2018.7.5
映画「菊とギロチン」の原案となったギロチン社|中浜哲・ギロチン社
5:29 - 2018年7月5日
ギロチン社 (トップページhttps://bunkoku.exblog.jp/)
ギロチン社の活動 by bunkokutou | 2011-06-12 08:52
ギロチン社の活動
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映画「菊とギロチン」の原案となったギロチン社|中浜哲・ギロチン社
5:29 - 2018年7月5日
映画「菊とギロチン」の原案となったギロチン社https://t.co/ZmxCRBiWBg先頭で闘った人たちの肉声は断章となって、なかなか残らない。なら拾い上げて丁寧に紡ぐしかないだろう。ゴーマニズムのように書き換えてはならない。
— 龍 隆たつ たかし (@owarano1951) 2018年7月4日
ギロチン社 (トップページhttps://bunkoku.exblog.jp/)
ギロチン社の活動 by bunkokutou | 2011-06-12 08:52
ギロチン社の活動
中浜鉄と古田大次郎を中心とした活動組織がギロチン社。著名な会社へのリャク行為と資金獲得のための銀行員襲撃、大杉栄らの虐殺への復讐を目的とした労働運動社の和田久太郎(震災時の戒厳令司令官、福田雅太郎狙撃未遂)村木源次郎との共同行動、その後の爆弾使用が震災後の社会不安と相乗されネーミングも含め社会にインパクトを与えた。
1922年2月、中浜は埼玉、蓮田の小作人社に立ち寄り、古田大次郎と意気投合、同志的交流が深まる。 4月には社会変革のため死を賭した行動の盟約を古田と結び、中浜は来訪中のイギリス皇太子を狙うが断念。1922年10月、早稲田の戸塚源兵衛<現新宿区西早稲田>に大きな二階家を借り、翌1923年始めにかけ倉地啓司、河合康左右らが同居や出入り「ギロチン社」と名付けられた集団がたちあがる。
夏頃には関西に拠点を移し、分黒党とも名乗るが、中浜、河合が好んで使った。この時期のリャク行為が事件として扱われる。(中浜は高島屋呉服店、天満織物、実業同志会の件) 1923年、ギロチン社メンバーが警察に検挙され、古田は中浜らと身を隠す。
9月、ギロチン社は関東大震災での大杉たち活動家の虐殺に直面し、権力者や資本家を直接攻撃する行動に向かう。大杉虐殺を号外で知り「よし、思い知らせてやる」と決意する。田中勇之進の甘粕五郎襲撃の (殺人未遂)を起こす。
古田は小川と内田に手伝いを頼み 10月16日、小阪の十五銀行出張所の銀行員を襲うが現金の奪取を失敗したうえに、誤って銀行員を刺殺してしまい、東京へ向かう。中浜はこの件でも計画に関与として教唆(強盗殺人)で立件される。この頃、中浜は後に広く知られる「杉よ !眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。
古田、中浜たちは大杉虐殺の復讐を計画していた労働運動社の村木源次郎や和田久太郎と共同した活動も始め、ピストルや爆弾を獲得するため朝鮮に赴き、義烈団との接触をすすめる。古田は11月の半ば、友人の高島と一緒に京城に行く。後に中浜も合流。
義烈団に爆弾 10個、拳銃5丁購入を申し込むが入手できず、さらに資金確保のため、大阪に戻った中浜は 1924年3月30日(14日)リャクを行い、実業同志会事務所から出たところを恐喝犯として逮捕される。
1924年7月17日、東京に戻った古田は東京蛇窪の家へ移り自身で爆弾製造にとりかかる。
谷中の共同便所を爆破、青山墓地でも試す。
9月1日、和田は福田の狙撃に失敗、逮捕される。
古田は 9月3日の晩、和田が留置されていた本富士署に爆弾を投げるが不発、小包爆弾を製造し、郵送。
6日に福田邸で小包が爆発するが怪我人は無し。
翌晩は銀座の電車軌道にしかけ爆発するも損害は無し。
世間は騒然となるが 9月10日未明に村木源次郎と共に警察に捕まる。
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中浜の第一審は1925年5月5日の3回公判で死刑求刑。
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5月28日、無期懲役の判決。古田の第一審は1925年9月10日、死刑判決が出される。弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、 古田は死刑を受け入れ、控訴せず、同年 10月15日午前8時25分、絞首される。
古田の純真な思いが 表現された獄中手記『死の懺悔』が出版されベストセラーとなる。中浜は検事控訴により大阪控訴院で1926年3月6日死刑判決となる。上告せず、 4月15日午前10時に絞首された。
中浜は判決直後の 3月中には死刑を執行されると 覚悟、山崎今朝弥弁護士に辞世の歌を記したハガキを送る。
「弥生空 魏櫓枕高く 霞往く 黒蝶ぞ我 散る花に 舞う」
中浜の控訴審死刑判決や他の同志の過重な量刑の判決には多くの疑問がある。
中浜が構想していた集団の理念は以下の内容であった。
「此の集団は最初其処には、宣言もなく、一定の綱領もなく、従って運動に対する各自の部署とてもなかった。些の拘束をも厭う無政府主義思想であり組織制度をも認めず他人を支配して犠牲になることも肯ぜず唯自主自発的に自決して、相互に兄弟愛を持って、扶助し生活しようとしたのである。」(『獄中記』)。
しかし現実にはリャクを繰り返す事が目的化し、仲間たちの団結は薄れ、中浜自身も直接実行したのはリャク行為だけである。
メンバーの倉地啓司が後にギロチン社総体の目的に関して「当時の摂政宮への攻撃であった」と話している。 (『新過去帳覚書』71年刊)。しかし実行されずに、周辺には曖昧な話ながら洩らし、確かな計画からは程遠いものであった。
恐喝以外の実行に関与しなかった中浜にも死刑判決が出されたのは、イギリス皇太子や摂政宮へのテロリズムの意志に対しての報復判決で思想を裁いたと理解するしかない。
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中浜は「実際の神體 ──特別至上なる架空的権威を抹殺する為に闘争の力を以って…」(「闘争への道」) と獄中から寄稿した論文では天皇打倒を示唆している。またギロチン社の目的はテロリズムだけではなくコミューン建設をも遠い目的としていたことを中浜は示唆している。
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1922年2月、中浜は埼玉、蓮田の小作人社に立ち寄り、古田大次郎と意気投合、同志的交流が深まる。 4月には社会変革のため死を賭した行動の盟約を古田と結び、中浜は来訪中のイギリス皇太子を狙うが断念。1922年10月、早稲田の戸塚源兵衛<現新宿区西早稲田>に大きな二階家を借り、翌1923年始めにかけ倉地啓司、河合康左右らが同居や出入り「ギロチン社」と名付けられた集団がたちあがる。
夏頃には関西に拠点を移し、分黒党とも名乗るが、中浜、河合が好んで使った。この時期のリャク行為が事件として扱われる。(中浜は高島屋呉服店、天満織物、実業同志会の件) 1923年、ギロチン社メンバーが警察に検挙され、古田は中浜らと身を隠す。
9月、ギロチン社は関東大震災での大杉たち活動家の虐殺に直面し、権力者や資本家を直接攻撃する行動に向かう。大杉虐殺を号外で知り「よし、思い知らせてやる」と決意する。田中勇之進の甘粕五郎襲撃の (殺人未遂)を起こす。
古田は小川と内田に手伝いを頼み 10月16日、小阪の十五銀行出張所の銀行員を襲うが現金の奪取を失敗したうえに、誤って銀行員を刺殺してしまい、東京へ向かう。中浜はこの件でも計画に関与として教唆(強盗殺人)で立件される。この頃、中浜は後に広く知られる「杉よ !眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。
古田、中浜たちは大杉虐殺の復讐を計画していた労働運動社の村木源次郎や和田久太郎と共同した活動も始め、ピストルや爆弾を獲得するため朝鮮に赴き、義烈団との接触をすすめる。古田は11月の半ば、友人の高島と一緒に京城に行く。後に中浜も合流。
義烈団に爆弾 10個、拳銃5丁購入を申し込むが入手できず、さらに資金確保のため、大阪に戻った中浜は 1924年3月30日(14日)リャクを行い、実業同志会事務所から出たところを恐喝犯として逮捕される。
1924年7月17日、東京に戻った古田は東京蛇窪の家へ移り自身で爆弾製造にとりかかる。
谷中の共同便所を爆破、青山墓地でも試す。
9月1日、和田は福田の狙撃に失敗、逮捕される。
古田は 9月3日の晩、和田が留置されていた本富士署に爆弾を投げるが不発、小包爆弾を製造し、郵送。
6日に福田邸で小包が爆発するが怪我人は無し。
翌晩は銀座の電車軌道にしかけ爆発するも損害は無し。
世間は騒然となるが 9月10日未明に村木源次郎と共に警察に捕まる。
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中浜の第一審は1925年5月5日の3回公判で死刑求刑。
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5月28日、無期懲役の判決。古田の第一審は1925年9月10日、死刑判決が出される。弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、 古田は死刑を受け入れ、控訴せず、同年 10月15日午前8時25分、絞首される。
古田の純真な思いが 表現された獄中手記『死の懺悔』が出版されベストセラーとなる。中浜は検事控訴により大阪控訴院で1926年3月6日死刑判決となる。上告せず、 4月15日午前10時に絞首された。
中浜は判決直後の 3月中には死刑を執行されると 覚悟、山崎今朝弥弁護士に辞世の歌を記したハガキを送る。
「弥生空 魏櫓枕高く 霞往く 黒蝶ぞ我 散る花に 舞う」
中浜の控訴審死刑判決や他の同志の過重な量刑の判決には多くの疑問がある。
中浜が構想していた集団の理念は以下の内容であった。
「此の集団は最初其処には、宣言もなく、一定の綱領もなく、従って運動に対する各自の部署とてもなかった。些の拘束をも厭う無政府主義思想であり組織制度をも認めず他人を支配して犠牲になることも肯ぜず唯自主自発的に自決して、相互に兄弟愛を持って、扶助し生活しようとしたのである。」(『獄中記』)。
しかし現実にはリャクを繰り返す事が目的化し、仲間たちの団結は薄れ、中浜自身も直接実行したのはリャク行為だけである。
メンバーの倉地啓司が後にギロチン社総体の目的に関して「当時の摂政宮への攻撃であった」と話している。 (『新過去帳覚書』71年刊)。しかし実行されずに、周辺には曖昧な話ながら洩らし、確かな計画からは程遠いものであった。
恐喝以外の実行に関与しなかった中浜にも死刑判決が出されたのは、イギリス皇太子や摂政宮へのテロリズムの意志に対しての報復判決で思想を裁いたと理解するしかない。
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中浜は「実際の神體 ──特別至上なる架空的権威を抹殺する為に闘争の力を以って…」(「闘争への道」) と獄中から寄稿した論文では天皇打倒を示唆している。またギロチン社の目的はテロリズムだけではなくコミューン建設をも遠い目的としていたことを中浜は示唆している。
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