チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「サリエリはモーツァルトが吉良いだったか?」

2005年08月18日 16時48分56秒 | 歴史ーランド・邪図
♪きみはオ~ボエてぇ、イル~~カしらぁ~~~。あのぉ~~~、
名残雪のように白いぃ~ブランコぉ~~~~~♪
という「白い」「blanco(西語:白い)」とをかけたダジャレ歌を
菅原ビリー・バンバン兄弟がまじめくさって歌ってたのを思い出す。
どちらが孝でどちらが進かわからないが、たしか、顔の造作の
ホリガー深いほうが兄の孝であったような気がする。ちなみに、
三和酒造CMソング「iichiko白書をもう一度」を歌ってたのは、
弟進だったか、もしくは、バンバンひろふみである。さて、大バッハや
オーボエ協奏曲で名を残したアレッサンドロ・マルチェッロが死んだ年に生まれたのが、
アントーニオ・サリエーリである。「サリエリ」という人物は、
1800年前後デケイドのヴィーンにあって、最高権威者であったそうである。対して、
やっと最後に聖シュテファン教会の無給の副楽長職を手に入れたのが、モーツァである。
この両者を扱ったプーシキンの詩劇的な作品があるのだそうであるが、
「チャイコフスキーとリムスキー=コルサコフ」の関係は、それとはまた異なる。
「モーツァルトとサリエリ」は、前者に才があって名がなく、後者に才がなく名があった。
「チャイコフスキーとリムスキー=コルサコフ」は、
前者に才も名もあり、後者にはどちらもなかった、のである。それはともかくも、
諷刺筋「モーツァルトとサリエリ」にいえることは、
「塩」の城下町「スェツ」ブァク(「ザルツ」ブルグ)で生まれたモーツァートと、
「塩」という名を持つ「サリ」エーリ、
を対比させたとこがミソなのだということである。
「天はモーツァートの上にベートーフェンを創らず、
 ベートーフェンの下にモーツァートを創らず」とサリエリ。
福澤先生が引用した「米国独立宣言通牒」、つまりはトマト・ジェファスンの言葉である。
ときに、トマトはかつては「観賞用専門」であった。毒だと思われてたのである。
本格的な食用になったのはつい2百年くらい前のことらしい。
当初は、「塩」をかけて焼いた「焼きトマト」が主だったようである。ちなみに、
大農園主の倅だったジェファスンは、地元ヴァージニア州大泉学園にある
都民農園にトマトを赭土植エルして食してたとか食してなかったとか。
さて、「塩」である。日本もつい8年ほど前までは「専売制」であった。
蜂須賀家徳島藩が阿波藍の専売政策で藍の全国シェアを築いたの以上に、江戸時代も、
「塩」は重要な産業であった。が、赤穂吉良事件の原因が、ちまたで書かれてるような、
赤穂塩の饗庭塩に対する優位をニガニガリしく思ってた吉良の浅野イジメ、というのは、
どうかと思う。吉良の領地は現在の吉良町あたりだったらしい。が、
4千石という「旗本なみ」の知行高の常として、細かく飛地になってたそうである。
そして、吉良の領地内では「塩」は作ってなかった、という説もある。
私の推理は以下のごとくである。
吉良は立派な殿様だった、と言われだされて久しい。その善政のひとつに、
「黄金堤」の築堤というものがあげられてるようである。
吉良の領地のあたりの水田はいくつかの川が氾濫して洪水を起こす場所だったそうである。
吉良は治水を行い、堤を築いて流れを西の矢作川に繋いだのである。
工事を完成させた吉良は領民には慕われた。が、この堤によって、
今度は矢作川の少し上流にあたる西尾藩の水流が悪くなり、
そちらが水害を被るようになった。
そこで、吉良は西尾藩と交渉して解決した、ということになってるようである。
それでも、吉良のごり押しがまかりとおったとしたら、
西尾藩は相当な恨みを持ったと考えられる。ここでひとつ、
「西尾」というのはもともと「煮塩」だったという説がある。それから、
矢作川の河口で製塩をしてたのは、遠く上総大多喜藩の飛地領内だったらしい。
これは本多忠勝という徳川四天王が徳川政権初期に
大多喜に入った事情があったからかもしれない。それはともかく、
赤穂吉良事件当時の「西尾藩」主は土井利意(どい・としもと)であり、
「大多喜藩」主は阿部正春(あべ・まさはる)である、ことを記憶に留め置かれたい。
さて、土井利意は稲葉家からの養子である。稲葉家と阿部家はともに、
大久保家が冷遇された時代の小田原藩を治めた譜代であり、「徳川連邦」の国政を司る
老中を輩出してる家である。土井利意自身は後年、寺社奉行にまで昇りつめた。
ときに、徳川幕府仙台藩の祖伊達政宗は天正期の伊達家の本拠地「米沢」生まれである。
元禄当時の「米沢藩」主は上杉家である。当主は吉良の実子が養子に入ったものである。
外様伊達家と外様浅野家は、代々「不通」の間柄=絶縁状態・犬猿の仲、である。
江戸時代、塩の専売に強かったのは、仙台藩伊達家と金沢藩前田家のふたつ。
前田家は浅野家と親しい関係である。また、
譜代阿部家の家紋は「違い鷹の羽」、しかも、外様のしかも分家の分際である
赤穂浅野家とまったくオソロな「丸に左重ね違い鷹の羽」である。そして、
譜代土井利意から3代のちの土井家当主には、仙台藩伊達家から養子が入ったのである。
「殿中刃傷沙汰後の内匠頭」が移送された先は一関藩田村家の屋敷である。
同家は仙台藩伊達家の親戚(ほとんど分家)である。
策士なら以上のような素材からこんな策謀図を描かないであろうか。
「浅野殿、吉良殿が『内匠頭は女色を好み、見栄えよきおなごを調達する奸臣のみを重用し、
自身は学問もせず政治も司らず、昼からエッチに惚けてる』と言いふらしておりますぞ。
上様のお耳にも入ってしまったとか……」と囁いてこい。
浅野内匠頭は「悲劇の殿様」として、芝居では
「塩」冶判官(えんや・はんがん)に置き換えられて今もヒトビトに親しまれてるが、
黒幕の「操舵」は、こんなふうに「て←だ←い」に指示を与えるだけだソーダ。
いっぽう、当時の仙台藩伊達家の当主伊達綱村は、伊達お家騒動のときの亀千代である。
この騒動の発端は「先代」綱宗が「放蕩三昧(どこかで聞いたふうな醜聞だ)」のかどで
蟄居させられ、幕府の監視下に置かれたことにある。騒動の決着を仕切ったのは、
下馬将軍と称された酒井忠清である。同人は、のちに赤穂吉良事件を処断することになる
綱吉、の将軍就任を阻止しようとした人物である。それはさても、
亀千代は綱村となり、40年余の時が過ぎる。そして、
赤穂浪士が吉良邸襲撃を決行する年に、「家臣らによって」隠居させられたそうである。
伊達家の家臣団はサヴァイヴァル術の達人である。ちなみに、
モーツァートは身だしなみに気をつかい流行に敏な伊達男だったそうである。
ゲイのチャイコフスキーも同様に身だしなみにはうるさいのである。

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