦しめて、
  修羅の巷(ちまた)に寄り来る波の、
  浅からざりし業因(ごういん)かな

【義経、僧の応対】
ワキ:不思議やな、
  はや暁にもなるやらんと、
  思ふ寝覚の枕より、
  甲冑(かっちう)を帯し見えたまふは、
  もし判官(ほうがん)にてましますか
シテ「われ義経が幽霊なるが、
  瞋恚に引かるる妄執にて、
  なほ西海(さいかい)の波に漂ひ
  :生死(しょうじ)の海に
  沈淪(ちんりん)せり
ワキ:愚かやな、
  心からこそ生死(いきしに)の、
  海とも見ゆれ真如(しんにょ)の月の
シテ:春の夜なれど曇りなき、
  心も澄める今宵の空
ワキ:昔をいまに思ひ出づる
シテ:船と陸(くが)との合戦(かせん)の道
ワキ:所からとて
シテ:忘れえぬ
地:武士(もののふ)の、
  屋島に射るや槻弓(つきゆみ)の、
  屋島に射るや槻弓の、
  元の身ながらまたここに、
  弓箭(きうせん)の道は迷はぬに、
  迷ひけるぞや、
  生死(しょうじ)の、
  海山(うみやま)を離れやらで、
  帰る屋島の恨めしや、
  とにかくに執心の、
  残りの海の深き夜に、
  夢物語申すなり、
  夢物語申すなり

【義経の物語】
地:忘れぬものを
  閻浮(えんぶ)の故郷(こきょう)に、
  去って久しき年並(としなみ)の、
  夜(よる)の夢路に通ひ来て、
  修羅道(しゅらどう)のありさま
  現はすなり
シテ:思ひぞ出づる昔の春、
  月も今宵に冴えかへり
地:元の渚はここなれや、
  源平たがひに矢先(やさき)を揃へ、
  船を組み駒を並べて、
  うち入れうち入れ足並に、
  鑣(くつばみ)を浸(ひた)して攻め戦ふ
シテ「その時何(なに)とかしたりけん、
  判官(ほうがん)弓を取り落し、
  波に揺られて流れしに
地:そのをりしもは引く潮にて、
  はるかに遠く流れ行くを
シテ「敵(かたき)に弓を取られじと、
  駒を波間に泳がせて、
  敵船(てきせん)近くなりしほどに
地:敵(かたき)はこれを見しよりも、
  船を寄せ熊手(くまで)に懸けて、
  すでに危(あよお)うく見えたまひしに
シテ「されども熊手を切り払ひ、
  つひに弓を取り返し、
  元の渚にうち上がれば
地:その時兼房申すやう、
  口惜(くちお)しのおん振舞ひやな、
  渡辺にて景時が申ししも
  これにてこそ候へ、
  たとひ千金を延(の)べたるおん弓なりとも、
  おん命には代へたまふべきかと、
  涙を流し申しければ、
  判官これを聞こし召し、
  いやとよ弓を惜しむにあらず
地:義経源平に、
  弓矢を取って私(わたくし)なし、
  しかれども、
  佳名(かめい)はいまだ半ばならず、
  さればこの弓を
  敵(かたき)に取られ義経は、
  小兵(こひょう)なりと言はれんは、
  無念の次第なるべし、
  よしそれゆゑに討たれんは、
  力なし義経が、
  運の極めと思ふべし、
  さらずは敵(かたき)に渡さじとて、
  波に引かるる弓取りの、
  名は末代にあらずやと、
  語りたまへば兼房、
  さてそのほかの人までも、
  みな感涙を流しけり
シテ:智者は惑(まど)はず
地:勇者は懼(おそ)れずの、
  弥猛心(やたけごころ)の梓弓(あすさゆみ)、
  敵(かたき)には取り伝へじと、
  惜しむは名のため、
  惜しまぬは一命なれば、
  身を捨ててこそ後記(こうき)にも、
  佳名(かめい)を留(とど)むべき、
  弓筆(ゆみふで)の跡なるべけれ

【終曲】
シテ:また修羅道の鬨(とき)の声
地:矢叫びの音震動せり

《カケリ》

シテ「今日の修羅の敵(かたき)は誰(た)そ、
  なに能登の守教経(のりつね)とや、
  あらものものしや手並は知りぬ
  :思ひぞ出づる壇の浦の
地:その船戦(ふないくさ)いまははや、
  その船戦いまははや、
  閻浮(えんぶ)に帰る生死(いきしに)の、
  海山(うみやま)一同に震動して、
  船よりは鬨(とき)の声
シテ:陸(くが)には波の楯
地:月に白(しら)むは
シテ:剣(つるぎ)の光
地:潮(うしお)に映るは
シテ:兜(かぶと)の星の影
地:水や空、
  空行くもまた雲の波の、
  撃ち合ひ刺し違(ちご)ふる、
  船戦の駆け引き、
  浮き沈むとせしほどに、
  春の夜の波より明けて、
  敵(かたき)と見えしは
  群れ居る鷗(かもめ)、
  鬨の声と聞こえしは、
  浦風なりけり高松の、
  浦風なりけり高松の、
  朝嵐とぞなりにける

※出典『能を読むⅡ』(本書は観世流を採用)

実盛

2020-03-24 10:52:21 | 詞章
『実盛』 Bingにて 実盛 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【里人の登場】
アイ「かやうに候ふ者は、
  篠原(しのわら)の里に
  住居(すまい)する者にて候、
  ここに遊行(ゆぎょう)十四(じうよ)代の
  流れ他阿弥(たあみ)上人、
  この所に御座ありて、
  毎日ありがたき説法の御座候ふが、
  日中(にっちう)の前後に
  独言(ひとりごと)を仰せ候ふあひだ、
  篠原の面々不思議なりとの
  申し事にて候、
  それがしはお側(そば)近く
  参る者なれば、
  不審なく申せとのことにて候、
  今日も日中過ぎに参り、
  このことを尋ね申さばやと存ずる、
  今日も上人の独言を仰せ候はば、
  こなたへ知らせたまはり候へ、
  その分心得候へ、心得候へ

【上人の説法】
ワキ:それ西方(さいほう)は
  十万億土(のくど)、
  遠く生るる道ながら、
  ここも己心(こしん)の弥陀の国、
  貴賤群衆(くんじゅ)の
  称名(しょうみょう)の声
ワキヅレ:日々(にちにち)夜々(やや)の
  法(のり)の場(にわ)
ワキ:げにもまことに
  摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の
ワキヅレ:誓ひに誰(たれ)か
ワキ:残るべき
ワキ、ワキヅレ:ひとりなほ、
  仏のみ名を尋ね見ん、
  仏のみ名を尋ね見ん、
  おのおの帰る法の場、
  知るも知らぬも心引く、
  誓ひの網に洩るべきや、
  知る人も、知らぬ人をも渡さばや、
  かの国へ行く法(のり)の舟、
  浮かむも安き道とかや、
  浮かむも安き道とかや

【老人の登場】
シテ:笙歌(せいが)はるかに聞こゆ
  孤雲(こうん)の上、
  聖衆(しょうじゅ)来迎(らいこう)す
  落日の前、
  あら尊(とう)とや今日もまた
  紫雲(しうん)の立って候ふぞや
  「鉦(かね)の音(おと)念仏(ねぶつ)の
  声の聞こえ候、
  さては聴聞もいまなるべし、
  さなきだに立居(たちい)苦しき
  老いの波の、
  寄りもつかずは法の場に、
  よそながらもや聴聞せん
  :一念(いちねん)称名(しょうみょう)の
  声のうちには、
  摂取の光明曇らねども、
  老眼の通路(つうろ)
  なほもって明らかならず、
  よしよし少しは遅くとも、
  ここを去ること遠かるまじや
  南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)

【上人、老人の応対、上人の退場】
ワキ「いかに翁、
  さても毎日の称名に怠ることなし、
  されば志(こころざし)の者と
  見るところに、
  おことの姿、
  余人(よじん)の見ることなし、
  誰(たれ)に向って
  なにごとを申すぞと、
  皆人(みなひと)不審しあへり、
  今日はおことの名を名乗り候へ
シテ「これは思ひもよらぬ仰せかな、
  もとより所は天離(あまざか)る、
  鄙人(ひなびと)なれば人がましやな、
  名もあらばこそ名乗りもせめ、
  ただ上人(しょうにん)のおん下向、
  ひとへに弥陀の来迎(らいこう)なれば
  :かしこうぞ長生きして
  「この称名の時節に会ふこと
  :盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)
  優曇華(うどんげ)の、
  花待ち得たる心地して、
  老いの幸はひ身に越え、
  喜びの涙(なんだ)袂に余る、
  さればこの身ながら、
  安楽国に生るるかと、
  無比(むひ)の歓喜(かんぎ)を
  なすところに、
  輪廻(りんね)妄執の閻浮(えんぷ)の名を、
  またあらためて名乗らんこと、
  口惜(くちお)しうこそ候へとよ
ワキ「げにげに翁(おきな)の申すところ、
  ことわり至極(しごく)せり、
  さりながら一つは懺悔(さんげ)の
  廻心(えしん)ともなるべし、
  ただおことが名を名乗り候へ
シテ「さては名乗らでは叶ひ候ふまじか
ワキ「なかなかのこと、
  急いで名乗り候へ
シテ「さらば、
  おん前なる人を退(の)けられ候へ、
  近う参りて名乗り候ふべし
ワキ「もとより翁の姿、
  余人(よじん)の見ることはなけれども、
  所望(しょもう)ならば
  人をば退(の)くべし、
  近う寄りて名乗り候へ
シテ「昔長井の斎藤別当実盛は
  この篠原(しのわら)の合戦(かせん)に
  討たれぬ、
  聞こし召し及ばれてこそ候ふらめ
ワキ「それは平家の侍(さむらい)、
  弓取っての名将、
  その戦(いくさ)物語は無益(むやく)、
  ただおことの名を名乗り候へ
シテ「いやさればこそその実盛は、
  このおん前なる池水(いけみず)にて、
  鬢髭(びんひげ)をも洗はれしとなり、
  さればその執心(しうしん)残りけるか、
  いまもこのあたりの人には
  幻のごとく見ゆると申し候
ワキ「さていまも人に見え候ふか
シテ:深山木(みやまぎ)の、
  その梢とは見えざりし、
  桜は花に顕はれたる、
  老木(おいき)をそれとご覧ぜよ
ワキ:不思議やさては実盛の、
  昔を聞きつる物語、
  人の上ぞと思ひしに、
  身の上なりける不思議さよ
  「さてはおことは実盛の、
  その幽霊にてましますか
シテ「われ実盛が幽霊なるが、
  魂(こん)は冥途にありながら、
  魄(はく)はこの世に留(とど)まりて
ワキ:なほ執心の閻浮(えんぷ)の世に
シテ:二百
  「余歳のほどは経(ふ)れども
ワキ:浮かみもやらで篠原(しのわら)の
シテ:池のあだ波夜となく
ワキ:昼とも分かで心の闇の
シテ:夢ともなく
ワキ:現(うつつ)ともなき
シテ:思ひをのみ
シテ:篠原(しのわら)の、
  草葉の霜の翁(おきな)さび
地:草葉の霜の翁さび、
  人な咎めそかりそめに、
  現はれ出でたる実盛が、
  名を洩らしたまふなよ、
  亡き世語(よがたり)も恥かしとて、
  おん前を立ち去りて、
  行くかと見れば篠原の、
  池のほとりにて姿は、
  幻となりて失せにけり、
  幻となりて失せにけり


(間の段)【里人の物語】
(里人は、実盛が若武者を装ってヒゲ、白髪を染めて出陣、討たれて、池の水で首を洗われ、実盛と判明など語る)


【上人の待受】
ワキ:いざや別時(べちじ)の称名にて、
  かの幽霊を弔はんと
ワキ、ワキヅレ:篠原の、
  池のほとりの法(のり)の水、
  池のほとりの法の水、
  深くぞ頼む称名の、
  声澄みわたる弔ひの、
  初夜(しょや)より後夜(ごや)に
  至るまで、
  心も西へ行く月の、
  光とともに曇りなき、
  鉦(かね)を鳴らして
  夜もすがら
ワキ:南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)
  南無阿弥陀仏

【実盛の亡霊の登場】
シテ:極楽世界に往(ゆ)きぬれば、
  永く苦海(くかい)を越え過ぎて、
  輪廻(りんね)の故郷(ふるさと)
  隔たりぬ、
  歓喜(かんぎ)の心いくばくぞや、
  所は不退の所、
  命は無量(むりょう)寿仏(じゅぶつ)と
  のう頼もしや
シテ:念々(ねんねん)相続する人は
地:念々ごとに往生(おうじょう)す
シテ:南無といっぱ
地:すなはちこれ帰命(きみょう)
シテ:阿弥陀といっぱ
地:その行(ぎょう)この義を、
  もってのゆゑに
シテ:かならず往生を得(う)べしとなり
地:ありがたや

【実盛の亡霊、上人の応対】
ワキ:不思議やな
  白みあひたる池の面(おも)に、
  かすかに浮かみ寄る者を、
  見ればありつる翁(おきな)なるが、
  甲冑(かっちう)を帯する不思議さよ
シテ:埋もれ木の
  人知れぬ身と沈めども、
  心の池の言ひがたき、
  修羅(しゅら)の苦患(くげん)の数々を、
  浮かめてたばせたまへとよ
ワキ:これほどに
  目(ま)のあたりなる姿言葉を、
  余人(よじん)はさらに見も聞きもせで
シテ「ただ上人のみ明らかに
ワキ:見るや姿も残りの雪の
シテ:鬢髭(びんひげ)白き老武者なれども
ワキ:その出立は花やかなる
シテ:よそほひことに曇りなき
ワキ:月の光
シテ:灯火(ともしび)の影
地:暗からぬ、
  夜(よる)の錦の直垂(ひたたれ)に、
  夜の錦の直垂に、
  萌黄(もよぎ)匂(におい)の鎧着て、
  黄金作(づく)りの太刀(たち)刀(かたな)、
  いまの身にてはそれとても、
  何(なに)か宝の池の蓮(はちす)の、
  台(うてな)こそ宝なるべけれ、
  げにや疑はぬ、
  法の教へは朽ちもせぬ、
  黄金(こがね)の言葉多くせば、
  などかは到らざるべき、
  などかは到らざるべき

【実盛の亡霊物語】
シテ:「それ一念(いちねん)
  弥陀仏(みだぶつ)
  即滅(そくめつ)
  無量罪(むりょうざい)
地:すなはち回向(えこう)
  発願心(ほつがんしん)、
  心を残すことなかれ
シテ:時到って今宵(こよい)
  会ひがたきみ法(のり)を受け
地:慚愧(ざんぎ)懺悔(さんげ)の物語、
  なほも昔を忘れかねて、
  忍ぶに似たる篠原の、
  草の蔭野の露と消えし、
  ありさま語り申すべし
シテ「さても篠原の
  合戦(かせん)敗れしかば、
  源氏の方に手塚の太郎光盛、
  木曾殿のおん前に参りて申すやう、
  光盛こそ奇異の曲者(くせもの)と
  組んで首を取って候へ、
  大将かと見れば
  続く勢(せい)もなし、
  また侍(さむらい)かと思へば
  錦の直垂(ひたたれ)を着たり、
  名乗れ名乗れと責むれども、
  つひに名乗らず、
  声は坂東声(ばんどうごえ)にて
  候ふと申す、
  木曾殿あっぱれ
  長井の斎藤別当実盛にてやあるらん、
  さらば鬢髭(びんひげ)の
  白髪(はくはつ)たるべきが、
  黒きこそ不審なれ、
  樋口の次郎は見知りたるらんとて
  召されしかば、
  樋口参りただ一目見て、
  涙をはらはらと流いて
  :あなむざんやな
  斎藤別当にて候ひけるぞや、
  実盛常に申ししは、
  六十(ろくじう)に余って
  戦(いくさ)をせば、
  若殿原(わかとのばら)と争ひて、
  先を駆けんも大人気(おとなげ)なし、
  また老武者とて人々に、
  あなづられんも口惜しかるべし、
  鬢髭を墨に染め、
  若やぎ討死(うちじに)すべきよし、
  常々(つねづね)申し候ひしが、
  まことに染めて候、
  洗はせてご覧候へと、
  申しもあへず首を持ち
地:おん前を立ってあたりなる、
  この池波の岸に臨みて、
  水の碧(みどり)も影映る、
  柳の糸の枝垂れて
地:気霽(は)れては、
  風新柳(しんりう)の
  髪を梳(けず)り、
  氷消えては、
  波旧苔(きうたい)の、
  髭を洗ひて見れば、
  墨は流れ落ちて、
  もとの白髪となりにけり、
  げに名を惜しむ弓取りは、
  誰(たれ)もかくこそあるべけれや、
  あらやさしやとて、
  みな感涙をぞ流しける
地:また実盛が、
  錦の直垂(ひたたれ)を着ること、
  私(わたくし)ならぬ望みなり、
  実盛都を出でし時、
  宗盛公に申すやう、
  故郷(こきょう)へは錦を着て、
  帰るといへる本文(ほんもん)あり、
  実盛生国(しょうこく)は、
  越前の者にて候ひしが、
  近年(きんねん)ご領につけられて、
  武蔵の長井に、
  居住(きょじう)仕り候ひき、
  このたび北国に、
  まかり下りて候はば、
  さだめて討死(うちじに)
  つかまつるべし、
  老後の思ひ出これに過ぎじ、
  ご免あれと望みしかば、
  赤地(あかじ)の錦の、
  直垂を下し賜はりぬ
シテ:しかれば古歌(こか)にも
  紅葉葉(もみじば)を
地:分けつつ行けば錦着て、
  家に帰ると、
  人や見るらんと詠みしも、
  この本文(ほんもん)の心なり、
  さればいにしへの、
  朱買臣(しゅばいしん)は、
  錦の袂(たもと)を、
  会稽山(かいけいざん)にひるがへし、
  いまの実盛は、
  名を北国(ほっこく)の
  巷(ちまた)に揚げ、
  隠れなかりし弓取りの、
  名は末代(まつだい)に有明の、
  月の夜すがら、
  懺悔(さんげ)物語申さん

【終曲】
地:げにや懺悔の物語、
  心の水の底清く、
  濁りを残したまふなよ
シテ:その執心の修羅の道、
  廻(めぐ)り廻りてまたここに、
  木曾と組まんと企みしを、
  手塚めに隔てられし、
  無念はいまにあり
地:続くつはもの誰々(たれたれ)と、
  名乗る中にもまづ進む
シテ:手塚の太郎光盛
地:郎等(ろうどう)は
  主(しう)を討たせじと
シテ:駆け隔たりて実盛と
地:押し並べて組むところを
シテ:あっぱれおのれは
  日本一(にっぽんいち)の
  剛(こう)の者と組んでうずよとて、
  鞍(くら)の前輪(まえわ)に押しつけて、
  首かき切って
  捨ててんげり
地:そののち手塚の太郎、
  実盛が弓手(ゆんで)に廻りて、
  草摺(くさずり)をたたみあげて、
  二刀(ふたかたな)刺すところを、
  むずと組んで二匹が間(あい)に、
  どうと落ちけるが
シテ:老武者の悲しさは
地:戦(いくさ)にはし疲れたり、
  風に縮める、
  枯木(こぼく)の力も折れて、
  手塚が下になるところを、
  郎等は落ちあひて、
  ついに首をば掻き落とされて、
  篠原の土となって、
  影も形も亡き跡の、
  影も形も
  南無(なむ)阿弥(あみ)陀仏(だぶ)、
  弔ひてたびたまへ、
  跡弔ひてたびたまへ

※出典『能を読むⅡ』(本書は観世流を採用)

夜討曾我

2020-03-23 14:58:33 | 詞章
『夜討曾我』 Bingにて 夜討曾我 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【五郎、十郎、団三郎、鬼王の登場】
シテ、ツレ(十郎、団三郎、鬼王):
  その名も高き富士の嶺(ね)の、
  その名も高き富士の嶺の、
  御狩(みかり)にいざや出でうよ
ツレ(十郎)「これは曾我の十郎
  祐成(すけなり)にて候、
  さてもわが君
  東八箇国(とうはっかこく)の
  諸侍(しょさむらい)を集め、
  富士の巻狩(まきがり)を
  させられ候ふあひだ、
  われら兄弟も人なみにまかり出で、
  ただいま富士の裾野(すその)へと
  急ぎ候
シテ、ツレ(十郎、団三郎、鬼王):
  今日出でて
  いつ帰るべき故郷(ふるさと)と、
  思へばなほもいとどしく
シテ、ツレ(十郎、団三郎、鬼王):
  名残りを残すわが宿の、
  名残りを残すわが宿の、
  垣根の雪は卯の花の、
  咲き散る花の名残りぞと、
  わが足柄(あしがら)や遠かりし、
  富士の裾野に着きにけり、
  富士の裾野に着きにけり
ツレ(十郎)「急ぎ候ふほどに、
  これははや富士の裾野にて候、
  いかに時致(ときむね)、
  しかるべきところに
  幕をおん打(ぬ)たせ候へ
シテ「かしこまって候

【十郎、五郎、団三郎、鬼王の応対】
ツレ(十郎)「いかに時致(ときむね)、
  いまに始めぬおんことなれども、
  わが君のご威光の
  めでたさは候(ぞうろう)、
  うち並べたる幕の内、
  目を驚かしたるありさまにて候、
  かほどに多き人の中に、
  われら兄弟が幕の内ほど
  ものさびたるは候ふまじ
シテ「さん候(ぞうろう)、
  いまに始めぬ君のご威光にて候、
  さてかのあらましは候(ぞうろう)
ツレ(十郎)「あらましとは
  なにごとにて候ふぞ
シテ「あらおん情けなや、
  われらは片時(へんじ)も
  忘るることはなく候、
  かの祐経(すけつね)がこと
  候(ぞうろ)ふよ
ツレ(十郎)「げにげにそれがしも
  忘るることはなく候、
  さていつを
  いつまでながらへ候ふべき、
  ともかくも
  しかるべきやうにおん定め候へ
シテ「ご諚(じょう)のごとく
  いつをいつとか定め候ふべき、
  今夜夜討(ようち)がけに
  かの者を討たうずるにて候
ツレ(十郎)「それがしかるべう候、
  さらばそれにおん定め候へ、
  や、思ひ出だしたることの候、
  われら故郷(こきょう)を出でし時、
  母(はわ)にかくとも申さず
  候ふほどに、
  おん嘆きあるべきこと、
  これのみ心にかかり候ふあひだ、
  鬼王(おにおう)か
  団三郎(だんさぶろう)か
  兄弟に一人(いちにん)
  形見の物を持たせ、
  故郷(ふるさと)へ
  帰さうずるにて候
シテ「げにこれはもっともにて
  候ふさりながら、
  一人(いちにん)帰れと申し候はば、
  定めてとかく申し候ふべし、
  ただ二人(ににん)ともに
  おん帰しあれかしと存じ候
ツレ(十郎)「もっともにて候、
  さらば二人ともに
  こなたへ参れとおん申し候へ
シテ「かしこまって候
シテ「いかに団三郎鬼王
  こなたへ参り候へ
ツレ(団三郎)「かしこまって候
シテ「団三郎兄弟これへ参りて候
ツレ(十郎)「いかに団三郎鬼王も
  たしかに聞け、
  汝(なんじ)兄弟に
  申すべきことを
  承引(しょういん)すべきか、
  また承引すまじきか、
  まっすぐに申し候へ
ツレ(団三郎)「これはいまめかしき
  ご諚にて候、
  なにごとにても候へ
  御意(ぎょい)を背くことは
  あるまじく候
ツレ(十郎)「あら嬉しや、
  さては承引すべきか
ツレ(団三郎)「かしこまって候、
  なにごとも
  ご諚をば背き申すまじく候
ツレ(十郎)「この上は
  くはしく語り候ふべし、
  さてもわれらが親の
  敵(かたき)のこと、
  かの祐経を今夜
  夜討がけに討つべきなり、
  兄弟空しくなるならば、
  故郷(ふるさと)の母(はわ)
  嘆きたまはんこと、
  あまりにいたはしく候ふほどに、
  形見の品々(しなじな)を持ちて、
  二人(ににん)ながら
  故郷へ帰り候へ
ツレ(団三郎)「これは思ひも寄らぬ
  ご諚にて候ふものかな、
  御意(ぎょい)も御意にこそより候へ、
  この年月(としつき)奉公申し候ふも、
  このおん大事にまっさきかけて
  討死(うちじに)つかまつるべき
  ためにてこそ候へ、
  何(なに)とご諚候ふとも、
  この儀においてはまかり帰るまじく候、
  鬼王さやうにてはなきか
ツレ(鬼王)「なかなかのこと、
  もっともにて候、
  まかり帰ることはあるまじく候
ツレ(十郎)「何と帰るまじいと申すか
ツレ(団三郎)「ふっつとまかり帰るまじく候
ツレ(十郎)「これは不思議なることを
  申すものかな、
  さてこそ以前に
  言葉を固めて候ふに、
  さてはふっつと帰るまじきか
ツレ(団三郎)「さん候(ぞうろう)
ツレ(十郎)「汝は不思議なる者にて候、
  のう五郎殿あれをおん帰し候へ
シテ「かしこまって候、
  やあ何とてまかり帰るまじいとは申すぞ、
  さやうに申さうずると
  思(おぼ)し召してこそ、
  始めより言葉を固めて仰せられ候ふに、
  何とて帰るまじいとは申すぞ、
  しかと帰るまじきか
ツレ(鬼王)「まづかしこまったると
  おん申し候へ
ツレ(団三郎)「かしこまって候
シテ「しかと帰らうずるか
ツレ(団三郎)「まかり帰らうずるにて候
シテ「おう、
  それにてこそ候へ、
  まかり帰らうずると申し候
ツレ(十郎)「何と帰らうずると申すか
ツレ(団三郎)「さん候(ぞうろう)
ツレ(団三郎)「いかに鬼王に申し候
ツレ(鬼王)「なにごとにて候ふぞ
ツレ(団三郎)「さて何とつかまつり候ふべき、
  まかり帰れば本意(ほんに)にあらず、
  帰らねば御意に背く、
  とかく進退(しんだい)ここに窮まって候
ツレ(鬼王)「仰せのごとく
  まかり帰れば本意にあらず、
  また帰らねば御意に背く、
  われらも是非をわきまへず候、
  ただしきっと案じ出だしたることの候、
  いづくにても命を捨つるこそ
  肝要にて候へ、
  恐れながら団三郎殿と
  これにて刺し違へ候ふべし
ツレ(団三郎)「げにげにいづくにても
  命を捨つるこそ肝要なれ、
  いざさらば刺し違へう
ツレ(鬼王)「もっともにて候
シテ「ああしばらく、
  これは何(なに)としたることを
  つかまつり候ふぞ
ツレ(十郎)「やあ兄弟の者
  帰すまじきぞ、
  帰すまじきぞ、
  まづまづ心を静めて聞き候へ、
  今夜この所にて祐経を討ち、
  われら兄弟空しくならば、
  さて故郷(ふるさと)にまします
  母(はわ)には誰(たれ)か
  かくと申すべきぞ
  :敬(うやま)ふ者に従ふは、
  君臣(くんしん)の礼と申すなり、
  これを聞かずは
  生々(しょうじょう)世々(せせ)、
  永き世までの勘当と
地:かきくどきのたまへば、
  かきくどきのたまへば、
  鬼王団三郎、
  さらば形見をたまはらんと、
  言ふ声の下よりも、
  不覚の涙せきあへず

【十郎兄弟、団三郎兄弟の別れ、十郎兄弟の中入】
地:それ人の形見を
  贈りしためしには、
  かの唐土(もろこし)の
  樊噲(はんかい)が、
  母(はわ)の衣を着更(きか)へしは、
  永き世までのためしかや
ツレ(十郎):いま当代の弓取りの、
  母衣(ほろ)とはこれを名づけたり
地:しかれば
  われらが賤(いや)しき身を、
  喩(たと)ふべきにはあらねども、
  恩愛(おんない)の契りのあはれさは、
  われらを隔てぬならひなり
地:さるほどに兄弟、
  文(ふみ)こまごまと書きをさめ、
  これは祐成が、
  いまはの時に書く文の、
  文字(もじ)消えて薄くとも、
  形見にご覧候へ、
  皆人(みなひと)の形見には、
  手跡(しゅせき)にまさるものあらじ、
  水茎(みずぐき)の跡をば、
  心にかけて弔(と)ひたまへ、
  老少(ろうしょう)不定(ふじょう)と
  聞く時は、
  若き命も頼まれず、
  老いたるも残る世のならひ、
  飛花(ひか)落葉(らくよう)の、
  理(ことわり)と思し召されよ、
  その時時致(ときむね)も、
  肌の守りを取り出だし、
  これは時致が、
  形見にご覧候へ、
  形見は人の亡き跡の、
  思ひの種(たね)と申せども、
  せめて慰むならひなれば、
  時致は母上(はわうえ)に、
  添ひ申したると思し召せ、
  いままではその主(ぬし)を、
  守り仏(ぼとけ)の観世音(かんぜおん)、
  この世の縁なくと、
  来世(らいせ)をば助けたまへや
ツレ(十郎):すでにこの日も
  入相(いりあい)の
地:鐘もはや声々に、
  諸行(しょぎょう)無常(むじょう)と
  告げわたる、
  さらばよ急げ急げ使ひ、
  涙を文(ふみ)に巻きこめて、
  そのまま遣(や)る、
  文の干(ひ)ぬ間(ま)にと、
  詠ぜし人の心まで、
  いまさら思ひ白雲の、
  掛かるや富士の裾野より、
  曾我に帰れば兄弟、
  すごすごと跡を見送りて、
  泣きて留(とど)まるあはれさよ、
  泣きて留まるあはれさよ

(間の段)【大藤内、狩場の者の応対】

(観世流だけにある小書『十番斬』では、
ここで兄弟と頼朝配下の武士十人との
斬り合いが入り、(常には登場しない)
新田四郎に十郎が討たれる場面が入る)

【古屋、五郎丸、宿直の侍、五郎の登場】
ツレ(古屋五郎、御所の五郎丸、侍):
  寄せかけて、
  打つ白波の音高く、
  鬨(とき)を作って騒ぎけり

【五郎の登場】
シテ:あらおびたたしの
  軍兵(ぐんぴょう)やな
  「われら兄弟討たんとて、
  多くの勢(せい)は騒ぎあひて、
  ここを先途(せんど)と見えたるぞや、
  十郎殿、十郎殿、
  何(なに)とてお返事はなきぞ十郎殿、
  宵に新田(にった)の四郎と
  戦ひたまひしが、
  さてははや討たれたまひたるよな、
  口惜(くちお)しや
  死なば屍(かばね)を
  一所(いっしょ)とこそ思ひしに
シテ:もの思ふ春の花盛り、
  散(ち)り散(ぢ)りになって
  ここかしこに、
  屍をさらさん無念やな

【終曲】
地:味方の勢(せい)はこれを見て、
  味方の勢はこれを見て、
  打物(うちもの)の鍔元(つばもと)
  くつろげ、
  時致をめがけて掛かりけり
シテ:あらものものしやおのれらよ
地:あらものものしやおのれらよ、
  先に手並みは知るらんものをと、
  太刀取り直し、
  立ったる気色(けしき)、
  誉めぬ人こそなかりけれ、
  かかりける所に、
  かかりける所に、
  御内方(みうちがた)の
  古屋(ふるや)五郎(ごろう)、
  樊噲(はんかい)が嗔(いかり)をなし、
  張良(ちょうりょう)が秘術を
  尽くしつつ、
  五郎が面(おもて)に斬って掛かる、
  時致も古屋五郎が、
  抜いたる太刀の鎬(しのぎ)を削り、
  しばしがほどは戦ひしが、
  何とか斬りけん古屋五郎は、
  二つになってぞ見えたりける
地:かかりける所に、
  かかりける所に、
  御所(ごしょ)の五郎丸、
  御前(ごぜん)に入れたて、
  叶はじものをと、
  肌には鎧(よろい)の、
  袖を解き、
  草摺(くさずり)軽(かろ)げに、
  ざっくと投げ掛け、
  上には薄衣(うすぎぬ)、
  引き被(かず)き、
  唐戸(からと)の脇にぞ、
  待ちかけたる

《立廻り》

シテ:いまは時致も、
  運槻(うんつき)弓(ゆみ)の
地:いまは時致も、
  運槻弓の、
  力も落ちて、
  まことの女(じょ)ぞと、
  油断して通るを、
  やり過ごし押し並べ、
  むんずと組めば
シテ:おのれは何者ぞ
ツレ(五郎丸):御所の五郎丸
地:あらものものしと、
  わだがみ摑(つか)んで、
  えいやえいやと、
  組み転(ころ)んで、
  時致上に、なりける所を、
  下よりえいやと、また押し返し、
  その時大勢、折り重なって、
  千筋(ちすじ)の縄を、かけまくも、
  かたじけなくも、君のおん前に、
  追っ立て行くこそ、めでたけれ

※出典『能を読むⅣ』(本書は観世流を採用)