写真は孫娘のバラ、ボスコベル2日目
辻井さんのピアノを聴くといつも思う事がある。
私たちの耳って本当の音を聞いているのかしらと。
「聞く」と「聴く」の違い。
あらゆる音は意識しないで入ってくる「聞く」というか「聞こえてくる」が近いだろうか。
「聴く」は意識して耳をすます事。
聞くが聴くに変化することもあれば、聴くが聞くに変化していることもある。
とても耳のいい人とそうでもない人がいる。
同じ音を聞いてもどの程度に聞こえているか、聴力の問題ではなく心の傾け方で聞こえ方は当然変わってくる。
目を瞑ってみる。
1つの感覚を失うことで際立つ感覚があるように思う。
辻井さんが川のせせらぎや月の光をあらゆる自然界をテーマとした音を奏でる。
そんな時、私はいつも思う。
目が見えないことは目の見える人にはない「見え方」があると。
それがなんであるかは分からない。
間違っているかもしれない。
最近、ラジオを聴くことが多くなった。
今までにないことである。
そして感じること、言葉は目を開いて聴くより目を閉じて聴いた方が良く入ってくると。
音楽もコンサートなどで目を瞑って聴いている人がいる。
きっと余計なものの感覚が排除されて音だけが集中して聞こえて来るんだろうなと。
昔、谷川俊太郎の詩「耳をすます」の黄色い本が本棚にあったが、訳の分からん詩だな〜と関心が無かった。
が最近、読みたくなってきた。
私がその詩にようやく追いついたということかな?と思う。
いつのまにか手元になくなっていた。
捨てたんだろうか?
いや、仕事場の絵本棚に持って行ったに違いない。
強い音だけでなく、優しい音や弱い音、かすかな音、いろいろな音に耳をすまして生活してみたいものだ。
辻井さんに戻るが、辻井さんの目は美しいものであふれていると感じる。
どこかで感じてはいるに違いないが、我々が醜いとされるものは視覚では入ってこない。
この世の美しいものが音に表現されるのだから辻井さんの音がとりわけ澄んでいて美しいのはわかる気がする。
その音が人の心を浄化し、癒し、高みへと導いてくれるとしたら、それは大いなるものの力に相当する。
視力を失って生まれた事が、神様からの授かりものだと思うとその敬虔さに感動する。
知人の庭、カキツバタ
もう一つキッチンに立つ時に思う事がある。
この汚れを感じて落とす事は、視力がない人はどうするのだろうかと。
神様は目が見えなくても触覚という感覚を与えてくれた。
ゴム手袋をしなくて済む環境であったならこの汚れは指先で感じる事ができる。
洗剤で皮膚を痛めつけ、手袋で覆うことで感覚を弱め、泡立てればよく落ちるの日本の常識?にそんなに汚れてもいない食器を水の豊富な国に生まれたが故にできる大量の水の消費、時間をかけて自分の台所だけを気がすむまできれいにする。
これでいいわけがない。
お湯もある。
重曹もある。
布切れだって余るほどある。
これでキレイになる。
タワシやスポンジのない時代に、少ない食器を手ぬぐいやはし切れを使って代用した時代がそう遠くない昔にあったことを思い出してみるといい。
便利さが不自由さや悪さを引き起こすようになった。
知人の庭
便利さとの折り合いや調和がキッチンから社会へ、地球規模へ、そして宇宙へと視点を広げないといけない時代に入ってしまった。
耳をすまし、地球の声にも心を傾けてみたいものだ。
きっと聞こえなかった声が届いてくるはず。
決して幻聴ではなくw
知っていてもやめられないものが我々の中には無数に巣食っている。
そして1番よく知っている我々の世代、それを知る世代は年を経るごとに少なくなっている。
だから?と言われても困ってしまうができることを頑張ってみるしかないのだよ、a green hand さん。w
夫の説得さえ難しいのに。。