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隅田川

2020-03-19 16:12:48 | 詞章
『隅田川』 Bingにて 隅田川 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【渡守の登場】
ワキ「これは武蔵の国隅田川の
  渡守(わたしもり)にて候、
  今日(こんにった)は舟を急ぎ
  人々を渡さばやと存じ候、
  またこの在所(ざいしょ)に
  さる子細あって、
  大念仏(だいねんぶつ)を
  申すことの候ふあひだ、
  僧俗を嫌はず
  人数(にんじゅ)を集め候、
  そのよし
  みなみな心得候へ

【都人の登場】
ワキヅレ:末も東(あずま)の旅衣、
  末も東の旅衣、
  日もはるばるの心かな
ワキヅレ「かやうに候ふ者は
  都の者にて候、
  われ東に知る人の
  候ふほどに、
  かの者を尋ねて
  ただいま
  まかり下り候
ワキヅレ:雲霞(くもかすみ)、
  あと遠山(とおやま)に
  越えなして、
  あと遠山に越えなして、
  幾(いく)関々の道すがら、
  国々過ぎて行くほどに、
  ここぞ名に負ふ隅田川、
  渡りに早く着きにけり、
  渡りに早く着きにけり
ワキヅレ「急ぎ候ふほどに、
  これははや
  隅田川の渡りにて候、
  またあれを見れば
  舟が出で候、
  急ぎ乗らばやと存じ候

【渡守、都人の応対】
ワキヅレ「いかに船頭殿、
  舟に乗らうずるにて候
ワキ「なかなかのこと
  召され候へ、
  まづまづおん出(に)で
  候ふあとの、
  けしからず
  物忩(ぶっそう)に候ふは
  なにごとにて候ふぞ
ワキヅレ「さん候(ぞうろう)、
  都より女物狂の下り候ふが、
  是非もなく
  面白う狂ひ候ふを
  見候ふよ
ワキ「さやうに候はば、
  しばらく船をとどめて、
  かの物狂を
  待たうずるにて候

【狂女の登場】
シテ:げにや人の親の心は
  闇にあらねども、
  子を思ふ道に迷ふとは、
  いまこそ思ひ白雪の、
  道行き人に
  言伝(ことづ)てて、
  行方をなにと尋ぬらん
シテ:聞くやいかに、
  上(うわ)の空なる風だにも
地:松に音するならひあり

《カケリ》

シテ:真葛(まくず)が原の
  露の世に
地:身を恨みてや
  明け暮れん
シテ:これは都北白川に、
  年経て住める女なるが、
  思はざるほかに
  一人子(ひとりご)を、
  人商人(ひとあきびと)に
  誘はれて、
  行方を聞けば逢坂の、
  関の東(ひがし)の国遠き、
  東(あずま)とかやに下りぬと、
  聞くより心乱れつつ、
  そなたとばかり思ひ子(ご)の、
  跡を尋ねて迷ふなり
地:千里(ちさと)を行くも親心、
  子を忘れぬと聞くものを
地:もとよりも、
  契り仮なる一つ世の、
  契り仮なる一つ世の、
  そのうちをだに添ひもせで、
  ここやかしこに親と子の、
  四鳥(しちょう)の別れ
  これなれや、
  尋ぬる心の果てやらん、
  武蔵の国と、
  下総(しもつさ)の中にある、
  隅田川にも着きにけり、
  隅田川にも着きにけり

【狂女、渡守の応対】
シテ「のうのうわれをも舟に
  乗せてたまはり候へ
ワキ「おことはいづくより
  いづかたへ下る人ぞ
シテ「これは都より人を尋ねて
  下る者にて候
ワキ「都の人といひ
  狂人(きょうじん)といひ、
  面白う狂うて見せ候へ、
  狂はずは
  この舟には乗せまじいぞとよ
シテ「うたてやな
  隅田川の渡守ならば、
  日も暮れぬ、
  舟に乗れとこそ
  承はるべけれ
  :形(かた)のごとくも
  都の者を、
  舟に乗るなと承はるは、
  隅田川の渡守とも、
  覚えぬことな
  のたまひそよ
ワキ「げにげに
  都の人とて
  名にし負ひたる優しさよ
シテ「のう
  その言葉はこなたも
  耳にとまるものを、
  かの業平もこの渡りにて
シテ:名にし負はば、
  いざ言(こと)問はん
  都鳥(みやこどり)、
  わが思ふ人は、
  ありやなしやと
シテ「のう
  舟人(ふなびと)、
  あれに白き鳥の見えたるは、
  都にては見馴(な)れぬ鳥なり、
  あれをば何と申し候ふぞ
ワキ「あれこそ沖の
  鷗(かもめ)候(ぞうろ)ふよ
シテ「うたてやな
  浦にては千鳥(ちどり)ともいへ
  鷗(かもめ)ともいへ、
  などこの隅田川にて
  白き鳥をば、
  都鳥とは答へたまはぬ
ワキ:げにげに
  誤り申したり、
  名所には住めども心なくて、
  都鳥とは答へ申さで
シテ:沖の鷗と夕波の
ワキ:昔に帰る業平も
シテ:ありやなしやと
  言(こと)問ひしも
ワキ:都の人を思ひ妻
シテ:わらはも東(あずま)に
  思ひ子(ご)の、
  行方を問ふは同じ心の
ワキ:妻を忍び
シテ:子を尋ぬるも
ワキ:思ひは同じ
シテ:恋路なれば
地:われもまた、
  いざ言問はん都鳥(みやこどり)、
  いざ言問はん都鳥、
  わが思ひ子は東路(あずまじ)に、
  ありやなしやと、
  問へども問へども、
  答へぬはうたて都鳥、
  鄙(ひな)の鳥とや言ひてまし、
  げにや船競(ふなぎお)ふ、
  堀江の川の水際(みなぎわ)に、
  来居つつ鳴くは都鳥、
  それは難波江(なにわえ)
  これはまた、
  隅田川の東(あずま)まで、
  思へば限りなく、
  遠くも来ぬるものかな、
  さりとては渡守、
  舟こぞりてせばくとも、
  乗せさせたまへ渡守、
  さりとては
  乗せてたびたまへ

【渡守の物語】
ワキ「かかる優しき
  狂女こそ候はね、
  急いで船に乗り候へ、
  この渡りは大事の渡りにて候、
  かまへて静かに召され候へ、
  さいぜんの人も舟に召され候へ
ワキヅレ「のう
  あの向かひの柳のもとに、
  人の多く集まりて候ふは
  なにごとにて候ふぞ
ワキ「さん候(ぞうろう)、
  あれは大念仏(だいねんぶつ)にて候、
  それにつきて
  あはれなる物語の候、
  この舟の向かひへ
  着き候はんほどに
  語って聞かせ申さうずるにて候
ワキ「さても去年
  三月(さんがち)十五(じうご)日、
  しかも今日(こんにち)にあひ
  当たりて候、
  人商人(ひとあきびと)の都より、
  年のほど十二三ばかりなる
  幼き者を買ひ取って
  奥へ下り候ふが、
  この幼き者いまだならはぬ
  旅の疲れにや、
  もってのほかに違例(いれい)し、
  いまは一足(ひとあし)も
  引かれずとて、
  この川岸にひれ伏し候ふを、
  なんぼう世には
  情けなき者の候ふぞ、
  この幼き者をば
  そのまま路次(ろし)に捨てて、
  商人(あきびと)は奥へ下って候、
  さるあひだ
  この辺(へん)の人々、
  この幼き者の姿を見候ふに、
  よしありげに見え候ふほどに、
  さまざまにいたはりて候へども、
  前世(ぜんぜ)のことにてもや
  候ひけん、
  たんだ弱りに弱り、
  すでに末期(まつご)と見えし時、
  おことはいづくいかなる人ぞと、
  父の名字(みょうじ)をも
  国をも尋ねて候へば、
  われは都北白川(きたしらかわ)に、
  吉田の何某(なにがし)と
  申しし人の
  ただ一人子(ひとりご)にて候ふが、
  父には後れ
  母(はわ)ばかりに
  添ひ参らせ候ひしを、
  人商人に拐(かど)はされて
  かやうになり行き候、
  都の人の足(あし)手(て)影(かげ)も
  懐かしう候へば、
  この道のほとりに
  築(つ)きこめて、
  標(しるし)に柳を
  植ゑてたまはれと、
  おとなしやかに申し、
  念仏四五返唱へ、
  つひにこと終はって候、
  なんぼうあはれなる
  物語にて候ふぞ
ワキ「見申せば舟中(せんちう)にも
  少々(しょうしょう)都の人も
  御座ありげに候、
  逆縁(ぎやくえん)ながら
  念仏をおん申し候ひて
  おん弔ひ候へ、
  よしなき長物語(ながものがた)りに
  舟が着いて候、
  とうとうおん上がり候へ
ワキヅレ「いかさま
  今日(こんにった)は
  この所に
  逗留(とうりう)つかまつり候ひて、
  逆縁ながら
  念仏を申さうずるにて候
ワキ「それがしも
  船をとどめ、
  おん後より参らうずるにて候

【狂女、渡守の応対】
ワキ「いかにこれなる狂女、
  なにとて舟よりは下りぬぞ
  急いで上がり候へ、
  あら優しや
  いまの物語を聞き候ひて
  落涙し候ふよ、
  のう
  急いで船より上がり候へ
シテ「のう
  船人、
  いまの物語は
  いつのことにて候ふぞ
ワキ「去年三月(さんがち)
  今日のことにて候
シテ「さてその児(ちご)の年は
ワキ「十二歳
シテ「主(ぬし)の名は
ワキ「梅若丸
シテ「父の名字は
ワキ「吉田の何某(なにがし)
シテ「さてそののちは
  親とても尋ねず
ワキ「親類とても尋ね来ず
シテ「まして母(はわ)とても
  尋ねぬよのう
ワキ「思ひも寄らぬこと
シテ:のう
  親類とても親とても、
  尋ねぬこそ理(ことわり)なれ、
  その幼き者こそ、
  この物狂が
  尋ぬる子にてはさむらへとよ、
  のう
  これは夢かや
  あらあさましや候(ぞうろう)
ワキ「言語道断のことにて
  候ふものかな、
  いままではよそのこととこそ
  存じて候へ、
  さてはおん身の子にて
  候ひけるぞや、
  あらいたはしや候(ぞうろう)、
  かの人の墓所(むしょ)を
  見せ申し候ふべし、
  こなたへおん出(に)で候へ

【狂女の慨嘆】
ワキ「これこそ亡き人の
  標(しるし)にて候よ、
  よくよくおん弔ひ候へ
シテ:いままでは
  さりとも逢はんを頼みにこそ、
  知らぬ東(あずま)に下りたるに、
  いまはこの世に亡き跡の、
  標(しるし)ばかりを見ることよ、
  さても無残や死の縁とて、
  生所(しょうじょ)を去って
  東(あずま)の果ての、
  道のほとりの土となりて、
  春の草のみ生ひ茂りたる、
  この下にこそあるらめや
地:さりとては人々、
  この土を返していま一度、
  この世の姿を、
  母(はわ)に見せさせたまへや
地:残りても、
  かひあるべきは空しくて、
  かひあるべきは空しくて、
  あるはかひなき菷木(はわきぎ)の、
  見えつ隠れつ面影の、
  定めなき世のならひ、
  人間愁ひの花盛り、
  無常の嵐音添ひ、
  生死(しょうじ)長夜(じょうや)の
  月の影、
  不定(ふじょう)の雲覆へり、
  げに目の前の憂き世かな、
  げに目の前の憂き世かな

【狂女、渡守の念仏】
ワキ「いまは何と
  おん歎き候ひても
  かひなきこと、
  ただ念仏をおん申し候ひて
  後世(ごせ)をおん弔ひ候へ
ワキ:すでに月出で川風も、
  はや更け過ぐる夜念仏(よねぶつ)の、
  時節なればと面々に、
  鉦鼓(しょうご)を鳴らし勧むれば
シテ:母(はわ)はあまりの悲しさに、
  念仏をさへ申さずして、
  ただひれ伏して泣き居たり
ワキ「うたてやな
  余(よ)の人多くましますとも、
  母(はわ)の弔ひたまはんをこそ、
  亡者(もうじゃ)も
  喜びたまふべけれと
  :鉦鼓を母に参らすれば
シテ:わが子のためと聞けばげに、
  この身も鳬鐘(ふしょう)を
  取り上げて
ワキ:歎きを止(とど)め声澄むや
シテ:月の夜念仏(よねぶつ)
  もろともに
ワキ:心は西へと一筋に
シテ、ワキ:南無や
  西方(さいほう)極楽世界、
  三十六(さんじうろく)万億(まんのく)、
  同号(どうごう)同名(どうみょう)
  阿弥陀仏(あみだぶつ)
地:南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、
  南無阿弥陀仏(ぶつ)、
  南無阿弥陀仏(ぶつ)、
  南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
シテ:隅田川原の、
  波風も、
  声立て添へて
地:南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、
  南無阿弥陀仏(ぶつ)、
  南無阿弥陀仏(ぶつ)
シテ:名にし負はば、
  都鳥も音(ね)を添へて
地、子方:南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、
  南無阿弥陀仏(ぶつ)、
  南無阿弥陀仏(ぶつ)

【終曲】
シテ「のうのう
  いまの念仏(ねぶつ)のうちに、
  まさしくわが子の
  声の聞こえ候、
  この塚の内にて
  ありげに候ふよ
ワキ「われらも
  さやうに聞きて候、
  所詮こなたの念仏をば
  止(とど)め候ふべし、
  母(はわ)御一人(ごいちにん)
  おん申し候へ
シテ:いま一声(ひとこえ)こそ
  聞かまほしけれ
シテ:南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
子方:南無阿弥陀仏(ぶつ)、
  南無阿弥陀仏(ぶ)と
地:声のうちより、
  幻に見えければ
シテ:あれはわが子か
子方:母(はわ)にてましますかと
地:たがひに、
  手に手を取り交はせばまた、
  消(き)え消(き)えとなり行けば、
  いよいよ思ひは
  真澄(ます)鏡(かがみ)、
  面影も幻も、
  見えつ隠れつするほどに、
  東雲(しののめ)の空もほのぼのと、
  明け行けば跡絶えて、
  わが子と見えしは塚の上の、
  草茫々(ぼうぼう)としてただ、
  標(しるし)ばかりの
  浅茅(あさじ)が原と、
  なるこそあはれなりけれ、
  なるこそあはれなりけれ

※出典『能を読むⅢ』(本書は観世流を採用)

花月

2020-03-08 16:15:56 | 詞章
『花月』 Bingにて 花月 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。
【僧の登場】
ワキ:風にまかする浮雲の、
  風にまかする浮雲の、
  泊りはいづくなるらん
ワキ「これは筑紫(つくし)
  彦山(ひこさん)の
  麓に住まひする僧にて候、
  われ俗にて候ひし時、
  子を一人(いちにん)持ちて候ふを、
  七歳(しちさい)と申しし春の頃、
  いづくともなく失ひて候ふほどに、
  これを出離の縁と思ひ、
  かやうの姿となりて
  諸国を修行つかまつり候
ワキ:生まれぬさきの身を知れば、
  生まれぬさきの身を知れば、
  憐れむべき親もなし、
  親のなければわがために、
  心を留(と)むる子もなし、
  千里(ちさと)を行くも遠からず、
  野に伏し山に泊る身の、
  これぞまことの住処(すみか)なる、
  これぞまことの住処なる
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや花の都に着きて候、
  まづ承はり及びたる
  清水(きよみず)に参り、
  花をも眺めばやと思ひ候

【僧、門前の者の応対】
ワキ「門前の人のわたり候ふか
アイ「門前の者とお尋ねは、
  いかやうなるご用にて候
ワキ「これは都はじめて一見の
  ことにて候、
  この所においてなににても
  あれ面白きことの候はば、
  見せてたまはり候へ
アイ「さん候(ぞうろう)、
  都は人の集まりにて、
  面白きこと数多く
  御座候ふなかにも、
  花月(かげつ)と申す人の
  御座候ふが、
  面白き地主(じしゅ)の
  曲舞(くせまい)をおん舞ひ
  候ふあひだ、
  呼び出しおん目にかけ
  申さうずるにて候
ワキ「さあらばその花月とやらんを
  見せてたまはり候へ
アイ「やがて呼び出さうずるにて
  候ふあひだ、
  まづかうかう御座候へ
ワキ「心得申し候
アイ「いかに花月へ申し候、
  とうとうおん出(に)で候へや

【花月の登場】
シテ「そもそもこれは花月と
  申す者なり、
  ある人わが名を尋ねしに、
  答へて曰(いわ)く、
  月は常住(じょうじう)にして
  言ふに及ばず、
  さてくわの字はと問へば、
  春は花、
  夏は瓜(うり)、
  秋は菓(このみ)、
  冬は火、
  因果の果(か)をば
  末後(まつご)まで、
  一句のために残すと言へば、
  人これを聞いて、
地:さては末世(まつせ)の
  高祖(こうそ)なりとて、
  天下(てんが)に隠れもなき
  花月と、
  われを申すなり

【花月の芸】
アイ「なにとて今日も遅く
  おん出(に)で候ふぞ
シテ「さん候(ぞうろう)、
  いままでは雲居寺(うんごじ)に
  候ひしが、
  花に心を引く弓の、
  春の遊びの友達と、
  仲違(たが)はじとて参りたり
アイ「さらばいつものごとく
  小歌(こうた)を謡ひて
  おん遊び候へ
シテ:来(こ)し方より
地:いまの世までも
  絶えせぬものは、
  恋といへる曲者(くせもの)、
  げに恋は曲者、
  曲者かな、
  身はさらさらさら、
  さらさらさらに、
  恋こそ寝られぬ

【花月の立働き】
アイ「あれご覧候へ、
  鶯が花を散らし候ふよ
シテ「げにげに鶯が
  花を散らし候ふよ、
  某(それがし)射て落し候はん
アイ「急いで遊ばし候へ
シテ「鶯の花踏み散らす
  細脛(ほそはぎ)を、
  大長刀(おおなぎなた)も
  あらばこそ、
  花月が身に
  敵(かたき)のなければ、
  太刀(たち)刀(かたな)は持たず、
  弓は的(まと)射んがため、
  またかかる落花(らっか)
  狼藉(ろうぜき)の小鳥をも、
  射て落さんがためぞかし、
  異国の養由(よういう)は、
  百歩(はくぶ)に柳の葉を垂れ、
  百(もも)に百矢(ももや)を
  射るに外さず、
  われはまた、
  花の梢の鶯を、
  射て落さんと思ふ心は、
  その養由にも劣るまじ:あら面白や
地:それは柳これは桜、
  それは雁(かり)がね、
  これは鶯、
  それは養由
  これは花月、
  名こそ変るとも、
  弓に隔てはよもあらじ、
  いでもの見せん鶯、
  いでもの見せん鶯とて、
  履(は)いたる足駄(あしだ)を
  踏ん脱いで、
  大口(おおくち)の傍(そば)を
  高く取り、
  狩衣(かりぎぬ)の袖を
  うつ肩脱いで、
  花の木蔭に狙ひ寄って、
  よつ引(び)きひやうと、
  射ばやと思へども、
  仏の戒めたまふ、
  殺生戒(せっしょうかい)をば
  破るまじ

【花月の語り舞】
アイ「言語(ごんご)道断(どうだん)、
  面白きことを仰せられ候、
  また人のご所望にて候、
  当寺の謂(い)はれを曲舞に
  作りておん謡ひ候ふよしを
  聞こし召して、
  一節(ひとふし)おん謡ひ候へとの
  ご所望にて候
シテ「易きこと謡うて聞かせ
  申さうずるにて候
シテ:さればにや大慈(だいじ)
  大悲(だいひ)の春の花
地:十悪(じうあく)の里に
  香(こうば)しく、
  三十(さんじう)三身(さじん)の
  秋の月、
  五濁(ごじょく)の水に影清し
地:そもそもこの寺は、
  坂の上の田村丸(たむらまる)、
  大同(だいどう)二年の春の頃、
  草創(そうそう)ありしこのかた、
  いまも音羽山(おとわやま)、
  嶺の下枝(しずえ)の
  滴(しただ)りに、
  濁るともなき清水の、
  流れを誰(たれ)か汲まざらん、
  ある時この滝の水、
  五色(ごしき)に見えて
  落ちければ、
  それを怪しめ山に入り、
  その水上(みなかみ)を尋ぬるに、
  こんじゅ山(せん)の
  岩の洞(ほら)の、
  水の流れに埋(うず)もれて、
  名は青柳(あおやぎ)の
  朽木(くちき)あり、
  その木より光さし、
  異香(いきょう)四方(よも)に
  薫(くん)ずれば
シテ:さては疑ふ所なく
地:楊柳(ようりう)観音の、
  おん所変(しょへん)にて
  ましますかと、
  みな人手を合はせ、
  なほもその奇特(きどく)を
  知らせて賜(た)べと申せば、
  朽木の柳は緑をなし、
  桜にあらぬ老木(おいき)まで、
  みな白妙(しろたえ)に
  花咲きけり、
  さてこそ千手(せんじゅ)の
  誓ひには、
  枯れたる木にも花咲くと、
  いまの世までも申すなり

【花月の舞】
ワキ「あら不思議や、
  これなる花月を
  よくよく見候へば、
  某(それがし)が俗にて失ひし
  子にて候ふはいかに、
  名乗って逢はばやと思ひ候
ワキ「いかに花月に
  申すべきことの候
シテ「なにごとにて候ふぞ
ワキ「おん身はいづくの人にて
  わたり候ふぞ
シテ「これは筑紫の者にて候
ワキ「さてなにゆゑかやうに
  諸国をおん廻り候ふぞ
シテ「われ七つの歳(とし)
  彦山に登り候ひしが、
  天狗に取られて
  かやうに諸国を廻(めぐ)り候
ワキ「さては疑ふ所もなし、
  これこそ父の左衛門(さえもん)よ、
  見忘れてあるか
アイ「のうのうおん僧は
  なにごとを仰せられ候ふぞ
ワキ「さん候(ぞうろう)、
  この花月は某が
  俗(ぞく)にて失ひし
  子にて候ふほどに、
  さてかやうに申し候
アイ「げにとおん申し候へば、
  瓜を二つに割ったるやうにて候、
  この上はいつものごとく
  八撥(やつばち)を
  おん打ち候ひて、
  うち連れ立って故郷へ
  おん帰り候へ

《物着》

シテ「さてもわれ筑紫彦山に登り
  :七つの歳天狗に
地:取られて行きし山々を、
  思ひやるこそ悲しけれ

《鞨鼓》

【終曲】
地:取られて行きし山々を、
  思ひやるこそ悲しけれ、
  まづ筑紫には彦の山、
  深き思ひを四王寺(しおうじ)、
  讃岐(さぬき)には松山、
  降り積む雪の白峰(しろみね)、
  さて伯耆(ほうき)には
  大山(だいせん)、
  さて伯耆には大山、
  丹後(たんご)丹波(たんば)の
  境(さかい)なる、
  鬼が城(じょう)と聞きしは、
  天狗よりも恐ろしや、
  さて京近き山々、
  さて京近き山々、
  愛宕(あたご)の山の太郎坊、
  比良(ひら)野の峰の次郎坊、
  名高(たか)き比叡(ひえ)の
  大嶽(おおだけ)に、
  少し心の澄みしこそ、
  月の横川(よかわ)の
  流れなれ、
  日ごろはよそにのみ、
  見てや止(や)みなんと
  眺めしに、
  葛城(かずらき)や、
  高間(たかま)の山、
  山上(さんじょう)大峰(おおみね)
  釈迦(しゃか)の嶽(だけ)、
  富士の高嶺(たかね)に
  上がりつつ、
  雲に起き臥す時もあり、
  かやうに狂ひ廻りて、
  心乱るるこの簓(ささら)、
  さらさらさらさらと、
  擦(す)っては謡ひ、
  舞うては数へ、
  山々嶺々、
  里々を、
  廻り廻りてあの僧に、
  逢ひたてまつる嬉しさよ、
  いまよりこの簓、
  さっと捨ててさ
  候(そうら)はば、
  あれなるおん僧に、
  連れ参らせて仏道(ぶつどう)、
  連れ参らせて仏道の、
  修行に出づるぞ
  嬉しかりける、
  出づるぞ嬉しかりける

※出典『能楽名作選 上』(本書は観世流を採用)

雲林院(古形)

2020-02-02 16:44:04 | 詞章
『雲林院(古形)』 Bingにて 雲林院 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。
【公光の登場】
ワキ:藤咲く松も紫の、
  藤咲く松も紫の、
  雲の林を尋ねん
ワキ:これは津の国
  蘆屋(あしや)の里に
  公光(きんみつ)と申す者なり
  「われ若年のいにしへ、
  さるおん方より伊勢物語を相伝し
  明け暮れ玩び(もてあそび)候、
  ある夜の夢に
  とある花のもとに
  束帯(そくたい)たまへる男、
  紅(くれない)の袴(はかま)
  召されたる女性(にょしょう)、
  かの伊勢物語の冊子をご覧じて、
  木蔭に立ちたまふをあたりに
  ありし翁に問へば、
  これこそ伊勢物語の根本(こんぽん)
  在中将(ざいちゅうじょう)
  業平(なりひら)、
  女性は二条の后、
  ところは都紫野(むらさきの)の
  雲の林と語ると思ひて夢覚めぬ
  :あまりにあらた
  なりつる夢なれば、
  急ぎ都に上り
  かの所をも尋ねばやと思ひつつ
ワキ:蘆屋の里を立ち出でて、
  われは東(あずま)に赴けば、
  名残りの月の西の宮、
  潮の蛭子(ひるこ)の浦遠し、
  潮の蛭子の浦遠し
ワキ:松蔭に、
  煙をかづく尼が崎、
  煙をかづく尼が崎、
  暮れて見えたる漁(いさ)り火の、
  あたりを問へば難波津に、
  咲くや木(こ)の花冬籠もり、
  いまは現(うつつ)に都路の、
  遠かりし、
  ほどは桜にまぎれつる、
  雲の林に着きにけり、
  雲の林に着きにけり

【公光の詠嘆】
ワキ「面白やな花の都の北山蔭、
  紫野に来て見れば、
  夢に見しごとくの
  古跡と見えて、
  甍(いらか)破れ瓦(かわら)に
  松生ひたる気色なるに
  :花は昔を忘れぬかと、
  見えたる気色の面白さよ、
  ところは夢に違(たが)はねども、
  逢ひ見し人は見えたまはず、
  かくてはいつまであるべきぞ、
  帰らん道の家づとにと、
  木蔭に立ち寄り花を折る

【老人の登場】
シテ「誰(た)そよ花折るは、
  今日は朝(あした)の霞
  消えしままに、
  夕べの雲も春の日の
  :ことにのどかに眺めやる
  「嵐の山も名にこそ聞け
  :まことの風は吹かぬに
  「花を散らしつるはもし人の
  手折るかさなくはまた、
  枝を木伝ふ鶯の、
  羽風(はかぜ)か松の響きか人か
  「それかあらぬか木の下風か、
  あら心もとなと、
  散らしつる花やな

【老人、公光の応対】
シテ「さればこそこれに
  人のありけるぞや、
  花守の候ふぞ、
  花を散らしつるはみ内で
  わたり候ふか、
  あら落花狼藉(ろうぜき)の人や、
  そこ退(の)きたまへ
ワキ「それ花は乞ふも盗むも
  情けあり、
  とても散るべき花な
  惜しみたまひそ
シテ「とても散るべき花なれども、
  花に憂きは嵐、
  さりながら風も花をこそ誘へ
  枝を手折りたまへば、
  おことは花のためは
  風よりも辛き人や、
  あらなにともなの人や
ワキ「何とて素性(そせい)法師は、
  見てのみや人に語らん桜花
  :手ごとに折りて
  家づとにせんとは
  詠みけるぞ
シテ「さやうに詠むもあり、
  またある歌には
  :春風は花のあたりを
  よぎて吹け、
  心づからや
  移ろふと見ん
  「春の夜のひと時をば
  千金にも替へじとは、
  花に清香(せいきょう)月に影、
  しかれば千顆万顆(せんかばんか)の
  玉よりも、
  宝と思ふこの花を
  「折らせ申すこと候ふまじ
ワキ「されば花
  物言はずとこそ見えたれ、
  人にて花を恋ひ心のあるは
  理(ことわり)ならずや
シテ「軽漾(けいよう)激(げき)して、
  影唇(くちびる)を動かせば、
  われは申さずとも
  花も惜しきと言つつべし
地:げに枝を惜しむは
  また春のため、
  手折るは見ぬ人のため
地:惜しむも乞ふも情けあり、
  惜しむも乞ふも情けあり、
  ふたつの色の争ひ、
  柳桜をこき交ぜて、
  都ぞ春の錦なる、
  都ぞ春の錦なる

【老人の中入】
シテ「おことは
  いかなる人にてましませば、
  この花のもとに休らひ、
  夜(よ)に入るまでは
  おんわたり候ふぞ
ワキ「これは津の国、
  蘆屋の里に公光と申す
  者にて候ふが、
  伊勢物語を玩び候ふゆゑか、
  このご在所を夢に
  見まゐらせて候ひしほどに、
  これまで尋ね参りたり、
  ところは紫野雲の林と
  まさしく承はりて候
シテ「雲の林とは雲林院候(ぞうろう)、
  これこそ二条の后の
  おん山荘の跡にて候へ、
  さては志を感じ、
  二条の后の
  この花の下(もと)に現はれ
  伊勢物語をなほなほ
  おことに授けんとの
  おんことにてぞ候ふらん、
  花の下臥(したぶし)して
  夢を待ちてご覧候へ
ワキ「さらば今夜は
  木蔭に臥し、
  別れし夢をまた返さん
シテ「その花衣を返して着、
  また寝の夢を待ちたまへ
ワキ「かやうに
  くはしく語りたまふ、
  おん身はいかなる人やらん
シテ「そのさま
  年の古(ふる)びやう、
  昔男となど知らぬ
ワキ:さては業平にてましますか
シテ:いや
シテ:わが名を
  いまは明石潟(あかしがた)
地:わが名をいまは明石潟、
  花をし思ふ心ゆゑ、
  木隠(こがく)れの花に現はるる、
  まことに昔を恋衣、
  一枝(ひとえだ)の花の
  蔭に寝て、
  わがありさまを見たまはば、
  その時不審を開かんと、
  夕べの空のひと霞、
  思ほえずこそなりにけれ、
  思ほえずこそなりにけれ

【二条の后の登場】
ワキ「不思議やな、
  夜更くるままの花のもとに、
  さもなまめける女人(にょにん)、
  紫の薄衣(うすぎぬ)に、
  紅(くれない)の袴召されたるが、
  忽然(こつぜん)として
  現はれたまふ、
  いかなる人にてましますぞ
ツレ:恥づかしながらいにしへは、
  二条の后といはれし身の、
  なほ執心の花は根に、
  鳥は古巣に帰り来ぬ
ワキ:さては現(うつつ)に
  聞きおよべる、
  二条の后にてましますかや、
  しからば夢中に伊勢物語の、
  その品々(しなじな)を見せたまへ
ツレ:いでいで昔を語らんとて、
  花も嵐も声添へて、
  その品々を語りけり

【二条の后の物語】
地:そもそもこの物語は、
  いかなる人の
  なにごとによって、
  思ひの露を添へけるぞと、
  言ひけんことも
  理(ことわり)かな
ツレ:まづは武蔵野と詠(えい)じ、
  または春日野(かすがの)の
  草葉の色も若緑
地:色を変へ花を摘みて、
  その品々もいかならん、
  げにげに伊勢や
  日向(ひゅうが)のことは、
  誰(たれ)かは定めありぬべき
地:武蔵塚(むさしづか)と申すは、
  げに春日野のうちなれや、
  しかれば春日野の、
  牡鹿(おしか)の角の
  束(つか)の間(ま)も、
  隠れかねたる声立てて、
  一首のご詠(えい)、
  かくばかり
地:武蔵野は、
  今日はな焼きそ若草の、
  夫(つま)も籠もれり、
  われも籠もれり

【基経の登場】
シテ:そもそもこれは
  かの后のおん兄(しょうと)、
  基経が魄霊(はくれい)なり
  「さてもこの物語の品々、
  夢中に現はし見せんとて、
  后もここに現はれて、
  伊勢物語のところから
  :武蔵野は、
  今日はな焼きそ若草の
  「夫(つま)とは業平
  ご詠は后を、
  取り返ししはわれ基経が、
  鬼ひと口の姿を見せんと、
  形は悪鬼
  身は基経か
シテ:常なき姿に業平の
地:昔をいまになすとかや
シテ:白玉(しらたま)か、
  なにぞと問ひしいにしへを、
  思ひ出づやの、
  夜半(よわ)の暁(あかつき)

【基経、二条の后の仕方語り】
ツレ「海人(あま)の刈る
  藻に住む虫のわれからと、
  思へば世をも
  恨みぬものを
シテ「よしや恨みも忘れ草、
  夢路に帰る物語、
  ただいま今宵
  現はして、
  かの旅人に見せたまへ
ツレ「忘れて年を経しものを、
  またいにしへをば見ゆまじとて、
  武蔵野さして逃げて行けば
シテ「武蔵野に果てはなくとても、
  恋路に限りなかるべきか、
  いづくまでかは忍び妻の
ツレ「昔も籠もりし武蔵塚の、
  内に逃げ入り隠れければ
シテ「まさしくここまで
  見えたまひつるが、
  おんうしろ影も絶えにけり、
  暗さは暗し
  いかがせん
シテ:この野に火をとぼし
地:この野に火をとぼし、
  焼き狩りのごとく
  漁(あさ)り行けば、
  ここにひとつの塚あり、
  この内こそ怪しけれとて
シテ:松明(しょうめい)振り立てて
地:松明振り立てて、
  塚の奥に入りて見れば、
  さればこそ
  案のごとく、
  后はここにましましけるぞや、
  げにまこと名に立ちし、
  まめ男とはまことなりけり、
  あさましや世の聞こえ、
  あら見苦しの后の宮や

【終曲】
地:年を経て、
  住み来(こ)し里を
  出でて往(い)なば、
  住み来し里を
  出でて往なば、
  いとど深草、
  野とや
  なりなんと、
  亡き世語りも、
  恥づかしや
シテ:野とならば、
  鶉(うずら)となりて
  泣き居(お)らん、
  鶉となりて泣き居らん、
  仮だにやは、
  君が来(こ)ざらんと、
  慕ひたまひしもあさましや
地:げに心から唐衣(からころも)、
  着つつ馴れにし妻しあれば
シテ:はるばる来ぬる、
  恋路の坂行くは、
  苦しや宇津の山
地:現(うつつ)か夢か
  行き行きて、
  隅田川原の都鳥
シテ:いざ言(こと)問はん
  武蔵野とは
地:まことに東(あずま)か
シテ:もしは都か
地:まことは春日野の、
  まことは春日野の、
  飛火(とぶひ)の野守も
  出でて見よや、
  上は三笠山、
  麓は春日野に、
  伏すや牡鹿の
  夫(つま)も籠もりし、
  この武蔵塚よりも、
  つひに后を取り返して、
  帰ると思へば夜も明けて、
  あたりを見れば、
  武蔵野にても春日野にもなく、
  ところは都紫野の、
  雲林院の花のもとに、
  雲林院の花の基経や
  后と見えしも、
  夢とこそなりにけれ、
  皆夢とこそなりにけれ

〔間の段〕

【公光、従者の待受】
ワキ、ワキヅレ:いざさらば、
  木蔭の月に臥(ふ)して見ん、
  木蔭の月に臥して見ん、
  暮れなばなげの花衣、
  袖を片敷き臥しにけり、
  袖を片敷き臥しにけり

【業平の登場】
シテ:月やあらぬ、
  春や昔の春ならぬ、
  わが身ひとつは、
  もとの身にして

【業平、公光の応対】
ワキ:不思議やな、
  雲の上人にほやかに、
  花にうつろひ
  現はれたまふは、
  いかなる人にてましますぞ
シテ「いまは何をか包むべき、
  昔男のいにしへを、
  語らんために来たりたり
ワキ:さらば夢中に伊勢物語の、
  その品々(しなじな)を
  語りたまへ
シテ「いでいでさらば語らんと
  :花の嵐も声添へて
ワキ:その品々を
シテ:語りけり

【業平の舞い語り】
シテ:そもそもこの物語は、
  いかなる人の
  なにごとによって
地:思ひの露を
  染めけるぞと、
  言ひけんことも
  理(ことわり)なり
シテ:まづは弘徽殿(こきでん)の
  細殿(ほそどの)に、
  人目を深く忍び
地:心の下簾(したすだれ)の
  つれづれと
  人はたたずめば、
  われも花に心を染みて、
  ともにあくがれ立ち出づる
地:如月(きさらぎ)や、
  まだ宵なれど月は入り、
  われらは出づる恋路かな、
  そもそも日の本(ひのもと)の、
  うちに名所といふことは、
  わが大内にあり、
  かの遍昭(へんじょう)が
  つらねし、
  花の散りつもる、
  芥川(あくたがわ)をうち渡り、
  思ひ知らずも迷ひ行く、
  被(かず)ける衣(きぬ)は
  紅葉襲(もみじがさ)ね、
  緋(ひ)の袴踏みしだき、
  誘ひ出づるやまめ男、
  紫の、
  一本(ひともと)結(ゆ)ひの藤袴、
  しほるる裾をかい取って
シテ:信濃路や
地:園原(そのはら)茂る
  木賊色(とくさいろ)の、
  狩衣(かりぎぬ)の袂(たもと)を、
  冠(かむり)の巾子(こじ)に
  うち被き、
  忍び出づるや、
  如月の、
  たそがれ月もはや入りて、
  いとど朧夜に、
  降るは春雨か、
  落つるは涙かと、
  袖うち払ひ、
  裾を取り、
  しをしを
  すごすごと、
  たどりたどりも迷ひ行く

【業平の舞】
シテ:思ひ出でたり
  夜遊(やいう)の曲
地:返す真袖(まそで)を
  月や知る
《序ノ舞》

【終曲】
地:夜遊の舞楽も、時うつれば、
  夜遊の舞楽も、時うつれば、
  名残りの月も、
  山藍の羽袖、
  返すや夢の、
  告げの枕、
  この物語、
  語るとも尽きじ
シテ:松の葉の散り失せず
地:松の葉の散り失せず、
  末の世までも情け知る、
  言の葉(ことのは)
  草のかりそめに、
  かく現はせるいにしへの、
  伊勢物語、
  語る夜もすがら、
  覚むる夢となりにけりや、
  覚むる夢となりにけり

※出典『能を読むⅠ』(本書は観世流を採用)

通小町

2020-01-21 18:07:29 | 詞章
『通小町』(検索キー 竹サポ)
※「:」は、節を表す記号の代用。
【僧の登場】
ワキ「これは八瀬の山里に
  一夏(いちげ)を送る僧にて候、
  ここにいづくとも知らず
  女性(にょしょう)一人(いちにん)、
  毎日木の実、爪木(つまぎ)を
  持ちて来たり候、
  今日も来たりて候はば、
  いかなる者ぞと
  名を尋ねばやと思ひ候

【里女の登場】
ツレ:拾ふ爪木(つまぎ)も
  炷物(たきもの)の、
  拾ふ爪木も炷物の、
  匂はぬ袖ぞ悲しき
ツレ:これは市原野のあたりに
  住む女にて候
  「さても八瀬の山里に
  尊き人のおん入り候ふほどに、
  いつも木の実、
  爪木(つまぎ)を持ちて参り候、
  今日もまた参らばやと思ひ候

【里女、僧の応対】
ツレ「いかに申し候、
  またこそ参りて候へ
ワキ「いつも来たれる人か、
  今日は木の実の数々、
  おん物語り候へ
ツレ:拾ふ木の実は
  何々(なになに)ぞ
地:拾ふ木の実は
  何々ぞ
ツレ:いにしへ見なれし
  車に似たるは、
  嵐にもろき落椎(おちじい)
地:歌人の家の木の実には
ツレ:人丸(ひとまる)の
  垣穂(かきほ)の柿、
  山の辺(やまのべ)の
  笹栗(ささぐり)
地:窓の梅
ツレ:園の桃
地:花の名にある桜麻(さくらあさ)の、
  苧生の浦(おおのうら)
  梨(なし)なほもあり、
  櫟(いちい)香椎(かしい)
  真手葉椎(まてばしい)、
  大小(だいしょう)柑子(かんじ)、
  金柑(きんかん)、
  あはれ昔の恋しきは、
  花橘(はなたちばな)の
  一枝(ひとえだ)、
  花橘の一枝

【里女の中入】
ワキ「木の実の数々は承はりぬ、
  さてさておん身は
  いかなる人ぞ、
  名をおん名乗り候へ
ツレ:恥づかしやおのが名を
地:小野とは言はじ、
  薄(すすき)生(お)ひたる
  市原野辺(のべ)に
  住む姥(うば)ぞ、
  跡弔(と)ひたまへお僧とて、
  かき消すやうに失せにけり、
  かき消すやうに失せにけり

【僧の独白】
ワキ「かかる不思議なることこそ
  候はね、
  ただいまの女の名を
  くはしく尋ねて候へば、
  小野とは言はじ、
  薄生ひたる市原野辺に
  住む姥ぞと申し、
  かき消すやうに失せて候、
  ここに思ひ合はすることの候、
  ある人市原野を通りしに、
  薄一叢(ひとむら)生ひたる
  蔭よりも
  :秋風の、
  吹くにつけても
  あなめあなめ
  「小野とは言はじ、
  薄生ひけりとあり、
  これ小野の小町の歌なり、
  さては疑ふところもなく、
  ただいまの女性は
  小野の小町の幽霊と
  思ひ候ふほどに、
  かの市原野に行き、
  小町の跡を
  弔はばやと思ひ候

【僧の待受】
ワキ:この草庵を立ち出でて、
  この草庵を立ち出でて、
  なほ草深く露しげき、
  市原野辺に尋ね行き、
  座具(ざぐ)をのべ香を焚き
ワキ:南無幽霊
  成等(じょうとう)正覚、
  出離(しゅつり)生死(しょうじ)
  頓証(とんしょう)菩提

【小町、少将の応対】
ツレ:嬉しのお僧の弔ひやな、
  同じくは戒(かい)授けたまへ
  お僧
シテ:いや叶ふまじ、
  戒授けたまはば
  うらみ申すべし、
  はや帰りたまへ
  お僧
ツレ:こはいかに、
  たまたまかかる
  法(のり)に遇えば、
  なほその苦患(くげん)を
  見せんとや
シテ:二人(ふたり)見るだに
  悲しきに、
  おん身一人(いちにん)
  仏道成らば
  わが思ひ、
  重きが上の
  小夜衣(さよごろも)、
  かさねて憂き目を
  三瀬川(みつせがわ)に、
  沈み果てなばお僧の、
  授けたまへる
  かひもあるまじ、
  はや帰りたまへや、
  お僧たち
地:なほもその身は迷ふとも、
  なほもその身は迷ふとも、
  戒力(かいりき)に引かれば、
  などか仏道成らざらん、
  ただともに戒を
  受けたまへ
ツレ:人の心は白雲の、
  われは曇らじ心の月、
  出でてお僧に弔はれんと、
  薄(すすき)押し分け
  出でければ
シテ:包めどわれも穂に出でて、
  包めどわれも穂に出でて、
  尾花(おばな)招かば
  止まれかし
ツレ:思ひは山の鹿(かせき)にて、
  招くとさらに
  止まるまじ
シテ:さらば煩悩の犬となって、
  打たるると離れじ
ツレ:恐ろしの姿や
シテ:袂(たもと)を取って
  引き止むる
ツレ:引かかる袖も
シテ:ひかふる
地:わが袂も、
  ともに涙の露、
  深草の少将

【小町、少将の物語】
ワキ:さては小野の小町、
  四位(しい)の少将にて
  ましますかや、
  とてものことに
  車の榻(しじ)に、
  百夜(ももよ)通ひし所を
  学(まの)うでおん見せ候へ
ツレ:もとよりわれは白雲も、
  かかる迷ひのありけるとは
シテ:思ひも寄らぬ
  車の榻(しじ)に、
  百夜(ももよ)通へと偽りしを
  :まことと思ひ
  「暁ごとに忍び
  車の榻に行けば
ツレ:車の物見もつつましや、
  姿を変へよと言ひしかば
シテ「輿車(こしくるま)は
  言ふにおよばず
ツレ:いつか思ひは
地:山城(やましろ)の
  木幡(こはた)の里に
  馬はあれども
シテ:君を思へば
  徒歩(かち)跣足(はだし)
ツレ:さてその姿は
シテ:笠に蓑(みの)
ツレ:身の憂き世とや竹の杖
シテ:月には行くも暗からず
ツレ「さて雪には
シテ「袖をうち払い
ツレ:さて雨の夜(よ)は
シテ:目に見えぬ
  「鬼一口も恐ろしや
ツレ:たまたま曇らぬ時だにも
シテ:身一人(ひとり)に降る涙の雨か
《立廻り》
シテ:あら暗(くら)の夜(よ)や
ツレ:夕暮れは、
  ひとかたならぬ思ひかな
シテ:夕暮れは何と
地:ひとかたならぬ、思ひかな
シテ:月は待つらん月をば待つらん、
  われをば待たじ、虚言(そらごと)や
地:暁は、暁は、数々多き、思ひかな
シテ:わがためならば
地:鳥もよし鳴け、
  鐘もただ鳴れ、
  夜(よ)も明けよ、
  ただ独り寝ならば、辛からじ

【終曲】
シテ:かやうに心を、
  尽くし尽くして
地:かやうに心を、
  尽くし尽くして、榻(しじ)の数々、
  よみて見たれば、
  九十九夜(くじゅうくよ)なり、
  いまは一夜(ひとよ)よ、
  嬉しやとて、待つ日になりぬ、
  急ぎて行かん、姿はいかに
シテ:笠も見苦し
地:風折(かざおり)烏帽子
シテ:蓑をも脱ぎ捨て
地:花摺衣(はなすりごろも)の
シテ:藤袴(ふじばかま)
地:待つらんものを
シテ:あら忙しや、すははや今日も
地:紅(くれない)の狩衣(かりぎぬ)の、
  衣紋(えもん)けたかく
  引きつくろひ、
  飲酒(おんじゅ)はいかに、
  月の盃なりとても、
  戒(いまし)めならば保たんと、
  ただ一念の悟りにて、
  多くの罪を滅して、
  小野の小町も少将も、
  ともに仏道成りにけり、
  ともに仏道成りにけり

※『能楽名作選 上巻』より(本書は観世流を採用)