6月には小林亜星の倅(といっても52歳だが)が
女子高生にみだらな行為をしたかどで逮捕されたが、
今日はあのセクハラ疑惑の
「みのもんた」の次男(日テレ職員)が窃盗未遂で
とっつかまったらしい。
倅はキャッシュカードを盗んで法に触れ、
オヤジはTBS吉田明世アナの尻に触って、
というオサワリまくり一家である。
今年の9月11日はそんなnewsから始まったが、
9月11日という日は、
2001年の911や、1985年の夏目雅子女史の死や、
その同日のロス疑惑三浦和義逮捕とか、新しいところでは、
昨年の尖閣諸島(魚釣島・南小島・北小島)国有化、
といった記憶に残るできごとが多くある日附である。また、
1860年には当時の英国公使オールコックが外国人としては
公式には初めて富士山に登った日でもある
(万延元年7月26日)。いっぽう、
歴史上の人物の中で私が尊敬する数少ない人のひとりである
田沼意次の誕生日でもある(1719年≒享保4年7月27日)。が、
職業野球の世界でも、9月11日は
けっこうな記録が生まれた日である。
昭和12年に、現在の東京ドウムの前身ともいうべき
後楽園球場が開場した日でもある。同じく東京の
神宮球場や兵庫の甲子園球場はアマチュア向け主体のボールパークだったが、
後楽園はプロ仕様の球場だった。"こけらおとし"には、
当時のプロのオールスターによる紅白ゲイムが行われた。
紅軍の水原茂が球場第1号本塁打を放った。私のガキの頃は
親が読売新聞社にけっこうなコネを持ってたにもかかわらず、
日曜にいい席のチケットを取るのは至難だった。だから、
その中でも人気のない国鉄(産経)戦以外に
球場で観戦したことはあまりない。次いで人気のなかった
広島、大洋戦が数えるほどだけだった。ともあれ、
私のガキの頃のプロ・スポーチ施設といえば、ここと
神宮球場と東京球場と蔵前国技館と田園コロシアムだった。
東京ドウムになってからは数えるほどしか行ってない。
1992年の9月11日(金曜)には、
日本のプロ野球史上(現在も破られてない)最長のゲイムが行われた。
甲子園球場でのヤクルト・スワローズ戦で、延長15回の
6時間26分である。終了時刻は零時26分だったので、正確には、
日附は翌日にもまたがる。ちなみに、
阪神八木選手のフェンス経由のスタンド入り本塁打が、
ノムさんによる抗議で覆り、それに対する中村監督の抗議や
阪神ファンの騒動での中断37分が含まれる。結局、
試合は3対3の引き分けに終わった。
じつに無駄な延長である。
1985年の9月11日(水曜)には、
いわゆるシンシナティ・レッズのプレイアー=マネージャーの
Pete Rose(ピート・ロウズ、1941-)が、地元スィンスィナーティの
今はなきリヴァー・フロント・ステイディアムの対SD戦で、
タイ・カッブの通算安打4191本を上回る
1回裏の第1打席(左打席)にレフト前単打で4192本め、
7回裏の第4打席(左打席)にレフト線三塁打で4193本め、
にあたる2本の安打を放って
歴代通算安打一位になった日だった。ときに、
ロウズ、45歳。
観客の歓声が長く続く7分近くの中、
一塁ベイス上のロウズはときおり目頭を押さえた。その間、
打たれたエリック・ショウ投手はマウンドで体育座りをしてた。
ちなみに、
監督でもあったロウズは自ら2番ファーストとして出場した。
レッズにはビッグ・レッド・マシーンと言われた頃の選手は出戻りロウズの他に
コンセプスィオン遊撃手くらいしか残ってなかった
(ベンチにトウニ・ペレースはいたが、ジョニー・ベンチは客席だった)。
相手サン・ディエイゴウにはロース・アンジリーズから移籍した
ガーヴィー一塁手がいた時代である。
まだペイトリオット・デイでなかった時分の平日のゲイムなのに、
4万7千もの観衆がロウズの記録目当てに入場してた。ともあれ、
ロウズは3回裏の第2打席は一死後四球で出塁し、
3番パーカーのレフトへの"ポテン・ヒットで三塁まで進塁、
4番イサスキーの投手の足元を這うセカンド・ゴロの
ダブル・プレイ崩れで得点した。また、
7回裏の第4打席の三塁打のあとも、
3番パーカー敬遠、4番イサスキーのセンター犠打で得点し、
このゲイムで全得点をあげ、レッズが2対0で勝った。
ロウズは翌スィーズンまで現役を続け、通算4256本まで記録を伸ばし、
現在もそれは破られてない。ただし、
1989年の監督時代に自軍の勝ちに賭けてた野球賭博のかどで
MLB界から永久追放処分となった。
ストライク・ゾウンが低かった時代の選手のご多分に漏れず、
打席では体を極端にかがめて構える選手だった。
ユニフォームがはちきれんばかりの疑惑の体型を
カマキリのような格好のクラウチングの構えにして
短めのバットを手首を反して振る、という
バッティング・スタイルだった。
MBLにまったく関心がなかった当時の日本では、ロウズはその
ヘッド・スライディングで少しだけ知られてた。
記録を破ったロウズも破られたカッブも、
お世辞にも人格者といえるようなタイプではなかった。が、
メイジャー・リーガーとしてロウズはファン・サーヴィスには徹してたので、
1回裏に新記録を達成したときには、
観客からも同僚からも盛大な祝福を受けた。
花火まで打ち上げられた。ただしそれは、
星花火ではなかった。
……間断の、音なき空に、星花火 (海童)……
女子高生にみだらな行為をしたかどで逮捕されたが、
今日はあのセクハラ疑惑の
「みのもんた」の次男(日テレ職員)が窃盗未遂で
とっつかまったらしい。
倅はキャッシュカードを盗んで法に触れ、
オヤジはTBS吉田明世アナの尻に触って、
というオサワリまくり一家である。
今年の9月11日はそんなnewsから始まったが、
9月11日という日は、
2001年の911や、1985年の夏目雅子女史の死や、
その同日のロス疑惑三浦和義逮捕とか、新しいところでは、
昨年の尖閣諸島(魚釣島・南小島・北小島)国有化、
といった記憶に残るできごとが多くある日附である。また、
1860年には当時の英国公使オールコックが外国人としては
公式には初めて富士山に登った日でもある
(万延元年7月26日)。いっぽう、
歴史上の人物の中で私が尊敬する数少ない人のひとりである
田沼意次の誕生日でもある(1719年≒享保4年7月27日)。が、
職業野球の世界でも、9月11日は
けっこうな記録が生まれた日である。
昭和12年に、現在の東京ドウムの前身ともいうべき
後楽園球場が開場した日でもある。同じく東京の
神宮球場や兵庫の甲子園球場はアマチュア向け主体のボールパークだったが、
後楽園はプロ仕様の球場だった。"こけらおとし"には、
当時のプロのオールスターによる紅白ゲイムが行われた。
紅軍の水原茂が球場第1号本塁打を放った。私のガキの頃は
親が読売新聞社にけっこうなコネを持ってたにもかかわらず、
日曜にいい席のチケットを取るのは至難だった。だから、
その中でも人気のない国鉄(産経)戦以外に
球場で観戦したことはあまりない。次いで人気のなかった
広島、大洋戦が数えるほどだけだった。ともあれ、
私のガキの頃のプロ・スポーチ施設といえば、ここと
神宮球場と東京球場と蔵前国技館と田園コロシアムだった。
東京ドウムになってからは数えるほどしか行ってない。
1992年の9月11日(金曜)には、
日本のプロ野球史上(現在も破られてない)最長のゲイムが行われた。
甲子園球場でのヤクルト・スワローズ戦で、延長15回の
6時間26分である。終了時刻は零時26分だったので、正確には、
日附は翌日にもまたがる。ちなみに、
阪神八木選手のフェンス経由のスタンド入り本塁打が、
ノムさんによる抗議で覆り、それに対する中村監督の抗議や
阪神ファンの騒動での中断37分が含まれる。結局、
試合は3対3の引き分けに終わった。
じつに無駄な延長である。
1985年の9月11日(水曜)には、
いわゆるシンシナティ・レッズのプレイアー=マネージャーの
Pete Rose(ピート・ロウズ、1941-)が、地元スィンスィナーティの
今はなきリヴァー・フロント・ステイディアムの対SD戦で、
タイ・カッブの通算安打4191本を上回る
1回裏の第1打席(左打席)にレフト前単打で4192本め、
7回裏の第4打席(左打席)にレフト線三塁打で4193本め、
にあたる2本の安打を放って
歴代通算安打一位になった日だった。ときに、
ロウズ、45歳。
観客の歓声が長く続く7分近くの中、
一塁ベイス上のロウズはときおり目頭を押さえた。その間、
打たれたエリック・ショウ投手はマウンドで体育座りをしてた。
ちなみに、
監督でもあったロウズは自ら2番ファーストとして出場した。
レッズにはビッグ・レッド・マシーンと言われた頃の選手は出戻りロウズの他に
コンセプスィオン遊撃手くらいしか残ってなかった
(ベンチにトウニ・ペレースはいたが、ジョニー・ベンチは客席だった)。
相手サン・ディエイゴウにはロース・アンジリーズから移籍した
ガーヴィー一塁手がいた時代である。
まだペイトリオット・デイでなかった時分の平日のゲイムなのに、
4万7千もの観衆がロウズの記録目当てに入場してた。ともあれ、
ロウズは3回裏の第2打席は一死後四球で出塁し、
3番パーカーのレフトへの"ポテン・ヒットで三塁まで進塁、
4番イサスキーの投手の足元を這うセカンド・ゴロの
ダブル・プレイ崩れで得点した。また、
7回裏の第4打席の三塁打のあとも、
3番パーカー敬遠、4番イサスキーのセンター犠打で得点し、
このゲイムで全得点をあげ、レッズが2対0で勝った。
ロウズは翌スィーズンまで現役を続け、通算4256本まで記録を伸ばし、
現在もそれは破られてない。ただし、
1989年の監督時代に自軍の勝ちに賭けてた野球賭博のかどで
MLB界から永久追放処分となった。
ストライク・ゾウンが低かった時代の選手のご多分に漏れず、
打席では体を極端にかがめて構える選手だった。
ユニフォームがはちきれんばかりの疑惑の体型を
カマキリのような格好のクラウチングの構えにして
短めのバットを手首を反して振る、という
バッティング・スタイルだった。
MBLにまったく関心がなかった当時の日本では、ロウズはその
ヘッド・スライディングで少しだけ知られてた。
記録を破ったロウズも破られたカッブも、
お世辞にも人格者といえるようなタイプではなかった。が、
メイジャー・リーガーとしてロウズはファン・サーヴィスには徹してたので、
1回裏に新記録を達成したときには、
観客からも同僚からも盛大な祝福を受けた。
花火まで打ち上げられた。ただしそれは、
星花火ではなかった。
……間断の、音なき空に、星花火 (海童)……
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