チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「江戸芝・愛宕(あたご)山」

2005年05月19日 17時16分34秒 | 歴史ーランド・邪図
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所在地から1kmと離れてないとこに、「愛宕山」はそびえ立ってる。
標高たった26mながら、朱引き内最高峰である。故長谷川恒男も、
アルプス三大北壁冬期単独制覇後、「愛宕山」の単独登頂に成功したとかしなかったとか。
それはともかく、「愛宕山」の「ふもと」には、東京慈恵会医大病院が鎮座まします。
「山」の土手っ腹には隧道が貫通しており、裏側の麓には、
巴町砂場や虎ノ門パストラルが存するのである。いっぽう、
「山頂」には「NHK博物館」があるが、NHK発祥の地であり、
最初の放送はそこから流されたのである。
さて、話は400年前に遡る。西暦で1600年、
上杉征伐に会津へ向かった家康は、小山ゆうえんちで大観覧車に乗り興じてたのであるが、
三成挙兵の報を受けるや、途中で飛び降りて、きびすをかえしたのである。
江戸に入ると、戦勝を祈願するにふさわしい場として、「小山」の観覧車から見つけといた
この「山」を選んだのである。その16年前、長久手で秀吉軍を相手にしたとき、
「土岐」定政に祈願させてたのが「愛宕尊」である。ときに、
京の西北に位置する(現在の京都市右京区嵯峨愛宕町)「愛宕神社」は、
雷神が祀られ、防火の神様とされてるのである。
のちに、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように、
火事が多かった江戸の町の「火除け尊」となったのである。それはともかく、
「火」といえば「本能寺」である。
家康は信長から嫡男信康を殺すよう強いられたのである。
その仇をとってくれたのは、明智光秀である。その「本能寺・妙覚寺囲い込み」
という「仕事ぶり」は、まさしくスラムダンク・マターである。
信長はもちろん、その「嫡男」信忠という「火ダネ」までも、
きっちりと消してくれたからである。この事前、
光秀は「おみくじ」を何度もひきなおした、という。それが、
京の「愛宕権現」の社前である。
「土岐はいま、あめがしたしる、殺気かな」
愛宕の「アタ」は、「アタラ」の「アタ」である。
「惜しい、モッタイナイ」の意である。
また、「仇、徒」の「アダ」というむきもある。いっぽう、
愛宕の「宕」は、放蕩の「蕩」と「音」がおなじで、代用されるのである。
「洗い去る、破る、壊す、やりたい放題にする」という意味である。
他方で、「比叡」と「日枝」は同一である。
「比叡山」は光秀ゆかりの山である。そこを信長は焼き討ちにしたのである。
「火」である。「日枝」はまた「日向」である。
惟任「日向」守とは、光秀のことである。叡山を火炙りにするとは、
じつにアサマしいことである。「浅間(あさま)」「阿蘇(あそ)」の
「as-」も「火」を意味するのである。平安京の「向日(むこう)」の
長岡に10年ほど都を置いたこともある帝もオ桓武リである。プンプン!
信長とJFKには、「誰もがぶっ殺してやると思ってた」という共通項がある。
いっぽうで、「愛宕」には「おたぎ」という「読み」もあるのである。
「お炊き」、つまり「火」である。
「おたぎ」→「小田木」(今年3月まで:愛知県東加茂郡稲武町、現在:豊田市)という名の地がある。
「おたぎ」とはなんとも「奇矯」な「読みかた」であるが、
そこは、県境を越えると岐阜県恵那郡の「明智町」なのである。
さらに、西北に向かうと、
「土岐」「可児」という「光秀ゆかり」の土地なのである。
「おたぎ」は「織田斬」り、という意味かもしれない。
他方、「日向」は東、である。
沖縄に多い名の「比嘉(ひが、ひか)」さんも「東」の意だとか。
正確には、「日向(ひむか)風(し)」→「東風」。
コチの別語の語源だそうである。
「コチ吹かば、匂ひおこせよ、むめの花。あるじなしとて、春を忘るな」
不遇な最期を遂げさせられて、天変地異がその祟りだと畏れられた天神様、
菅原道真が思い出されるのである。菅、須賀、である。
秀吉によって汚名を着せられた光秀である。そりゃそうである。
出世レースでいつも光秀の後塵を拝して「織田軍団次席」だったのが秀吉である。
光秀憎し、だったのである。それらはともかくも、
「日(太陽)に向かう」→「火に向かう」から、
「火消し」の神様ということなのである。
織田信長は本能寺の木材の火に炙られて死んだのである。ちなみに、
本能寺は種子島と強い結びつきがあったのである。
信長が種子島に強い結びつきがあったわけではない。
本能寺は法華宗の総本山である。
生前、信長は法華宗にバテレンと、そして、浄土宗と宗論問答をさせ、いずれも
「法華宗に敗北の判定を下し」、法華宗をコケにしてたのである。
さて、関ヶ原から3年。家康は征夷大将軍となり、
「芝愛宕神社」を江戸の「火伏せの神」として祀ったのである。その100年後、
江戸城中で刃傷に及んだ、とされる内匠頭が護送されて、地べたで腹を切らされた、
といわれてるのが「愛宕下」にあった、一関藩田村家上屋敷である。
同家は、仙台藩伊達家の親戚である。赤穂の浅野は広島の浅野の分家である。
「本家」どうし、「伊達」と「浅野」は、「不通の関係」なのである。
つまり、「仲が非常に悪い」、「絶交状態」ということである。
それも、秀吉の時代から明治まで変わることなく、である。
さて、「赤穂事件」があった「元禄」からさらに150年。
井伊直弼が季節はずれの雪の中で射殺され、首をとられた事件が起こる。
その犯人どもである旧水戸藩士ら(ひとりだけ薩摩藩士有村某)が集合して
「テロ成功を祈願」したのが、この「愛宕神社」である。
そこから、桜田門外に向かったのである。
それからさらに38年後、武力で徳川をコナゴナにしようと血気はやる
薩摩藩士らを「収束」させるきっかけとなったのが、この「愛宕山」である。
勝海舟は西郷隆盛を誘って、この「山」に登り、
「おいら、こんなにエレガントな江戸の町を戦禍に巻き込んじまうってなぁ、ごめんだよ」
「そうでごわす。おいどんも、しのびなか」
そうして、根回しが済んだあと、
「愛宕山」から江戸の美しい町並を三田判定での会見で、
「江戸無血開城」が決定されたのである。それからまた100年、
1967年に赤塚不二夫画伯によって描かれたキャラクターが、
「モーレツ愛宕」なんだニャロメ! である。ちなみに、
愛宕山は「火」からの守り神であるからして、その「東急イン」には、
プロレスラー時代の大仁田厚議員がよく逗留してたのである。
「ファイアー!」
井伊直弼がピストルでファイアーされてから100年後に開園した
「小山」ゆうえんちは、今年2月、閉園したのである。
♪○ド<ミッ<ファ<ラー>ファン>ミ<ラーーーーー♪

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