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a green hand

まだ終われないショパンコンクール

だいぶ日にちが過ぎ、心も落ち着き気になるピアニストの演奏を数回聴きながら感じたことがある。

気になるピアニストと言ってもやはり私は日本人。
反田さんと小林愛実さんのファイナルまでの曲を聴きたくなったのだ。

1位に輝いたリューのピアノソナタ第2番 OP35「葬送」をまず聴いてみた。

それで聴き比べるというわけではなかったが、直ぐに反田さんの「葬送」を聴いたところ
こんなにも表現が違うものなんだと驚いた。

音楽も一期一会だなと。
ピアノの音色、オーケストラ、指揮者、観客やホールの雰囲気など物理的なものから聴く側の置かれた環境や心のあり方で感じ方や感動の具合まで異なってしまう。

しかし、反田恭平のソナタ第2番であるが、深い精神性が感じられ言葉が出ない。

ピアノ協奏曲第1番を反田さんの3度目、小林愛実さんの6年前を一度、今年のもの2度目を聴いた。
ブルーツゥースで聴いていたが40数分を集中できるのは反田さんの「ピアノ協奏曲第1番」である。

リューのピアノ協奏曲第1番の最後の方を聴いて思ったことがある。
イタリア生まれのピアノファツィオリはキラキラと華やかな音を奏で指揮者も観客もリューの演奏に感動し、指揮者はブラボーと言いながら指揮棒を下ろしたように見えた。

私はその指揮者の姿に嫉妬を覚えた。

リューの演奏にではなく指揮者のリューに対する感動の仕草に嫉妬を感じたのだ。

反田さんの時には同じ指揮者に感謝こそしたはず。

人の好みも感想も全くの主観でしかない。
特に私のような素人の耳には。

もはやリューの音は純粋に私に届いていない。
凄い、素晴らしい、でも自分の耳で感じたのではないのだ。

私に目が無かったらと思い、聴覚だけで聴いてみた。
違う。

見えてることがどれほど偏見を持ちやすく、真実の音が聴こえなくなるか。
反田さんも小林愛実さんの音も弾く姿を観たのと、聴こえてくる音がまるで違って聴こえてくるのだ。

視覚を無くして集中して聴くピアノの音は奏者の心の音だと私の耳は思う。w
2人とも実に深く美しく私の耳に伝わってきた。

が、心で聞くなら聴覚だけでなく視覚がものをいうように思える。
一期一会のその時の音が伝わる。

私は余計なものをべたべたくっつけて物事を見たり聞いたり感じたりしているのかもしれない。
音楽だけでなく人との関係やその他諸々の判断基準が単なる「我」である可能性がある。
歳を重ねるとその辺も重なってくる気がしている。

虚飾を取り払い無になる事は結構できないものだと感じた日であった。

※今日26日、読み返して「ハッ?またしても未熟者」ピアノ協奏曲1番なのに2番と書いてしまったと気づいた。

作られた協奏曲の順番は2番だが1番なのだ。
はずかしいそして申し訳けありませんでした。






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